山の兵力
二○、山の兵力

応仁の乱(西暦1467年より1477年まで)後、天下は麻の如く乱れ英雄はく物如く起こり、弱肉強食の血腥い所謂戦国時代となったが、当時この地方の重なる豪族は、草野・高橋(以上三井郡)、溝口・黒木・河崎・邊春(以上八女郡)、星野・問注所・麦生(以上浮羽郡)、安武・堤・蒲池(以上三潴郡)、三池・田尻(以上三池郡)など合従連衡がっしょうれんこうの術策を弄し城地の呑噬どんしょうを事として居た。高良山に於いても時勢に促され、或は自衛の必要上、従来の衆徒は何時しか次第に専門の戦士と代わり、天険を利用して、城砦を堅め、座主・大祝・大宮司等各々一城の主と匹敵するの勢いであった。加うるに神佛を背景とせる是等の勢力は断然他の豪族を凌ぎて、座主が高良山系の全権を握り、政治的にも宗教的にも全ての支配権を克ち得たのも此の頃からである。特に是等の優越権を占め得た座主は第四十四世良寛、第四十五世麟圭りんけいの兄弟で、良寛が弘治二年(西暦1556年)父鎮興の跡を襲いでから、圭が天正十九年(西暦1591年)毛利秀包もうりひでかねに誘殺される三十五年間は、高良山史中の最も血腥い頁である。其の頃大祝には鏡山安常があり、大宮司には宗崎政基・子孝直、神管領に稲員安武・安守・安直があり、各々兵杖を蓄え武事を事として居たが、其れ等の勢力は到底座主の右に出でる事は出来なかった。 其の頃高良山にどれ位の兵力があったか。それに就いて厨家所蔵「高良山諸氏名宇録」中、天文廿二年(西暦1553年)の条に次の百七名が列記されている。

宮野二郎四郎 平籐九郎 木下二郎三郎 高野石見守 御厨九郎衛門 同九郎五郎 中野主税助 隈内 蔵助 野中冶部丞 篠原弥七郎 青木杢衛門 富福右京亮 舞屋馬之助 北林右京入道 同宮内丞 厨上総入道 中野勘解由 金子八尋常陸助 同治部 石井杢之助 古賀近江守 弘津新左衛門 同大膳 小椎尾右近 久良木新三郎 渡邊三郎 草野宮内 尾和民部丞 権藤 向土佐守 同大隅 油布惣衛門 金子 遠藤 吉永善左衛門

小執忠兵衛 平原 城新次郎 西村左馬之助 瀬戸島 中村治郎 原大和守 吉常  西村但馬 橋本九郎三郎 立山掃部 山本七郎 立岩右近 森二郎四郎 明石越後  八田主馬 田島太郎四郎 俣間主計 堺平左衛門 中垣杢之助 富本弾正 横田九郎衛門中野佐渡 同餘三 西泉山城 志波大和守 中村兵部 倉崎 高村 石井弥三兵衛 大坪近藤民部 蒲浦太郎三郎 高田太郎 岸藤兵衛 仲衛門 堀内左門 川越新左衛門 大炊助 笠善左衛門 同刑部 西泉籐左衛門丞 今村越後 陳織部 矢富 杉原 羽田 江上和泉 安田 庄崎 赤星 有馬 一木源三 谷扉 平田邊 用丸 古賀 合原兵部 内蔵人 新原 麦生左京 山田秀由 諸富四郎兵衛 清右衛門 相馬 浅原 梅野修理 渕上七郎兵衛 千斗中左衛門 津留主殿 内山源蔵

尚十七年後の永禄十三年は左の六十三名である

橋本左京 益永隼人佐 小塩出雲 進藤神五左衛門 赤司駿河守 同新左衛門 同主殿介 同治部之丞 志波太郎三郎 同馬之介 古賀安芸守 小堤左近 中山兵部 井手美作入道 同民部之丞 中島備後守 森光伊豆 同弥十郎 坂井図書 同丹後 本司蔵人 陸田式部 馬見塚修理 蔵鉢藤次郎 中村藤三郎 同伊豆 中野蔵人 青木次郎五左衛門 倉成左京亮 中野民部左衛門 同備前 立石大蔵之丞 原宮内丞 同因幡守 上野 樋口左京 篠原左近 仲間外記 生津與助 藤吉市之丞 田島伊豆守 猪口新左衛門 山本河内神田主馬之助 緒方治部 同兵衛之丞 鮎川弥右衛門 御厨忠兵衛 吉永善左衛門 浅原掃部守 内山弥十郎 俣間四郎左衛門 森田対馬守 田中太郎三郎 秋吉民部左衛門 高田刑部 吉田弥二郎 今村中務 井上清三郎 宮野主水助 原口刑部丞 草野十郎 草場隼人

是等は皆名ある武士でその下には尚多くの所謂雑兵が居た筈である。「神職其他守衛の武士山中山下千三百餘家」玉垂宮略記」とか「衆徒行者千有餘人」(陰徳太平記)とか云われて居るのから見れば、時によって人員の移動はあったと居ても此頃千人以上の兵力を持っていた事は確かである。

     ○

ぬれせぬや笠着ぬ顔に照る紅葉

目次へ 二一、山の領地へ