安長寺境内図

境内図

 甘木を歌った歌の一つに尾籠晴夫作詩作曲の甘木小唄があり、その中に次の歌詞があります。
  雪の甘木に初市たてば 買うて戻ろか 豆太鼓
  昔恋しい 昔恋しい 音がする
 この歌詞は毎年一月のなかごろに開かれている「バタバタ市」の風景を歌っているものです。
 昔は甘木で定期的に日を定めて物々交換の市がたち、方々から多くの人が集まりました。中でも正月の十八日から七日間の市は初市と呼ばれ、もっとも賑わっていましたが、その市が変形して今に伝えられています。
 この初市のことを、「バタバタ市」と呼ぶのは、初市の日に安長寺の境内で痘瘡除けの「豆太鼓バタバタ」が売られていることに因むものです。
 「豆太鼓バタバタ」には、福相の愛らしい童子の顔が描かれています。この童子は安長寺のご本尊で奈良朝の時代に満慶上人の作と伝えられている「延命地蔵菩薩像」の申し子といわれています。
 「豆太鼓バタバタ」を産室に置くと、胎児の発育がよく、生まれる子供の目鼻立ち、四肢に至るまで均整が取れると言われています。また、これを、床の間などに飾ると、その家に幸運が訪れることが多いと言われています。
 「豆太鼓バタバタ」は、真竹を割って柄を作り、竹ひごを丸く曲げ、秋月和紙を二重にはり、紙太鼓の形にしたもので、さらに左右に大豆を吊り下げたところにその特徴があります。
 柄を両手に狭んで回すと、大豆が鼓面を打って、「バタバタ」と軽い音がするので「バタバタ」と呼ばれており、古謡にも、「バタバタと豆で音する福の神」とうたわれています。
 「豆太鼓バタバタ」は柄長ニメートル鼓径一メートルに及ぶ大物から柄長5センチメートル程度のミニサイズまで、大きさは千差万別でありますが、デザインは皆同一で、太鼓の表は安長寺本尊である矢田延命地蔵尊の申し子といわれる童子の顔を淡彩色で描いています。裏面は童顔が濁らないようにとの願いから純白のままになっています。 この「豆太鼓バタバタ」は古来から地方色豊かな郷土玩具として普及されており、日本玩具協会にも登録され、国の内外に広く知られています。
豆太鼓
豆太鼓バタバタ
  このように、甘木の郷土玩具豆太鼓バタバタや、甘木のバタバタ市や、その原点である甘木山安長禅寺は、千古の昔から今日まで、子授けから、安産、育児、健康、操行、学業、受験等、子供の成長に関する一切の守り本尊として、多くの人々から崇敬されてきました。
 そればかりではなく、この甘木山安長禅寺の前にできた門前町が発展して、現在の甘木市ができたという、市街と地名の発祥源でもあります。
 この古刹が創立された年代については、多くの文献が明らかではないとしていますが、史家 故 緒方伝先生は永年の研究にもとずき、醍醐天皇の延喜年間の末ごろ(九百十九年)ではないかと、推定されておられます。
 一千余年におよぶ歴史を重ねた古刹はきわめて僅少であり、郷住の地に、このような古刹をもつことの意味を噛み締めながら、臨済宗東福寺派、甘木山安長禅寺の概容について触れて見たいと思います。

二 安道と安長

 安長寺の縁起によれば、昔南都に「甘木遠江守安長」という豪士がいて、この方が安長寺を創建されたということであります。安長の父は安道と言う方で、早くから仏教を信仰していました。子の安長が幼いころ天然痘を患い、その命が差し迫った状態になったとき、安道は煩悶し、平素から信仰していた生駒郡矢田の金剛山寺に参篭し、霊夢を獲て、其のおかげにより、安長の病をなおすことができました。
 その後安長はその食邑〔領地〕であった筑前夜須郡に住まいを移しましたが、幼時の霊護に報いたいと思い、生駒郡矢田の金剛山寺から地蔵尊を拝請し、法相宗の伽藍〔大寺院〕とその寺邑、〔門前町〕を創建されました。
安長寺山門

  甘木市の地名と甘木安長寺の山号は、創建者「甘木遠江守安長」の名を取ったものと言われています。
 このことについて、地方の古記録には大同小異の記事があります。その一つ「甘木根記」と言う古文書には次の様に記されています。
 中古甘木安長なる人あり  次男一女あり  一女疱瘡に死し  次男また安からず  安長矢田の地の地蔵尊に祈りて  その病癒ゆ  よってその邸宅氏名を捨てて  安長寺を創立す
 また「甘木烟草種」という古文書には次の様に記されています。
 安長南都の士にして  九州数郡を領する人ならば  その氏名あるべきに見えず  この地の領主か  またはその昔長者と称する類か
とこうした古記録を基礎として、史家故島田寅次郎先生は、その著「甘木安長寺考」の中で、次の様に述べられておられます。
 余案ずるに甘木安長は荘園管理のため南都より来たりしにあらざるか。抑も荘園の起源は班田の制度を維持するため 奈良朝以来荒蕪地の開墾を奨励せしに始まり  爾後  各種の弊習を生じてついに権門勢家が土地兼併の風を馴致し  私有の土地にて租税を納めざる荘園なるもの  至るところの諸国に散在するにいたれり。加うるに当時より帝王以下仏教帰依の盛んなりし為墾田の諸寺に施入せられることおびただしく  寺家の荘園また全国に広まり国によりてはこれら荘園の面積は公地公田よりかえって多かりし事実さえ出現せしことあり  安長の南都よりきたれる。蓋し藤原氏もしくは興福寺薬師寺法隆寺等法相宗大伽藍の荘園地ありしことを推想しうべき理由あり。
 天平十八年の法隆寺の資財帳には、法隆寺の荘園が全国に四十六ケ所も記載されていたということでありますが、これらの荘園は国司 ―地方長官―の管轄外であったので、荘園を所有する権門家や社寺はこれを統括する管理者を地方に派遣する必要がありました。
 このようにして荘園管理のために地方に赴いた人々がまず心がけたことは、赴任した荘園地の人心を収攬することでした。そしてそのために神社仏閣を創建する習しがありました。甘木安長が南都から西下したことには、このような背景があったものと思われます。
 江戸時代迄庄屋という職名があり、今日の町村長のような仕事をしていましたが、もともとはこの庄屋というのは荘園の収穫物を貯えたり処分したりする人の職名を指したものでした。
 大分県日田市の大原八幡宮の古文書に寄付状というのがあり、その中に「筑後夜須の庄内田地五十町云云」と書かれていることや、甘木市龍泉池付近の地に「京田」という字があること、またその付近に「本庄町」や「庄屋町」という地名が現存していることは、いずれも甘木と荘園の関係を示しているものです。
 甘木安長の子孫のことや、その墳墓のことについての伝説は、全く残っていませんので、恐らく晩年南都に帰ったのではなかろうかと伝えられています。
 安長寺に「宝珠院遠山安長大居士」と書かれた位牌がありますが、古仏教の時代には位牌はなく、位牌は禅宗から始まっているので、この位牌は、安長寺が禅宗に改宗した後に製作されたものであろうと推察されております。宝珠院は安長寺にあった塔頭のことで往古四重町にあったと伝えられていましたが、どこであったのか不明のままとなっております。
 安長寺創建時の宗派「法相宗」は「諸法の性相を判決する宗派」で、孝徳天皇の白雉四年に僧道昭が入唐し、玄奘について学び、これを我が国に伝えたもので、藤原氏の菩提寺である興福寺、聖徳太子建立の法隆寺、薬師寺等の名刹はみな法相宗の寺院です。
 「甘木記聞」という古文書に、次の一文があります。
 七日町付近の田の字に西泰寺あり  西泰寺のあとは安長寺法相宗の時の末寺なりしと
 これはかって安長寺が法相宗であったことの記録です。

三 矢田の地蔵菩薩

 歴史の古い神社仏閣の縁起には霊異の伝承が多く伝えられていますが、安長寺の本尊である矢田の地蔵尊についての伝承が「元亨釈書」という本に書かれております。
 この本によりますと、第五十二代嵯峨天皇の時代小野篁がいったん仮死してあの世に行き、あの世の王に拝謁しました。王は「人界に高僧ありや」と問うたので、篁はその師満慶の高徳を称えましたところ、王は篁に命じて満慶和尚を呼びました。満慶和尚は王に拝謁して菩薩戒を授けたところ、王は大変喜んで満慶に地獄の視察を許しました。満慶は阿鼻城にゆき、地蔵尊が万霊の苦を救助される姿を見て、その姿に礼拝しました。地蔵尊は「満慶が人界に帰ったら、衆生が、罪を犯さないように、諭して欲しい。」と、依頼したそうです。もう一つの古書「矢田金剛山寺の縁起」によりますと、満慶があの世に行ったのは弘仁六年九月二十七日であり、十月五日には矢田に帰っております。人界に帰った満慶は、自分で地蔵尊の像を刻んでみましたが、なかなか思うようにでぎず四苦八苦していると、どこからか老翁四人が現れて、梧桐の聖木を選び、三日三夜かかって面目躍如とした像を作り上げたそうで、この像が矢田の地蔵尊だと言われております。
甘木山安長寺の地蔵尊は、この矢田の地蔵尊と同作中の一体であるのか、またこれを模したものか、明らかではありませんが、古伝の秘仏として崇敬されており、七年に一度開帳することが例となっていました。

矢田の地蔵菩薩
矢田の地蔵菩薩
本堂前の狛犬
本堂前の狛犬
(神仏混淆時代の名残り)

 このご本尊については開山以来今日まで、戦乱兵火にも焼亡毀損の記録はなく現在に至って居ますが、ただ火災の折後光は焼失したこともありましたが、このことについて第二十四代方丈実道和尚は、「甘木が旱魃の際にはこれを舁きて龍泉池に投ずるの伝統行事あれば、仏体の堅牢を期するため、これが修繕については、原形の多少の異同は免れない」と言明していたそうです。
ご本尊地蔵尊像の修繕について安長寺縁起には次のように記されています。
 

文禄二年

博多 猪熊重元

修飾

 禅曙

文禄七年

京都にて

修飾

 九代徳峰

明治十一年

筑後の仏工

修飾

 憩堂

明治三十一年 

筑後の仏工

修飾

 憩堂

 

目下金色を装えど以前は黒色なりしという

 安長寺のご本尊が奈良時代に満慶和尚の手になる延命像菩薩像であることは、さきに述べた通りでありますが、地蔵菩薩という仏様はどんな仏様なのでしょうか。
 仏法の世界では、お釈迦様の入滅後、弥勒菩薩様が人間世界に出現されるまで五十六億七千万年という永い無仏末法の時代があるとされています。
 この無仏の時代に「人間はまだ三界を出ず、火宅の苦しみを免れぬ者全部をお前の手にまかすから、救いの手を差しのべて下さい」というお釈迦様のお言いつけによって、お地蔵様が此の世に現れ、いろいろな名のついた地蔵菩薩に変化され、人々の悲しみや苦しみを救い取られるということです。
 梵語ではクシテイ・ガバルといい大地の根源を意味し、万物の生物を救済するする仏として説かれています。
 地蔵は浄土には住まず、人々の間に交わり、大慈悲をもって罪人の苦しみを替わって受けられるので、身代わり地蔵・泥付き地蔵・矢取り地蔵・将軍地蔵・延命地蔵・腹帯地蔵・子育て地蔵など、無数の身代わり地蔵が民衆によって創り出されています。
 また道守地蔵など辻辻の道祖神などとも習合して、身代わり的現世利益とともに、来世救済の面も兼ねそなえ、日本人にとっても親しみの深い菩薩であります。
 延命地蔵経によれば地蔵の十福といって、地蔵尊を信仰すれば十種の福徳が得られると言われています。
―女人泰産・身根具足・衆病疾除・寿命長遠・聡明知恵・財宝楹溢・衆人愛敬・穀物成熟・神明加護・証大菩薩―
  縁結地蔵尊堂の伝承
縁結び地蔵堂

縁結び地蔵堂
  世界名作全集に「母をたずねて三千里」どいう物語があり全世界の少年少女の涙をながさせていますが、この物語に似た話が、わが安長寺にも伝承されています。
 安長寺の山門を入り参道の半ばから左折した所に「結縁地蔵尊堂」があります。
 このお堂は元禄十六年に、二十年近く母を捜し求めて全国を巡礼していた豊後の人が、甘木山安長禅寺の前でやっと巡り会えたのを感謝し、沙門となり境内に勧請建立したのが、このお堂です。
 この堂内にある「筑前鈴」はその時に衆生の福縁を呼ぶために奉納したと伝えられて居ます。
 今も残るこの地蔵尊の礎石には、次のように刻まれています。
  願主  豊後州菖洞沙門  雷州  各各結縁信者男女等
      甘木山安長禅寺沙門  大通慧潤
        元禄十六癸年
 このような由緒をもつだけに、善縁を結び、悪縁を除く霊験もあらたかで、信心するもの引きも切らず、花の蕾がよぶ春風のような、筑前鈴のあたたかくかろやかな音が、今日も福縁を呼び込んで居ます。
 この堂には、また次のような献詠歌があって、人生の奥義を覗き見るようであります。    

  かけわたす  仏のみ橋  過ぎも来て        結ぶえにしの  尊かりける

 この御堂は長い年月の間に何度も建て替えられていますが、現存する御堂は昭和四十二年九月に甘木市本町の林田守氏が寄進したものです。林田氏がこの御堂を寄進された経過については昭和四十二年九月士二日の読売新聞に詳しく記載されていますので、ここに転載いたします。

  野ざらし地蔵さん社長さん寄進
     甘木市安長寺  焼けて半年ぶり
甘木市八日町の安長寺(古泉洞雲住職)境内にあった結縁地蔵尊はさる3月、信者のともしたロウソクの火がもとで火事にあい木造のお堂は焼け落ちたまま野ざらしとなっていたが、信心深い町の人たちの善意でこのほどコンクリート建てのモダンな地蔵堂が完成した。
 「善縁を結び悪縁を除く」のに霊験あらたかといわれるこの地蔵は元禄十六年、二十年近く母を捜し求めて全国を歩いていた豊前(大分県)の人が、やっとこの寺近くでめぐりあえたのを感謝して同寺内に建立した。古くから信心する人が多く同市には地蔵婦人会までできている。
 ところがさる三月、火事にあい境内のクスの大樹の下で野ざらしとなっていた。
 この話を聞いた同市、会社社長林田守さん(四八)は六年前なくなった母トイさん(当時六十七歳)が臨終の間ぎわまで深く信心していた地蔵尊だけにさっそくお堂の寄進を思いたち古泉住職や地蔵婦人会の人たちの了解をえて建築した。


四 安長寺のご創建

 安長寺はいつ頃建てられたか分からないという説もありますが、これはそれ程古いということです。もう一つは甘木安長の生存について確定する点証がないことにあります。しかし、安長寺創立の動機となった天然痘については、「続日本紀」によれば奈良朝聖武天皇の天平七年=七三五年にインドから中国・朝鮮をへて日本にはいったのが最初であるので、起点はそれ以後になります。
 次に親仏である矢田の地蔵尊の製作年代について見てみますと嵯峨天皇の弘仁七年=八一六年でありますから、起点をさらにそれ以後に移します。次に安長寺が法相寺から禅宗に改宗したのが後伏見天皇の正安二年=十三〇〇年であることに着目しますと、安長寺創立の年代は、八一六年から一三〇〇年までの間にしぼられます。
これをさらに搾るため、本堂の内陣に掲げられている「大願王」と題した額面に注目してみましょう。
柏岩筆「大願王」額
柏岩筆「大願王」額
 安長寺の寺伝によりますと、この額は唐僧「柏岩」が書いたものであるとされ、「柏岩和南」の刻字があります。「大願王」というのは「地蔵尊の讃語」でありますが、問題点はこの額が、唐僧の柏岩によって書かれていることです。これが唐時代の人の揮毫であるとすれば、安長寺の創立も、唐時代であることが推測される訳であります。唐は醍醐天皇の延喜十九年=九一九年に滅亡していますので、安長寺の創立も、それ以前とみることができますが、それ以前に絞り込むことはできません。故・島田寅二郎先生や、故・緒方伝先生は、このような見解によって、安長寺創立の年代を推測しています。

五 安長寺の改宗

安長寺が創建された当時は法相宗でした。その頃の法相宗は、我が国で、最初に広まった宗旨であったため非常に盛況でありました。
しかし最盛期の奈良時代をおえ、平安時代にはいると、天台・真言二宗の勃興により、法相宗の法灯は影淡くなり、安長寺の親寺であった矢田の金剛山寺さえも、平安朝のころには真言宗に改まっております。
 安長寺縁起のなかに一時期寺の山号を「端石山」と呼んだことが記されて居ます。これは安長寺創立後、住僧のなかに学業高い人がいたため、勅令で端石―宝石―を賜ったので、端石山と号したとされて居
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ます。このことは「一国霊験記」という古書に書かれているそうです。
第九十三代伏見天皇の正安年間に高僧の蔵山順空和尚が博多承天寺の住職となり、安長寺の住職を兼務しましたので、この時に法相宗を禅宗に改宗されたということです。しかし順空和尚は法相宗を兼修して、古いものは古いものなりに、生かして。その加持―病排除などで仏の加護を祈ること―、呪符―呪いのふだ―などは古伝を受け継いだといわれています。順空のこのような禅のなかから法相の良いところを生かす修法により、地方の人々は、地蔵尊の威霊を信じ、喜捨も大変多くなり、方八町の地―八七二、七三mの二乗―に七堂の伽藍が荘厳を極め、塔頭―境内の小寺―や末寺には人が群がり、厳然とした臨済宗の一名刹となりました。
 安長寺が禅宗「臨済宗東福寺派」に改宗された正安元年は昭和元年から六百二十七年、平成元年からでは、六百九十年前のことになります。
 またこの年は、弘安の役から十八年後に当たります。
 禅宗は五家七宗に分かれており、臨済宗はその中の一宗です。中国の臨済義玄を開祖としていますが、その宗風は「凡智をもって計り得ない真実絶対の自己を捧、喝をひとしく施すことによって、明らかにしようとする」厳しいものがあります。この宗派は黄竜、楊岐の二流に別れています。栄西(1141〜1215)により伝えられたものだけが黄竜派で他はすべて楊岐派です。
 栄西の法孫円璽弁円が聖一派く東福寺派>をひらきましたが、安長寺はこの派に属しています。
 禅宗は奈良時代から伝えられ、鎌倉時代にさかんになり、貴顕階級や武家などに喜ばれ、芸術や文芸の面で大きな影響を残しています。
 禅宗の根本は「禅」でありますが、この禅は仏教における重要な修業徳目の一つで「解脱の理想的境地」に至る方法だとされています。
 釈迦は「禅をもって心を統一し、煩脳を断ちネハンに至る」としており、また達磨は「不立文学、教外別伝、直指人心、見性成仏」としています。
 禅の修行法の一つに坐禅があります。身を正し、端座して、妄念を止め、精神作用の絶対の放散状態の底で、自分の心と、それと異ならない仏心を、見ようとするものです。
安長禅寺では、禅の修行を志す人のために、黙国T師による、懇切な指導を展開しています。

六 円鑑禅師

 順空和尚は天福一年一月一日に生まれました。幼時は万寿寺の神子和尚に学び、さらに京都東福寺の円爾辯円や鎌倉建長寺の蘭渓の徒弟になりました。その後北条時頼や北条時宗に信頼されて、その勧めによって入宋しました。入宋後は十数年にわたって、呉越の間を遊歴修行して帰朝しました。
 帰朝後は、まず肥前高城寺の開山をつかさどり、次に博多承天寺に移り、この時期に甘木安長寺の住職を兼務されました。この間における順空和尚の法蹟は目を見晴らせるものが多く、ついに正安二年、欽令―君主の命令―により、臨済宗の大本山東福寺の第六世を継ぐことになりました。
 延慶元年六十七才で天寿を終えましたが、入寂後、勅して、「円鑑禅師」と諡―おくりな―されました。 

七 祇園寺の創立

 第九十五代花園天皇の応長元年に、博多承天寺の直翁知侃ヂキオウチカン―後の仏印禅師―が、豊後の国主  大友貞親に招かれて行く途中、安長寺で一泊しました。
 この時禅師は七十五才の高齢でありました。博多を未明に出発し三十二キロメートルの道を歩み夕暮れに、甘木に着きましたが、旅の疲れが出たのか、急に高熱を出し、激しい苦しみにおそわれ、生命さえも危ぶまれるありさまになり、供の者も寺の者も、大変心配しました。相当長く苦しみながら夜半になった時、禅師は霊夢に誘われ、夢の中に神人が現れ、「吾は牛頭天王なり。汝の病を看る為にきたれり。」と言って、立ち去りました。
 神人が立ち去るとともに、病魔は雲霧のように消えて、一瞬のうちに元気になりました。
 禅師は歓喜のあまり同行の弟子宗晋に「何をもってこの功徳に報恩したら良いだろうか」と相談し、宗晋を甘木に残して、新たに一社を起こし、牛頭天王を祭らせることにしました。
 安長寺の末寺のひとつである東雲庵の小祠を拡張して牛頭天王を祭り、別に一院を建てて社僧の邸宅とし、日夜嚴行したので、次第に産神としての尊信を高めていきました。
 元亨二年春、さらに出雲から諸神を拝請、合祀して「大雄山祇園寺」と命名しました。
 安長寺の末寺から独立した大雄山祇園寺は、明治時代になってから神仏分離により、仏教関係は「大雄寺」となり、神道関係は「須賀神社」となって、今日に至っています。ここで、お断りしておきたいのは、仏印禅師が大友氏の招きによって行く途中、安長寺にて発病したのは、諸記録が一致していますが、その年代には異説があり、一致していないことです。
須賀神社
須賀神社
 「甘記」および「筑附」では、後醍醐天皇の元応二年1320年とありますが、「甘木山安長寺考」では花園天皇の応長元年1311年とあります。
 この本では、後者の年号を採用しています。

八 安長寺の焼亡

 太平記に「大永五年大友軍秋月軍と合戦兵火にかかる」とかかれていますが、足利氏の末、全国で群雄轄居があり、北部九州でも大友氏と秋月氏との数次にわたる戦いは、戦うたびに甘木・朝倉の人々を苦しめて来ましたが、大永五年には、ついに甘木の町に災害を与え、安長寺にも飛び火しました。
 この時大友氏の将、吉岡、山下、田北の将卒六阡五百騎が甘木にきて放火したため、町は大混乱になりました。中でも田北駿河守以下阡五百騎は、甘木に宿陣したので、被害はさらに広がりました。
 次は永禄九年になり、戸次・臼杵・吉弘の三軍がきて荒らしましたが、この時に休見ヶ城の戦いがあっております。三回目の戦災は天正十二年のことで、戸次道雪や高橋紹雲などが筑後からきて、甘木とその周辺に、火を放ちました。
 戦国時代最後の戦災は、天正十四年に、島津氏の大軍が、甘木に陣し、かつ火を放ったことです。この放火によって甘木は全焼して、焼け野原になってしまいました。この時のありさまは「九州軍記」という本に詳しく書いてありますので、省略しますが、この四回の戦乱によって、安長寺の災害も大変なものでありました。特に最後の島津氏の兵火はきびしかった模様です。
 「甘木根記」によると、甘木の人達が、下淵や千手の方に避難して仮住まいしていたそうです。
 この時、安長寺は地蔵堂・客殿等全ての施設が焼失しました。寺のご本尊である地蔵尊は「持丸地蔵堂」に避難し、祇園杜も下淵に疎開しました。

九 楢柴茶壷

 肥前平戸の豪族松浦民部大輔は「楢柴」と銘打った茶壼を秘蔵していました。この茶壼は世にも稀な名器で、天下の茶人垂涎の的となっていました。松浦氏は経済状態が逼迫してきましたので、高価ならば手放してもよいと考え、買手を物色していました。
 たまたま秋月の秋月種実は、古器骨董を愛玩し、その収集には経費を惜しまないと聞き、家臣の中から、交渉事の巧みな者一名、武芸に長じた屈強のもの二名を使者として、出発させました。
 一行は甘木山安長寺に着いて、ここを拠点として交渉を始めました。交渉の結果金百枚で折り合いがつきました。しかし秋月氏の手元には金三十枚しかなく、残り七十枚は筑前、筑後、豊前の豪士や長者に融資を相談しましたが、戦国時代のことでなかなかまとまりません。
 どうしてもこの名器をあきらめ切れない種実は、金策のため家来を京都まで出張させました。
 戻る予定の日になっても使者が戻らないので、痺れを切らした松浦氏が、引き上げる気配を示したので、「まあまあ」となだめて、引き伸ばしでいるうちに、やっと使者が帰ってきました。
 ところが、ここで、また新しい問題が起こりました。それは金貨の真贋についての悶着でした。
 幸いにして、真贋判定の経験を持つ人が来合わせたので、その人の
 指示により、安長寺の境内で盛んに火を燃やし、黄金を鋳崩し、その量と光沢の具合によって、偽物ではないことを鑑定しました。
 こうして、この名器は、めでたく秋月家の宝物となりました。
 九州征伐の豊臣秀吉に秋月種実が降伏を申し出たとき、いち早く奉った物は、この「楢柴の茶壼」であり、この茶壼のお陰で、種実は一命を助けられたと、言われています。
 このことについて、「筑前風土記」には次の様に記録されています。
 秋月種実が秀吉公にささげし楢柴という名物の茶壼は、元肥州平戸の松浦民部大輔所持しける、あるとき松浦氏貧困にして財用ともしかりしか、この茶入れを使いに渡して、秋月種実に遣し、代金百枚に販んと言う。

十 安長寺の初市

 この本の最初に、郷土玩具豆太鼓バタバタのところで、初市のことについて少しだけ触れていましたが、実は、この初市にも千年以上の伝統があるのです。
 安長は安長寺を創立した時、布令して、毎年正月十八日から二十四日までの期間、品物交易の市場を開きました。そしてこれを「初市」と称しました。
 この交易市は年を重ねるに従い、発展し拡張されて行きました。甘木の町内に開設される市場と定日は、時代を追って増加し、遂には毎月九度の市を開催するまでに発展しました。
 其の一つ「二日の市」でこれは毎月二日・十二日・二十二日の三回、町の西部・今の二日町のあたりで開かれていました。今でも二日町という地名が残っているのは、数百余年にわたって続いた市の名残です。
 四日の市は毎月四・十四・二十四日の三回、現在アーケード商店街の中心地となっている四日町あたりで、開かれていました。この「四日の市」が定着し、商人が定住したものが発展して、現在の商店街が形成されました。もう一つは「七日の市」で、毎月七日・十七日二十七日の三回現在の七日町のあたりで開かれましたが、ここも安長寺と祇園社を結ぶ区域であるため、大変繁盛していたということです。
 甘木の町は筑後川を挟んだ筑前・筑後にまたがる両筑平野のほぼ中央にありますので、博多・太宰府から日田を結ぶ街道と、南九州を結ぶ主要路がここで交差していました。だからいつも旅人で雑踏を極めていました。殊に、市の立つ日には、肥前・豊後・筑後・筑前等、かなり遠方の人々が、交易のために集まって来ました。
 このため市の規模や内容は、実に特色のある物になっていました。そこに集散される物貨は、生活最必需品である「食塩」を王座とし、次に海産物〔塩干魚類・海産類〕でありました。
 このほか上方京阪地方の繊維製品〔衣類・呉服類〕化粧品装身具〔白粉・紅・元結・香油・鬢附・櫛・簪〕日用雑貨、家具、農機具、工具、農産物から狩猟動物まで品数も大変豊富でした。
 従って茶店・飲食店・旅籠なども繁盛し、殊にその時代甘木以外にはなかったという澄み酒〔清酒〕や甘木万頭・地蔵飴などによって上戸も下戸も充分に旅情を慰めることができたそうです。
 このことについて筑前風土記は次の様に記しています。
 古よりこのところにて毎月九度、市あり。今に於て絶えず。筑前、
筑後、肥前、肥後、豊前、豊後全て六ケ国の人の来る総会のところにて、諸国に通ずる要路なれば商人多く集まり、交易してその利を得る。中でも福岡、博多、姪浜より魚塩多く持ち来たりて商う。博多より甘木の間人馬の往来常に絶えず。東海道のほかこの道の如く人馬の往来多きはなしといえり

十一 甘木の古街道

 甘木の町が安長寺の交易市を土台として発展したものであれば、其の町の道路も、安長寺を中心として伸びて行くことは当然のことであり、甘木の町の道路はすべて安長寺を起点として、作られていました。
 甘木の町から東に向かっている道筋は、安長寺の正面にあたる水町で、ここは昔の「肥後街道」の起点になっていました。
 一方西に伸びる道路は寺の境内にそって、八日町・四重町・四日町山領町と現在のアーケード商店街から二日町を通って甘木川にたっし、さらに西進して長崎街道に抜けていました。この道は甘木の町の背骨であり、二日の市や四日の市は、この道を中心に開かれていました。
 南の道は馬場町・龍泉池を通過して筑後に通じていました。現在では高速九州横断道路と国道三八六号線とを結び、さらに三八六号バイパス線につながる南北線の道路は何本もできていますが、其の中でもっとも早くできた庄屋町・恵比寿町線でも江戸時代初期の開通です。従ってその以前は、安長寺から馬場町を通って、龍泉池から筑後に至る道は、唯一つこの街道だけであったわけです。
 北に通じる道は、安長寺前から札の辻〔大鳥居付近〕さらに祇園社の前を通り、菩提寺から秋月・八丁峠・門司に通じていました。またこの道は一時西国諸大名が江戸への往来にも使ったと言われています。
 これを現在の環境にあてはめれば、ジャンクションとインターチェンジと、サービスエリアと、繁華街が、同一の場所に混在しているような、殷賑をきわめた有り様と、思えばよいでしょう。
 「ローマの道は世界に通じる」という言葉がありますが、この言葉のように、まさに「安長寺の道」は日本中に通じていたのです。
 「甘木雑記」には次のように記されています。
 秋月往来の旅人は、七日町を廻る行程の労多く、因て後町〔恵比寿町の旧称〕を開く。

十二 大楠の伝説

 大分県玖珠郡万年山連峰左翼の突端に位置する「切株山」は大楠の切り株の跡といわれ、其の超大楠が、切り倒された時に、振りちらされた無数の楠の実から育った子孫が、豊前・豊後・筑前・筑後の各地に生存していると言われています。
 隠家の森・太宰府神社・甘木祇園社・の大楠は皆その同胞だといわれています。もちろん安長寺の大楠も例外ではありません。
 この安長寺の大楠は、戦国時代には度度あがる兵火によって、其の都度大火傷にあいましたが、幸いにも枯死することもなく、一部が甦って更生し、樹皮が伸展して、焼けた幹をまきこんだといわれており、その形跡は、今でも判然と窺うことができます。
 一方祇園社の大楠は兵火の厄こそ免れましたが、虫害を受けて半死
半生の目に遭い、何回かの大手術によって樹勢を挽回して今日に至っております。
 ここでご紹介しておきたいのは、この安長寺の大楠と、祇園社の大楠にまつわる伝説があることです。
 昔から祇園社の大楠は芽立ちが青芽であるため男楠に見立てられ、これに対し安長寺の大楠は、其の芽立ちが赤芽であることから女楠に見立てられていました。
大楠の伝説
 この二本の大楠は、互いに仲睦まじく愛しあっていました。でも昼の間は、気はずかしいので、知らない振りをしておりますが、夜ともなれば、あたかも梟のような声を立てて、夜もすがら、語り明かすと言われています。
 また、人の寝静まる丑満頃には、梢を手のように伸ばしては、触れ合うようにするとも、いい伝えられています。
 なお、この二本の大楠には、それぞれ、白蛇がすんでいると言われ、大楠の木の精としては、可愛らしい小さいもので、少し青味をもち、目は美しい桃色を呈しているそうです。
―この話は甘木根記・豊後風土記などから引用しました―

十三 安長寺の七つ井戸

 四重町の安長寺寄りの裏少路入口付近の屋敷うちに、一つの古い井戸が残されているそうです。
 この井戸は〔旧藩時代は城水氏・昭和時代は山下氏の所有とのことです〕どんな大かんばつの時でもこの井戸だけは水がかれないので「底無しの井戸」と呼ばれた、由緒深い井戸なのです。
 四日町・七日町・四重町一帯の井戸がからからになっても、ここだけは、なおコンコンとして湧水が尽きず、そういう時はもらい水の人で井戸端は混雑したと言われています。
 実はかって安長寺全盛時代には、方八町く872.73mの二乗>の管内に堂塔伽藍がたち並び、塔頭く大寺の境内にある小寺>十一をかぞえたそうです。また十二の末山が点在していました。
 この「底無しの井戸」はこれらの塔頭の筆頭である「寶珠院」の庭先にあったもので、この霊場第一の浄水として尊重されていたものです。
 その頃この付近は竹林に囲まれていたので、人々はこの水のことを〔竹裏水〕と呼んでいました。
 安長寺の境内には、このほかに六つの井戸があり、これらを総称し
て「安長寺の七つ井戸」といわれていたそうです。
 島田先生の「甘木山安長寺考」によりますと、「七つ井戸」というのは、安長寺の裏井戸、安長寺の門前井戸、六軒板井戸<金吉屋内>、四重町裏井戸<山下豊二郎氏方>、喜四郎井戸または裏町井戸<稲荷堂前>、山領町井戸<佐野氏方>、四重町井戸<緒方久一郎氏方> の七つが上げられており、当時の寺域の広大さが偲ばれます。

十四 最盛時の寺域

 「安長寺縁起」に、「安長寺之境内昔方八町也」と書いてありますが、この数値はメートル法に直すと、○、七六二平方キロ米です。こんなに境内が広いお寺は滅多にありません。
 「甘木山安長寺考」の著者島田先生の推測によりますと、甘木の町の大正時代の町の形からみて、東西に山領町筋・南北に庄屋町筋・支線としては、東西に山伏少路・南北に馬場町筋・幹線道路になっていますので、これを結ぶと、四角形となりますが、この町筋を囲んだ四角形の内側を見てみると、郡役所〔現在の児童公園は郡役所の跡地〕以外は、町の中心の一等地が空莫とした畑地であるのは不自然だ、としています。
 そして、その前提のもとに「これは古昔禅宗の大道場として廣潤なる大地を要求せる安長寺の境内たりしにあらざりしか」と述べておられます。
 また古文書〔甘木根記〕には、このことについて、次の様に書かれています。
 庄屋町、喜右衛門方の裏にカウント石があって、これは安長寺の物だと書かれています。また寺院の境内にある塔頭の多さなどから、彼此れ推考すれば、この四角形の市街の裏は、恐らく寺域内でありましょう。後の世にできた浄土宗・真宗・日蓮宗などの寺院の創設も、この空き地を避けたことから考えても、この考証は正当です。上・下新町は寛文の頃から、八幡町は明治の始めに創立されたことは、古老がよく知っている所です。かかる大道場も、戦国の乱後荒廃して、塔頭を再興する力なく、本堂客殿さえ小規模となり、元文の火災・宝歴の火災と、災禍が続き、一時は無住の廃寺にまでなったので、檀家はほとんどが他の寺院に帰依しました。一方民家が次第に寺域に発展して、境内は大変縮小されました。寛政五年の寺記によれば、寺地は人居となり、それは八日坊・馬場坊の真後まで迫り、昔の三分の一以下になりました。
 七つ井戸のことについてはすでに説明しましたが、境内の水源は、これらの井戸のほかに七つの池がありました。これらの池は「安長寺の七つ池」といわれていたそうですが、古記録には五つだけ記されて「外ハ不明」と書かれています。
 [安長寺の七ツ池] 蛇池<本村>馬場池 裏池 横内池 腰浸池「外ハ不明」
 安長寺縁起に「安長寺伽藍八境」として八ヶ所の地名を掲げていますが、注釈がないため、何を意味しているのかはっきりしませんが、恐らく境界点を示したものではないかと推測されます。
掲げられている地名は 1 仏殿樟 2 梅花軒 3 門前市
4 八里峰 5 雲峰島 6 夜瀬音 7 龍泉池  8 竹裏水となっています。 七井戸・七池・八境などは、現在の地名と合致しないものもあり、全てを解明することは困難でありますが、解明できる範囲内で推測したとしても、かなりの広大な地域に及んでいることが分かります。

十五 安長寺の采邑

 昔の大寺院は荘園。寺領・采邑・采地、などの名称で、寺に属する土地を持っていました。
 安長寺が創立された時、甘木安長は若干の采地を寄付して衆徒修法の料としました。
 くだって天正九年に秋月種実が鞍手郡植木庄磯光村の田二町二段を寄付しています。このことについては、種実の臣 梶田伊豆 板波大炊助の書券に明記されていたそうです。
 その他筑後柳坂や肥前にも寺領があったそうです。
 天明六年編さんの甘木根記に甘木の物産を列記していますが、その筆頭に「安長寺の疱痘護符」が挙げられていることや、国郡その他諸侯にも呪符を献納したことの記録は、大変興味深いことです。

十六 塔頭と末山

 安長寺縁起によると、「安長寺の子院二十三あり、塔頭十一、末山、十二を数う、但し時代は分明ならず」とあります。
 塔頭[タッチュウ]というのは、一般的には大寺の境内にある小寺のことを言いますが、禅寺では特に開山・祖師を祭る塔を指して言うこともあります。
 末山とは境内の外にある系列の子寺や分院などのことです。
 往時の安長寺の境内は大変広い区域にまたがっていて、山あり谷あり池川あり、その中には伽藍八境と言う八つの名所があり、それらの名所を縫うようにして十一の塔頭が点在していたそうです。
 伽藍八境や、塔頭には、その場所を推定できかねることもありますが、文献には次の様に記されています。
 ―伽藍八境― 十四、最盛時の寺域参照
 ―塔頭― 寶珠院、永特庵、蔵光庵、祥雲軒、長照庵、持地院、楓泉庵、楓林庵、東明庵、也足軒、寶叢院
 末山については地名まで記されているので、凡その推察はできるが、その他は何処であったかについては定かではないものが多いようです。
 ―末山― 東雲庵=七日町祇園寺、西泰寺=七日町、善祥寺=高原町高原薬師、妙嚴庵=水町観音、文珠庵=水町江下文珠、龍泉寺=本村地蔵妙見二尊、千手庵=本村、泉福寺=馬田村、金剛寺=堤、円応寺=牛木、正雲寺=頓田、大聖庵=新町
 ―参考― 末山のことについては、安長寺縁起に次のような記述があります。
 東雲庵 在甘木邑七日坊 有牛頭天王祠 故号祇園寺
 西泰寺 在七日坊
 善祥院 在同邑高原坊 本尊薬師為霊佛 弥高原薬師
 妙厳庵 在同邑水坊 有霊佛観音
 文珠院 在水坊 有霊佛文珠 号曾下文珠
 龍泉寺 在同邑本村 安置地蔵尊妙見菩薩二体 号試地蔵
 千手庵 在本村 泉福寺 在馬田村
 金剛寺 在堤村 円応寺 在牛木村
 正雲寺 在頓田村 大聖庵 在新坊

十七 龍泉寺と龍泉池

 安長寺大伽藍の建立を発願した甘木安長は末山十二寺の建立も企画しました。十二寺の敷地を選定するに当たって、その首座となる第一の霊地として捜したのは、安長寺本院から距離的にさほど遠くない場所で、清浄無垢な清水が豊富に湧きでる場所でした。
 寺僧が法相の秘法による占いを行い、龍型の池泉を探り当て、龍泉池となづけ、其の池泉に面したところに一寺を設けたのが龍泉寺です。
 この龍泉寺と龍泉池はそれ以来、安長寺の「お浄めの場所」としての役割を果たしてきました。
 ただ単にお浄めの場所としてのみではなく、旱魃の年には雨乞い祈願の場にもなりました。
 雨乞い祈願について「藤井家」の「当町山踊年吉凶」に次のようなことが記録されています。
 天保三壬辰年。同年六月十七日より天気に相成一向雨なし。もっとも七月十四日半時はかり降り、町を水少々流れし位。また七月十六日ちょっと埃のしづまる位。また八月二日ばらばらいたしじきに止む。また七月四日昼頃より雨降り暮れ方やみまたその夜半頃夕立致し大体に地しめりし程にふる。右六月十七日より天気に相成り今日まで日数四十六日の日照りにて御座侯う −中略−今日昼夜の雨より外に潤気なく八月五日より大夕立 六日十分成潤似て大悦限りなく侯う
 この記録は天保三年の大旱魃当時のものでありますが、この八月五日の大夕立の二日前の八月三日には本村の龍泉池に於て、安長寺一山の僧徒による、雨乞い祈願の御籠が執行され、三日目満願の日に大降雨を見て、人々はその霊験のあらたかさに感激したと伝えられています。
 このことについて「甘木雑記」には次のように記されています。 号龍泉寺 有寒泉 池島 在妙見菩薩 祈雨不過三日 此寺廃退不知何時
 また、「旧記」には「安長寺の秘仏地蔵尊を開帳し龍泉池に投入して雨乞いをなすことあり」と記されています。
 ・注 本書 三「矢田の地蔵尊」文中の実道和尚の言葉参照

十八 飛地蔵尊

 安長寺本尊の霊験のあらたかさを伝える物語のひとつに「飛地蔵尊」の話が有ります。
 時は天正十四年六月のことです。
 秋月種実は高橋紹雲の岩屋城攻略をはかり、薩摩の島津を頼みました。薩摩軍の動きは極めて迅速で久留米から甘木に向かって移動を始めました。甘木の人々は避難をはじめ町は大変な混雑となりました。この二年前にも高橋・戸次軍の甘木乱入があり、苦い経験をした人々
はいち早く避難しました。これらの人々が、もっとも多く避難したのは下淵村と千手村の中程にある祇園の森というところでした。
 幾日かして、秋月往還が殺気立った日の夜、甘木の町に火の手が上がり、上空は一面火の海となり、両筑随一の甘木の町が灰塵になりました。〔八 安長寺の焼亡参照〕
 この時わが安長寺も焼けて終わったのでありましたが、しかしこの時一つの奇蹟が起こりました。
 人々が避難していた祇園の森の中の小さな祠の中に、地元の人が見たこともなかった仏像が、忽然として現れ、びっくりした村人が某寺の住職に鑑定を依頼すると、果たして、安長寺の秘仏地蔵菩薩の尊像であることが判明しました。里人たちは、秘仏が安長寺炎上の際、その神力によって、自ら飛来されたものと推論しているとき、たまたま「猛火の中から、不思議な火の玉が上がり、煌々たる霊光を放ちつつ北方に向かって飛ぶのを見た」という者が沢山現れ、この飛来説を裏づけしたということで有ります。
 この結果このみ仏に対する信仰はますます高いものとなりました。
 この本の始めの部分「三 矢田の地蔵菩薩」の項で、この秘仏が満慶上人の作であることをのべましたが飛地蔵のことがあって以来、「さすが、あの世を見てこられた満慶上人のお作りになられた御仏だけの御力がある」との評判は遠近広く高まったということです。この満慶上人は和州金剛峯寺に在し、人界最高の徳僧と称えられた方で甘木安長の請を入れ安長寺にも足を留められたということで、このことが安長寺の宝木「かんぼく」にまつわる伝説に連接しています。
 したがって、安長寺では満慶上人は一名を満米上人と申しますが、一般にはこちらの方が親しまれています。
 満慶上人を満米上人と申しますのは、上人が小野篁と共に浄土−あの世−に遊んだ時〔本書「三 矢田の地蔵菩薩」参照〕浄土から持ち帰った米櫃には、常に米が満ち満ちて居ったのでこのように呼び名されていたということであります。
 飛地蔵尊の物語や、満米上人の名前にまつわる話には、現代人の感覚では、理解できない唐突さがありますが、そこは伝承・説話として理解して戴ければ結構かと存じます。
 しかし、このような、伝承や説話が誕生し、それが一千有余年にわたって継承されてきたということは安長寺の霊場としての尊厳性と、このことに対する多くの人々の信仰心が成さしめたことであり、荒涼とした現代社会の実相と、安心立命を果たし得ない現代人に対し、禅問答の形で、何かを、問いかけているのではないでしょうか。秘仏はこの時に台座と後光が焼失し、後世元禄七年徳峰禅師の代に造補されたと言うことで有ります。
 ・飛地蔵尊のことについては「安長寺縁起」に次の様な記述があります。
 近古九州戦争之間 甘木邑罹千兵焚 仏殿火災 居民逃於近墟 構隧慮而止居 因称新甘木 左下淵村千手村之間 父老伝言是時霊像飛去而 止干此 但台座後光則燼亡矣 元禄甲戌 徳峯禅師 新造補之掌善掌悪二堂子共古製也 同本尊修飾

十九 西泰寺の木仏

 仏像についてのいい伝えに西泰寺の木仏の話があります。安長寺の末山の西泰寺は七日町あたりにありましたが戦国時代兵火で消失しました。その後祇園寺がその付近にできましたがその祇園寺の社僧達首座の代のことです。「せいたいじ」という字の田んぼの中に闇夜になると時折不思議な霊光が立つのを見たものがあり評判となりそこを調べて掘り返すと不思議にも土に塗れた仏像が現れたのでこの木仏を龍泉寺に運び霊水で土砂を洗い流して清めると実に有りがたい相好の釈迦木仏であったので丁重に祇園寺に奉遷し安置したと言うのです。
 このことについては「甘木根記」に次の様に記述があります。
 安長寺法相宗之時 末寺西泰寺有 兵火破滅 今圃其名残有達首座代其畑此釈迦木仏掘出 当寺上者有
 また「甘木紀聞」には次の様に記されています。
 西泰寺趾=安長寺法相宗の時の末寺という 今田の字に其の名残れり 祇園寺 達首座という僧の時 この址より木仏の薬師如来を掘り出す 此仏今祇園寺にあり

二十 水祭町

 甘木安長の重臣として南部から随従した「江下兵衛」という人が居ました。この人は果てしもない竹林の中に寒水が多量に湧出している大湧泉を見つけその傍らに居住しました。
 このことからこの付近の地名−小字名−を「江下」というようになりました。
 竹林の中の湧泉は幽玄で神秘な霊域を成して居ました。旅人、特に英彦山道中の旅人はここに立ちより英彦山の霊峯を仰ぎながら湧泉の水を祭って、拝したということです。
 現在の水町の旧名水祭町は、このことに因んで付けられたものと「旧記」に記されています。
 水町のほぼ中央に安長寺の末山の一つである妙厳寺という観音堂がありました。そのお堂が大変損壊したので観音様を水町の某家に安置しました。ところが鼠がその観音様の御像の両耳をかじって損傷したのでその家の女房が戯れに「ああ悲しいかな、何ぞ尊き仏体のかくも鼠輩めに痛ましくも噛られ賜いしか」となじりました。すると不思議なことに翌日尊像の座下に一匹の大鼠が斃れていたということです。
 ・参考 この伝説の原典「甘木雑記」にはこの伝説の他に次のような所見を加えています。
 思諸仏法便捨一動万民心乎俗日殺小済大者此謂乎