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山川校区の文化財

文化財

山川校区の文化財山川校区は高速「九州道」の東に位置し、南は高良山北麓、北は筑後川に接しています。山川町と太郎原町にまたがり、東部土地区画整理事業によって、旧山川町の北半分は昭和62年に町名変更され、今日に至っています。
 最も古い人々の営みは、約二万年前もの旧石器時代に遡ります。筑後川そばのやや高まった所にある安国寺遺跡野ロ遺跡から石の道具類が発見されています。続く縄文時代は、約8,500年前の早期から約3,O00年前の晩期まで、安国寺・野ロの各遺跡において繰り返し営まれた生活跡と数多くの道具類が見つかっています。


弥生時代の遺跡

 川近くの微高地に営まれた墓地(史跡安国寺餐棺墓群大島遺跡)と高良山北麓の斜面地に展開する集落(新婦遺跡山川南本村遺跡など)に分れています。惜しくも実物は現存しませんが、大島遺跡では市内で数少ない「銅剣」が江戸時代に見つかっており、青銅器文化の波が本校区内にも押し寄せたことがうかがえます。
 高良山北麓には多くの古墳群が築かれており、東方の山本・草野方面へと連なっています。しかし、古墳の調査例は七曲山古墳群のみです。この時代の集落は弥生時代と同じ山麓斜面に営まれると共にJll近くの微高地にも広がりを見せます。旧本書記』に記された天武の筑紫大地震(679年)の震源となった水縄断層が山裾を横断し、山川前田遺跡からその一部、追分断層の痕跡(地面のズレ)が見つかりました。現在国の天然記念物に指定され、永久保存が図られています。また、平安時代の郷名仁して記録に残るr神代」の地名も存在し、校区の開発が早くから行われていたことを示しています。

鎌倉時代には、

 筑後川の渡河施設であった「神代の浮橋」が古い絵縁起に描かれ、それを管理してた神代氏の屋敷跡があったようです。南北朝期には安国寺が創建され、高良山近くに古宝殿城吉見岳城・鶴ヶ城などの山城が築かれました。校区北半分一帯は、古代以来の条里制地割の名残が認められ、御井郡と山本郡の境界ラインが推定されています。豊後へ通じる山辺の道沿いに、元禄八年(1695)建立の郡界標が今も残っています。
 このように、山川校区には国指定の重要な史跡を含むたくさんの遺跡があり、ふるさとの歴史に接するにふさわしい所といえましょう。このマップを手に、歴史探検をしてみてはいかがでしょうか

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