滋賀県高島郡安曇川町

田中城と田中吉政公

■JR湖西線安曇川駅からバス15分、タクシー10分
安雲川町に分布する中世城跡として田中城跡以外にも@舟木城跡、
A小川城跡、B五番領城跡、C三重生城跡、D下ノ城などがあります。


柳川真勝寺什宝の絹木着色田中吉政の模写

田 中 吉 政

1548-1609 織豊時代〜江戸初期の武将、大名。 鎌倉末期より、世々近江国(滋賀県)高島郡田中郷を 支配していた田中氏の家に生れる。父は重政といい、 母は国友与左衛門の姉という。織田信長・豊臣秀吉 ・秀次および徳川家康に仕える。最初、信長のもと では扶持米7石の足軽であったが、次第に頭角をあ らわし、信長の諱字をもらって「長政」に、次いで秀 吉の諱字をもらって「吉政」に改め、あわせてその知 行も加増され、ついに筑後一国32万5千石の西国大 名にまでのぼりつめた。

吉政の歴史的功績は、関ヶ原合戦における石田三 成の捕縛など、武将としての功業よりも、いわゆる 近世を先がけした城下町建設および河川改修をはじ めとする土木工事に手腕を発揮し、みずからその指 揮監督にあたったことといえよう。近江国八幡山城 、(現近江八幡市)、三河国岡崎城(現岡崎市)なら びに筑後国柳河城(現柳川市)における城下町は、 400年たった現在のまちの姿を見るとき、吉政の 《都市計画》の先見性を忘れてはならないだろう。

監  修/石田 敏氏(中世城郭研究家)
企画・製作/安曇川町商工会
  安曇川町特産品等開発実行委員会
お問合せ先/社団法人 安曇川町観光協会
  TEL=FAX 0740(32)1002

田 中 城 跡

〔名称〕田中城跡は、滋賀県高島郡安曇川町大字田中にあり、上寺 集落の裏山に所在することから、地元の伝承として古くから「上寺城」「上 ノ城」などと呼ばれていますが、歴史的には「田中城」と呼ぶのが、ふ さわしいでしょう。地名の由来となった上寺は、比良山系に営まれた 天台密教の山岳寺院「松蓋寺」が同じ裏山に建てられていたためです。 松蓋寺は、室町時代頃には衰退し廃寺と化して、今は観音堂一宇が残 されているだけです。なお、「上ノ城」に対して、「下ノ城」という地 名が大字田中のほぼ中央の平地にあり、その付近には「北堀」「東堀」「南 堀」という小字名が残されています。これは鎌倉末期に田中氏が当地 を支配するに際して築いた方形館の跡と推定されます。

〔立地〕田中城跡は、安曇川町の西方に広がる泰山寺台地から、舌 状にのびた一支丘の先端部全体と、ふもとに接した上寺集落の一部を も含めて築城されました。城跡の標高は160〜220メートルにあり、 安曇川平野との比高はわずか60メートルで、比較的標高の低い山地 に築かれた中世山城といえます。しかし、支丘は三方すべて急峻な地 形を呈し、泰山寺野につながる背後の尾根も非常に細く、防御するに は最適だったのです。また、最も高い位置につくられた曲輪からは、安 曇川町、高島町の平野と琵琶湖が一望できます。城跡の規模は、東西 約320メートル、南北190メートルをはかります。

〔歴史〕田中城がいつ築造されたかは、記録がなく定かではありま せん。元々そこには松蓋寺があり、それを田中氏が移転させて築城し たのか、あるいは廃寺となった跡地を利用して築城したのかは不明です。 城主は、佐々木信綱の二男高信の分流で田中郷を支配した田中氏歴代 です。たとえば『長興宿弥記』文明14年(1482)の条には「佐々木田中四 郎兵衛貞信」が記されていますが、この人物もまた田中城主の一人だ ったと思われます。田中城が歴史に登場するのは、戦国末期、『信長公記』 の元亀元年(1570)の条からです。その年の4月21日、織田信長の軍勢は 越前の朝倉義景攻略のため、京都を出発し、湖西を北上して若狭から 敦賀へ向かったのですが、その途次、信長は「田中の城」に逗留して います。この軍勢には、のちの豊臣秀吉や徳川家康も参加していました。 元亀4年(1573)浅井長政の勢力下にあった田中城は、信長によって攻 略され、その後は明智光秀の支配をうけて終焉をむかえます。

参考文献 『近江輿地志略』『高島郡誌』『日本城郭大系』『安曇川町史』その他

〔所在地〕滋賀県高島郡安曇川町田中
〔別 称〕上寺城・上の城
〔築城時期〕戦国時代
〔城 主〕佐々木田中氏
〔現存遺構〕曲輪、土塁、堀切、櫓台、堅堀、武者隠し、土橋

安曇川町の西方に広がる泰山寺野台地から、舌状にのびた支丘の先端部に設けられた中世末 期の山城です。天守台があったと推定される最高所の曲輪の標高は220m、平地との比高差は わずか60mしかなく、この時期のものとしては低い位置に築かれています。
田中城の築かれる以前、この地には古代の山岳寺院・松蓋寺が建てられていました。そして、 廃寺跡となった所に、田中郷の領主田中氏が城郭を構えたと思われます。
『信長公記』に元亀元年(1570年)4月、織田信長の軍勢が越前の朝倉義景攻略の途次、当城 に逗留したことが記されています。この軍勢には、後の豊臣秀吉、徳川家康も参加していまし た。なお、3年後に浅井長政の勢力下にあった田中城は信長によって攻略され、ついに終焉を 迎えます。

上寺区    安曇川町 商工会
安曇川町特産品等開発実行委員会


田中城跡縄張図

堀切にかかる土橋

土塁と曲輪