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津福・安武校区の文化財

文化財

昭和60年、久留米市安武町と佐賀県北茂安町との間の筑後川に、延長501mの可動堰「筑後大堰」が完成しました。灌漸・都市用水として筑後川より取水された水は、筑後地区だけでなく遠く福岡市までをも豊かに潤しています。


安武・津福校区一帯

ここに紹介する安武・津福校区一帯は、筑後川が有明海に向けて大きく南に蛇行する部分に位置し、古代から幾度となく洪水の被害を受けたと同時にこの地に豊かな±壌をもたらしました。最近まで風景として残っていた道路や畦、クリークなどの景観が、農地改良事業などによって大きな変化を遂げました。
 昭和61年より本格的に始まった安武地区の圃場整備事業に伴う埋蔵文化財の発掘調査によって数多くの遺跡が発見されました。中でも縄文時代の狩リのための落とし穴が多く見つかった庄屋野遺跡、弥生時代の一大集落であった塚畑遺跡、奈良〜平安時代では市指定史跡となった野瀬塚遺跡や、多くの墨書土器が出土した念仏塚遺跡などの発見は、不明な点が多かった安武一帯の古代の様子を知る重要な手がかりとなりました。また今も残る北山古墳は、安武・津福校区内にある古墳の中では唯一、発掘調査が行われ、貴重な土器が出土しています。

 

鎌倉時代

鎌倉時代になると「安武村」や「津福村」などの地名が古文書に登場するようになり、戦国時代にはこの地域で勢力を張っていた安武氏の居城である海津城などの名前も見られます。汀戸時代には久留米城と柳河城とを結ぶ柳河往還(現在の県道久留米・柳川線)や、府中(今の御井町)へ向かう府中道などの道路網が整備され、元禄年間(1688-1703年)に柳河往還沿いに築かれた目安町の一里塚は、市内で唯一残るものです。 筑後大堰

現在、安武・津福校区の文化財は、一般に知られているものが少なく、課題が残されていますが、今後、調査が進めば新たな発見や情報を提供できる可能性があります。地域の歴史を知る手がかりとして、あなたもこの『文化財マップ』を活用してみませんか?

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