筑後国三十二万五千石と田中吉政

慶長本土居

本土居・潮土居の図(出典:堤伝(つつみたえ)
『改定柳川地方干拓誌』(かいていやながわちほうかんたくし)による。
 (大きい地図が出ます)

古地図



皿垣小学校屋上から眺めた慶長本土居(大和町皿垣開)
(昭和59年撮影、平河速人氏撮影)

慶長本土居(柳川市中開)

慶長本土居(柳川市中開)平成17年撮影

本土居築合(柳川市野村:この築合工事は難工事で、一説によれば間の庄屋みずから人柱にたち
ようやく完成したと伝えられている)平成17年撮影

田 中 道

兵部神社(大木町横溝)

久留米と柳川を結ぶ街道 (大きい地図が出ます)


目安町一里塚(久留米市安武)

田中道(県道23号、大木町土甲呂)


柳川城と支城

柳 川 城

筑後国の城の配置図 (大きい地図が出ます)


城 島 城 跡(三潴郡城島町)

猫 尾 城(八女郡黒木町)

久 留 米 城 跡(久留米市:2005年撮影)

久 留 米 城 跡(写真提供:江上憲一氏 :1960年代撮影)


はじめに

この田中興廃記は久留米市の屏山文庫に保存されており、それの解読を柳川市にある柳川古文書 館の研究会において、書写体で印刷された ものを今回活字の形に改めてみた。しかし原本からの解読でないため、浄書された時点での誤りか 、疑問な点がいくつか見られた。誤字・誤 読の明らかなものは適宜改めていった。しかしなお、読み誤りがあることを御容赦願います。
編集者 宮川弘久

「田 中 興 廃 記」

田中興廃記序

太極分れて陰陽あり。天地在万物。皆本末有、表裏あり。歳に春秋あり。暑寒あり。日に早晩在。 昼夜あり。家に盛衰あり。興廃有。生者 必滅、会者定離、皆是自然の数にして豈驚へけんや。ここに慶長元和の頃、此筑州に田中家在。 今也亡而凡二百歳。其跡を見ると雖、其家の 始末を知る者なし。皆然也。予鼻祖田中家に仕て其の恩沢を蒙こと最厚く、其愛女を下し給ふ。 今に至、士席を穢こと先君之餘沢豈仰さるべ けんや。余田中家の始末を書して子孫に伝ん事を思ひ、諸書に所載摘之、人口所残拾之、集之こ と凡五十年。我既老て齢傾、今也閣べからず。 故に、撰之有拠を取、所依なき者は前後を考補之て、始末の大概を綴り田中興廃記と名く。其文 辞の拙は見る人の宥怒を希ふ而己。
干時文政五午年正月下旬 田中藤原勝成書

田中興廃記   興之巻 目録

一、田中吉政公始めて奉公に出給う事
一、吉正公手柄立身の事
一、吉政公先見ある事
一、関白秀次公御行跡不宜付吉政諫言申上らるゝ事。附秀吉公之言上退身を願わるゝ事。
一、上杉景勝謀叛為追討家康公御出陣並景勝追討被差置御引返之事。附岐阜落城之事。
一、吉政公阿渡川先陣之事
一、家康公濃州御発向。附関ケ原合戦之事
一、吉政公佐和山城攻並石田を搦捕らるゝ事
一、吉政公筑後拝領。付り柳川其外城普請並善政の事

「田 中 興 廃 記  興之巻」

田中吉政公始めて奉公に出給ふ事

慶長の頃、筑後一国三拾弐万石の領主田中筑後守橘吉政と申し候は、近江の国浅井郡宮部懸田中と 云所に、以前より住居なり。其先祖は敏 達天皇4代の孫井手の左大臣橘の諸兄公の後胤にして、士民に交る事年久し。然るに、吉政公は 幼若の頃より聡明の人なりければ、つらつら 世間の有様を見考へらるゝに二百余年の乱世にて、人倫の道もすたり御裾川の流はあれども無が 如く、兄弟国を争、親族相害ひ、親を殺し、 君をしひするに至る。

あにいたまざらんや。英雄双ひ起と雖も中途にして廃する者多く、大家は 其将愚案にして天下を平治する事能わず。万 民の苦しみ亦悼まさらんや。此時に当つて身命を拠宜き主君を助て国天下おも治め、万民を救ひ 其功を立ては菅仲楽毅にも不恥。豈善らさら んや。然れども、其身芸能無ては勤仕立身も成かたしと、其芸に達したる好き師をえらみ武芸を 習練し、文字兵学をも心に掛、朝夕も志を励 し稽古有ければ、諸芸共に次第に上達有て、弓馬討物早業等に至る迄、人に劣らぬ達人とぞなら れける。

或時、伏見(或云岐阜)の町を通ら れける所に、青く染たる袴有けるを、袴なくては侍奉公もならじと是を求め、袴の腰を見られけ るに左巴の紋付たり。是を着し仕合せよくば、 後々迄の紋とすべしと心に思ひ、住所の地名を苗字とし、田中久兵衛宗政とぞ名乗られける。

其 頃、岐阜の城主織田上総介信長公は、古今独 歩の名将なれば、好き主君と思ひ切米八石(或云七石)にて足軽奉公に出らる。元より立身心掛の 人なる故、勤方諸人は越、諸事残る所なき 人なれば、其支配頭は云に不及、仲間等に至る迄、一応御用に可立人品と見及び、目を掛てぞ交 わりける。


一説に、近江の国高嶋郡田中村の住人田中伯耆守宗弘の孫と或は子と云。 筑後国三潴郡御船山大善寺の鐘の銘に云。大施主田中筑後守橘朝臣四位吉政生国江州浅井郡宮部 懸子也干時慶長九年甲辰正月

二十五日敬白と有。此鐘は太閤秀吉公朝鮮陣の時所用陣鐘にて、当国に有りしを後に吉政奉納有 りしと云。

吉政公手柄立身之事

扨、其頃は戦国の事なれば、あぶれ者或は剛盗等、手に余る者有之時、久兵衛に被仰付に取者仕 者仕損ずる事なし。中にも或時、人をあや めたる者其同類三人明屋に切籠りけるに、諸人恐れて入ゑざるけるを、久兵衛壱人由予もなく蒐 入、其先に切て掛る者を一刀に切たおし、其 次に切て掛る者をも無難討留。今一人は不見ければ定て落たるらんと思はれける所に、物の蔭よ り長刀を以て久兵衛を右の眉の上より目鼻下 唇を懸て切下る。

夫を物共不為、長刀を引奪て其長刀にて切伏仕留られければ、信長公是を聞給 ひ無比類働往々用に可立者とて二百石給り、 宮部善祥坊法印(初兵部少輔)の与力に付給ふ。夫より戦場に召連らるゝに、毎度其功有により三 千石賜り、其後、所々にて逐々軍功在次第 に御加増有之。江州甲賀郡にて三万石賜る。此時、八幡山に居城す。信長公より御一字を賜り、 田中久兵衛長政とぞ申ける。

信長公没後、秀 吉公に仕へ勤功有、秀吉公秀次へ付置給ふ。秀次も相談相手とし懇意に召仕はれしとぞ。一年を 勢州矢田山へ四五百人取上りけるを三好秀次 諸将を下知し、渡辺勘兵衛・高田豊後両人川を渡りけるに、跡より田中久兵衛・尾藤次郎三郎も 加り四五人にて四五百の敵にさせ給しに、矢 田山より中井へつつきたる堤へ敵の人数を引取けるを、四五人の輩したひけれども味方の兵つづ かず、敵数十挺の鉄砲を放つに依て終に槍合 勝負はなしといへども、敵間拾間斗に迫りたる武者ふり人皆感じけるとなり。

天正十三己酉三月 上旬、秀吉公十万余騎を卒し発向有しに、根 来寺雑賀中として岸和田の並千石堀、積善寺浜の城三ケ所要害を相拵ひ、究意の弓鉄砲を多籠置 、軍勢往来の自由をさまたげけり。是に依て、 千石堀の押へは秀次卿也。都合一万五千、三月二十日未明に根来寺さして打ける所に、千石堀よ り弓鉄炮の五百人斗出、横合に散々に射て手 負死人多出来し也。秀次是を斜に御覧じ、千石堀の要害は俄に拵侍りしかば、堀柵などもはかば かしくはよもあらじ、いざあの鉄炮の者共を 横合に馬を入乗割て千石堀へ取入ざる様にせよ、去程ならば付入に攻込べしと下知し給へば、田 中久兵衛・渡瀬小次郎・佐藤隠岐守など三千 斗にて横合に馬を入べき支度に見えて進みけり。

筒井、長谷川、堀など是を見てあの勢は用有筒 井見ゆるぞ千石堀の要害を攻捕事も有べきぞ とて備を西に向て立直しければ、はや田中・渡瀬抔と、つと馬を入。五百人の弓鉄炮、四角八方 へ追ちらしかば、筒井・堀・長谷川の勢も同 じく逃るを追て千石堀へ付入に勢よとおめきすゝみ、田中・渡瀬抔いづれの勢よりも早く大手の 門へひしと付。

即、二三の丸の柵を引破、城 へ飛入々々責上りければ、弓鉄炮を以、爰を専途防ぎしかば、味方も多く討れける所に、秀次馬 廻し者、あれ助よと下知し給へば、若武者共 駈出進みければ、先備力を得、二三丸へ乗入。首三百余級を打捕勝時を揚、其侭本丸へ望しに、 堀は深し切入べき様もなく、各あくみしに筒 井の手より火矢を放し、矢倉長屋等を焼の所に、鉄炮の薬箱に火入ければ、千雷の一度に發るが 如く、城中悉く火と成。敵千六百余人悉焼け 亡びぬ。全く矢の助と云つべし。残二ケ所の出城は、是を見て、則明のき根来寺さして落行けり。 秀吉公新手六万騎をさしつかはし、此きふ ひに根来寺を攻破り、一時の灰燼となしにけり。扨、抜群の働の輩は皆御感にぞ預りけり。久 兵衛も段々御加恩有て、六万石と成。

三州岡崎 に移、秀吉公より御一字を賜り、田中兵部大輔吉政と名乗給ふ。又、其後御加恩有て九万五千石 に成(或拾万五千石共)。此時、同州西尾に 城を築、居城とし、嫡子民部少輔長顕を岡崎の城に置。則、秀次卿より一字を賜り、田中民部少 輔吉次とぞ被名乗けり。父兵部大輔は秀次卿 の御傳役にて執事職をぞ被勤けり。

吉政公先見ある事

天正十二年の事なるに、織田信雄卿と秀吉公と確執おこり手切れありければ、信長公巳来入魂の 諸大名へ彼是御頼み有けれども、秀吉公の 威勢に恐れ従ふ人少かりけるに、家康公へ頼つかわされければ、信長公巳来御入魂の義に候得ど も、家康かくてあらん程は御心易く可被思召 と御快御返答有。扨、同年四月、秀吉公多勢にて向はるゝよし聞へしかば、家康公も御出勢有。 信雄と御一所に小牧山に御在城なり。然処、 池田勝入、家康公の御当国三州表に働、国中在々所々放火せんと秀吉公へ相望に付、三好孫七郎 殿の勢1万、堀久太郎相添らる。四月六日の 夜半より、池田父子・森武蔵守・堀久太郎・三好孫七郎殿打立也。同九日、三州表へ働のよし家 康公へ告来る者有により、八日未刻、密に三 州之御発向有之也。

田中吉政も秀吉公の先手三好孫七郎秀次卿に従て出陣有しに、兼て家康公は 古今独歩の名将のよし其聞へ有し故、此節の 戦いかゞあらんと被思けるに、思も寄ぬ処に家康公の御先手大須賀康高小勢なれども味方の大勢 を事ともせずまつしぐらに蒐立しに、一万余 の多勢なれば小勢と見侮り退共遠引せず。散すれ共又集りて、敗れ難く見へし処に、家康公の寵 臣井伊万千代(二十四歳)赤旗赤印に朱具足 一等の軍兵共を卒し、旗本を抜蒐し、秀次卿の陣の横合より咄と喚て、暮直に突て掛り、一文字 に破、十文字に通る。其勢勃然たるのみに非、 修練変化度に当る。初め康高の兵士に迫悩されたる秀次の軍勢、荒手の強兵に揉立られ、暫は戦 と見しが、忽に崩靡て、長久手差て逃走る。

井伊直政・大須賀康高・榊原康政等勝に乗て追討し、首数百級討取けり。於茲、吉政は家康公の 軍立、秀吉公迚も中々容易に勝利有べからず。 取合にならば、ひま取べし。秀吉公にも天下一統を志したる人なれば、無程和平あらんは必定也 。

さすれば、唯今強く戦て人を損じては無益 の事なりと思ゐ、略味方へも心付べしと、堀久太郎秀政の陣に来て、秀次只今敵兵と戦て利を失 、敗北あり。此事を告ん為、其是迄来たりと、 其詞いまだ終らぬに、秀政眼を瞋かし大に呵して申けるは、汝は何ぞ此事を告るや、今案ずるに 是を吾に告ん為には有べからず。只敵に追散 されて来と覚と申ける。少時有て徳川家の先陣直に進んで吉政の兵に打て掛る。此時、田中申け るは、吾は卒示に戦ふべからず。秀次に伺て、 其後勝負を可決とて、不戦して北行ければ、諸軍士、堀は推察の上手、田中は使番の下手と大に 笑けり。

扨、堀の兵も此陣敗られしと、命を 不惜戦しかども、秀政の軍兵其叶わじとや思ひけん、裏崩して引ければ、秀政も咏(こらえ)兼、 楽田迄ぞ引たりける。池田勝入・森武蔵守 等粉骨を尽し戦と雖も、両人共に討死をとげし也。其後無程、信雄卿秀吉公御和睦有て、信雄御 扱有しかば、家康公も無異儀御和睦あり。其 後、秀吉公より御ちなみあり。御妹聟とし、後を心易くし九州に御下向在り。薩摩の嶋津を打従 へ、扨又、家康公を御先手とし、小田原を打 破り、奥州迄切なびけ給ひ、扨こそ天下一統し、家康公に関八州を預け給ふ。秀吉公の思召、吉 政の先見、少しも遠ざりけり。

関白秀吉公御行跡不宜に付吉政諫言被申上事

附秀吉公へ言上退身を願はるゝ事

豊臣秀吉公の武威を以天下一統の世と成、扨、関白職を御養子秀次公へ御譲り有、其身は太閤に ならせ給ふ。秀次公の御威勢咲出る春の花 の如し。就ては御内外様に至る迄、皆々時を得たりけり。田中兵部大輔吉政も御傳役にて四老の 一人なれば、是又時を得給へり。然れども、 安きに居て、あやふきを忘れぬは明将の金言なれば、つらつら世上の有様を考らるゝに、始て治 世と成ぬれば、人皆其心を安んじ、詩歌管弦 連誂茶の湯等を事とし、内には酒色にふけり、当時の楽をなし、現世安民の謀を思ふ人更になし 。

然るに、秀吉公には実の御子出来させ給ひ により、世上の波説様々なり。然は、秀次公の御身持第一なる御事なるに、世に連る習とは申な がら、次第に御身持不宜、酒色にふけり給ひ、 扨、荒々輔御行も有之、世上の評判もよろしからざりしかば、吉政度々御諫言申上られけれ共、 一向御用不被成。後には、近習の佞人是をさ さへ、色々あしく申上しかば、御用なきのみならず、御前向次第に悪く、後に相成てはよからぬ 御言も有之聞へ在に付、色々工夫致されけれ ども、諫言御用無之。只今の通りにては、災御身に及ばんは必定也。尤、事微成内ならば御咎め も可軽と考へ、御身持の次第諫言申上候。廉々 逐一書付を以秀吉公へ及無上御守役被仰付置、此仕合を奉恐入候。就ては領知差上、出家入道被 仰付被下候様被願出候。尤、内密の事故、石 田治部少輔を以、内密に被及しに、好こそ申出候。今苦諌候上は役分は相済候。出家等の義無用 也。

追て可被仰渡とて、急に御沙汰もなかり ければ、引籠被居ける内、秀次公の御行跡等、委敷御吟味有之候内、色々の事ども差出事重く相 成。文禄四年乙未、於高野山、御生害被遊畢。 吉政は御咎有之共、左程の事はあるまじと思はれけるに、右の次第故、甚恐入被居けるに、木村 常陸介・渡瀬左衛門等、秀次附の大名切腹被 仰付けれども、吉政へは何之御咎も無之。三度諌て不被用は去。是臣の道なりとの御評儀にて、 早々出勤致さるべき旨被仰渡ければ、出勤被 致けり。其時分、世間の人口色々取沙汰有之けれ共、天道は直に照すならひなりば何事もなく 勤仕也。自分も直に勤仕之処、快も被思ざりけ れ共、古今の例を考存直し、又忠勤をぞ被励けり。彼の斉の晏平仲楚に使する時、群儒の難問 に答る内、晋国の太夫たりし伯宗が子の伯洲犂 問て日、晏子固に時を識、変に通ずる乃士、然れ共崔杼荘公を殺す時其禄を食の臣賈挙より以 下節に死する者数無陣文子馬十乗あり棄て位を 去りぬ。其不義の富貴を見る事幣たる履を脱が如し。子は乃、斉の故家世々君の禄を食ことの 也。既に君の死、節に従ふ事能はず。又禄を棄、 位をもさらす。

是何利名に汲々として廉恥に昏々たるや、晏子是を聞、対て曰、大節を抱く者 は小諒に拘はらず。遠き慮ある者は豈流俗に従 んや。吾聞君者稷の為に死する時は、臣是に従ふ。荘公は、崔氏の妻を姦淫して殺せらる。社 稷の為に非して死す。吾何ぞ其不義に従って一 時の名を汚さんや。且、吾位を去らずと雖ども、新君を定めて以て宗祠を保んず。固に、君 を顕はし業を立んとす。是尸位素餐には非る也云。 戦国の英雄皆如此と見えたり。

上杉景勝謀叛為追討家康公御出陣並景勝追討被差置御引返之事

附岐阜落城之事

太閤秀吉公薨去巳後は御遺言に任、五大老五奉行申談、御政事執行ひける所に、奥州会津上杉 中納言景勝謀叛の聞有により、御吟味の上、 為追討。家康公、慶長五年庚子六月十八日辰上刻、伏見の城を御発駕有て、御手の人々並に太 閤秀吉家の大小名連らね田中兵部大輔父子も御 供なり。御道中領主々々より餐応の御膳を献じ奉る。同二十一日は四日市場に出御あり。夫より 御船に召され参州岡崎に着せ給へば、田中兵 部大輔吉政膳を献ず。則御前に召て行平の御腰物を賜りける。夫より日を経て御旅行あり。

同 二十八日藤沢御止宿、同二十九日絵の嶋御参詣、 七月朔日鎌倉御見物金沢に御止宿、翌二日江戸の城へ入御あり。暫御逗留。其内秀忠公より大 名衆を招請有て御餐応の上御能被仰付誠に緩々 としたる御形勢に諸人不心得思ひけり。七月十九日迄は上方擾乱(江州佐和山城主石田治部少輔 三成秀頼公并御母堂淀殿の仰を請し畿内中国 四国九州の大名を語らひ謀叛を企るなり)の事、関東には沙汰なかりしかば奥州に御発向有。

景 勝誅戮有べしとて江戸中納言秀忠公を先陣に 被仰付、三日先達て七月十九日御首途有。同二十一日家康公も江戸の城を御発駕有御家人并御旗本 の輩悉々供奉しけり。太閤家の諸大名も次 第を追て相従ふ。二十二日には岩槻に着せ給ひ、城主高力河内守清長餐応し奉る。此に於て上方不 静よし何となく風聞す。翌二十三日下野国 小山に着御有て此所に暫く御逗留あり。

然る所に鳥居元忠・内藤家長・松平家忠・松平近正が伏 見より遣したる使者井伊直政が方へ来る。則 書を献じ飛脚の口上申上る。於茲三成の謀叛の事慥に知し召なり。秀忠公を御呼返し御相談の上 諸大名を被召呼右之趣御披露あり。景勝退治 相止られ石田を退治被成候に付諸大名は勝手次第に引取可被申旨被仰渡候処福島左衛門大夫・黒 田甲斐守・細川越中守・加藤左馬助・田中兵 部大夫・藤堂佐渡守・生駒讃岐守・蜂須賀長門守・寺沢志摩守・戸田肥後守・桑山伊賀守・池田 三左衛門・堀尾信濃守・浅野左京大夫・山内 対馬守・有馬玄蕃頭・京極丹後守・西尾豊後守・一柳監物等は直に御先手可仕旨被申出誓紙被差 上候に付、井伊・本多被差添尾州清洲之被指 登せ、其外は本国は帰国なり。

扨景勝厭として、結城には秀康卿、宇都宮には秀行を被召置、同 二十八日小山より秀康公は江戸の城へ御入。 秀忠公は木曽路を経て御上洛なり。然るに真田の上田の城にて御隙取、御出陣延引也。御先の大 名は八月十四日尾州清洲に着陣して御出馬を 相待けれども御出陣延引に付、孰も不審をなし居ける処に、二十一日の晩景に関東より御使として 村越茂助罷下り直言をなすに依て諸将疑を 散じ、各申談、岐阜を攻べきよし関東へも申上、其手配を致しけり。福島左衛門太夫・細川越中 守・加藤左馬助・黒田甲斐守・田中兵部大輔・ 藤堂佐渡守・蜂須賀長門守・井伊兵部少輔・本多中務大輔等、萩原・尾越の渡をこえ大手に向ふ 。

池田三左衛門・一柳監物・堀尾信濃守・浅 野左京太夫・山内対馬守・有馬玄蕃頭・中村彦左衛門等川上の渡をこし搦手へ向ふ。此方に城兵 打出防戦をなす故に軍早く始り、東国方勝利 のよし追手の方へ聞えしかば、先手の後に成たる事口惜き事也と、二十二日戌の刻に打立八月二 十三日の寅の刻、大手の諸軍靱屋町口惣門迄 犇々と打寄て、夜明方には高町を責破り瑞龍寺の砦等も責落し、追手搦手の諸軍一同に岐阜城へ 攻掛り多勢の事なれば討るる者をのりこえて 責登る。城兵も武蔵砦に於て勇を励して散々に戦けれども、終に責破られ本丸に引入て、七間矢 倉に楯籠る。寄手の諸勢心を合せ揉立々々攻 けるに、城主織田秀信の家臣本丸の門に出笠を揚て矢留を乞、頻に和睦を請しかば諸将同心し岐 阜城を受取けり。

吉政公江渡川先陣之事

岐阜後詰として石田三成、嶋津兵庫頭義弘を相伴ひ八月二十三日、呂久河戸近辺まで軍兵を押出 す。石田の軍士杉江勘兵衛・森九兵衛軍兵 数千引率し河戸堤へ出張す。東国方には黒田甲斐守長政・田中兵部大輔吉政・藤堂佐渡守高虎・ 生駒讃岐守一正・松下右兵衛尉吉綱等岐阜の 寄手なりけれ共、後詰心もとなく其身は引下り、先手斗岐阜城へ差向を遣し置しに、岐阜城早落 城し手に不合口惜と牙を噛し処に、石田が軍 兵河戸に出しよしを聞、天の与へと大に悦び各馬を進め河度の川端迄押寄せけれども、頃日悪大 雨に水かさ増り中々渡るべき様無りければ、 水の落るを待んとて諸勢心をゆるめ居けれども吉政は何様先陣を心に掛、川端近く馬を乗寄せい づくよりか可渡と見給ふ処に、三郎右衛門と 云者、轡の水付に取付居けるが、其瀬踏可仕と申て其侭川に飛入游けるが逆巻水に落され一町斗 流れ浮きぬ沈みぬ流れ漸々此方の岸に流れ付 取て返し游けるが半町斗流れ水底に巻込れて暫不見けり。諸人是を見て不便なり。命を知らぬ馬 鹿者哉と口々に云ける所、良久して浮上り三 町斗川下にあがりよろよろとして吉政の馬の水付に取付私語申けるは思ひの外川浅く候と申に付 其儘馬を打入給ふ。此洪水に河伯神は、不知 とは思へども、油断は不成と吉政をまもり居たる処、如案馬を打入給ふ。川口九郎右衛門(十七 才)中村采女(十八才)吉政の真先に乗渡。 其外、都合二百余騎、我先と川に乗入々々颯々と打渡す。

此三郎右衛門は水練の名人なりけるよし。其後苗字を江渡と給り物頭に申付られけり。諸手の軍 是を見て、我劣らじと乗入々々流を 切て渡しける。石田の軍兵是を見て川よりあげ立じと半途を討て防ぎしか共、東国勢は事ともせ ず錣を傾け曵々声を出して、向の岸に 駆上る。加之諸勢一度に上下の瀬より渡り襲攻る。石田が軍将杉江と森と二手に颯と立別れ、前 後の敵に相逢て火を散してぞ戦ひける。 然れども東国方は、目に余る大勢なれば、杉江も森も蒐乱されて引退く東国方は気に乗して逃る を追事一里斗、石田が兵士足を乱し右 往左往に逃行、中に軍将杉江勘兵衛は殿して道筋を靜々と引退く。吉政是を見て自ら兵を進めつ つ、杉江を討んと喰留けり。勘兵衛少 も不恐蒐破り駆戻し、二三度迄戦けるを、吉政の臣辻三太郎と名乗馬上にて組て落、上に成り 下になり組合処へ、三太郎が弟中村小三 郎と云者馳来り馬より飛下り、杉江を押へ頭を取らせけり。小三郎も此日能武者を討取ける。

辻三太郎、後勘兵衛と改名す。小三郎も勝左衛門と改めける。前に出たる川口九郎左衛門中村采 女も江渡の宿にて各能武者を打取、一二の 諍有之ども、川口九郎左衛門兄喜多村庄七郎(後は三右衛門)敵と太刀打して二ケ所手負けれども 、浅手なれば終に其敵を討捕鼻をかき具足 の綿齧に結付、馬に打乗十町斗行けるが、大事の鼻ぞと思ひ、綿齧を探て見れば無之、手負骨 を折て取たる鼻を落したる無念也と思ひ居ける が、急度思ひ出し、首を取鼻をかきて馬に乗たる時、馬蹉て落馬する。其処にて落したるらんと 思ひ、馬を引返す。扨、落馬の処へ行道にて 能敵に逢ふ。折節、鑓持殿馳して来る。其鑓おつ取衝ければつきはつす所をつと入、鑓の柄を打 そき、具足の胸板を切。餘る太刀にて、左の 大指を切れ何としてか敵うつぶきに倒。兜鏨の手変を押付、鑓持弥右衛門に首をかかせ、日本一 の仕合仏神守らせ給ふと、馬に打乗て帰んと せしが此仕合にては落したる鼻も千万に一つも見付る事もあらんと思ひ、馬引返し、落馬したる と思ふ所へ行、大形此辺ぞとあたりを見れば、 紙に包みたる物あり。鑓持弥右衛門是をあけて見れば鼻也。悦事限無し。吉政具に聞給ひ、無双 の手柄也と感ぜらる。其後、与頭申付られけ れども病気申立、御断申引込、筑後国赤司の城の二丸を預給ふを能事にして居たりけり。

吉政より留主番の家老中へ申越さるる書状左のごとし。

急度申遣候きふさんし落城候。民部少輔働被申候。
一、於本丸坂本孫右衛門一番乗、吉次眼前に被及見其働無比類候。猶、吉次に馬鑓鐘之門取上ケ   候儀、諸手へ隠有之間敷之由、民部少輔   被申候。誠以於父子喜悦之至不斜候。
一、こうだう表、敵働し処、手前経無人候。先陣之渡切勝数人打捕候。手柄之程、其聞可有之候   。則内府公え為父子御注進申入候事。
一、手負共養生無油断毎心付専一候。弥西国表吉左右追々可申遣者也。

申下刻 八月二十三日   兵部 吉政 判      宝生坊      宮川佐渡守 殿      坂本孫兵衛 殿

此書、今坂本金三郎家に持傳。

家康公濃州御発向附関ヶ原合戦之事

去程に家康公は追々勝軍の注進有ければ、九月朔日江府を発駕これあり。十一日には清洲に着せ 給ふ。其半途迄為御迎井伊本多参り向ふ。 御先手の諸大将も不残途中に出向ひ、御着陣の事を賀し申、家康公仰けるは今度各手を砕き、郎 従も亦勇を励み力戦を仕、依之大敵と云、要 害と云殊に此秀信は西国方随一と頼を掛、関東勢の厭として、石田を始一味の諸将高き山、深き 海と頼母敷思ひし処に、只一日合戦に輙く責 取こと、武勇と云、智謀と云褒備するに詞なし。軍神の血祭首途の高名也と向様に褒給へば、諸 大将面目有て是に過たる眉目あらじと各大に 悦けり。

一両日此所に御逗留有て人馬の息を被休けり。十三日岐阜に御着陣御座けり。爰に石田 の老臣嶋左近は三成の先手として株瀬川の辺 に陣取たりしが、中村一忠の陣近く兵を進め、鉄炮を放し掛、頻に渠を偽り引、折節在合若者共 悪き敵の所為哉。倡や蹴散し捨んとて駈合て 追立たり。兼て計し事なれば、少し戦ふ風情して弱々と引退く。中村勢は気に乗て北るを追事甚 疾し。然るに左近は林の中に兵を備へ待受て 在ければ、一度にどうと喚て出中村勢を取籠て不洩と揉たりけり。一忠が軍勢共、一足も蹈留得 ず、或は逃走る。敵兵共は気に乗て何国迄も と追来る。時に有馬玄蕃頭豊氏は場所を見済し横合より打入て喚き叫て戦しかば、左近の軍兵共 新手の勢に揉立られ取次に成て進み得ず。

此 横合に力を得て、中村の郎等返合せて火出る程戦ひけり。左近の軍兵追立られ足を乱して逃けれ ば、有馬・中村両勢は気に乗て追蒐、株瀬川 の堤に於て左近の兵共大返に取て返し、鉾先より火炎を出し、汗馬東西に馳違、旌旗南北に開き 合せて七八度揉合けるが、中村・有馬の両勢 二度左近に追立られ、東を差て逃走る。此時有馬が軍士の内に稲次半兵衛と云者、小返しするぞ と名乗、唯壱人取て返す。石国が陪臣花木外 記渠も追て槍を合。家康公遙に御覧有て、井伊直政・本多忠勝に仰けるは、中村・有馬の軍兵不 慮に軍を挑み勝利を失ふて兵を退る事不叶、 汝等にあらずんば兵を引取事叶ふまじ。両人往て味方の兵を可引揚と也。両人畏て往向ひ指揮す るに、味方の軍士下知に応じて、則兵を退け るに、敵兵追こと不能じと也。

其軍兵の取扱ひ、皆人是を奇しと感じける。去程に株瀬川の軍一 旦西国方利有に似たれども、東国方大勢なれ ば嶋左近も利なくして彼に難堪とし、石田が陣へ告しかば、三成大に驚き、嶋津・浮田・小西以 下の諸将を招き、今多からぬ勢を以て勝誇り たる大勢に戦ふ共利有まじ。関ヶ原迄引退、味方の多勢と成、合て広場にて軍せんといふ。小西 行長は然るべからずと色々勧けれ共、諸将更 に不肯。取物も取敢ず、九月十四日の酉の刻悉く陣所を払ひ、牧田の間道を経回て関ヶ原へぞ引 取ける。東国方の軍兵は都合七万五千余人。 九月十五日の未明に垂井を経て野上関ヶ原の間に備を立。西国惣勢都合拾壱万八千余人兵を段々 に手分しけり。

先上垂井の南なる南宮山が鼻 には毛利宰相大江の秀元・吉川蔵人侍従広家并長曽我部宮内少輔盛親・長束大蔵大輔正家・安国 寺以下二万三千八百余騎、弓鉄炮を組合山よ り麓迄十八段に備たり。此内吉川広家より秀元は不合点成けれども、使者を作り立、秀元・広家 等は輝元同前に敢闘方仕り忠戦を可抽旨申入 けり。然れども其體きびしく見へしかば油断為べきに非とて、池田三左衛門尉輝政・浅野左京太 夫幸長・堀尾信濃守忠氏・山内対馬守一豊等 本多忠勝を軍監として其勢一万三千七百六十余人、駿河.遠江の軍勢共に岡の鼻の敵をおさえさ せられけり。

又松尾山には筑前中納言秀秋・ 脇坂中務大輔安治・朽木河内守利綱・小川土佐守祐忠・赤座久兵衛直保陣しけり。大谷形部少輔 吉隆は秀秋の心替りを推量しければ、平塚因 幡守・戸田武蔵守・津田長門守等示し合せ、兵を三つに分て関の藤川より西と東とに川を隔て、 松尾山に陣したる秀秋の陣を守りて備たり。 石田治部少輔三成・嶋津兵庫頭義弘・舎弟中務大輔義家・小西摂津守行長等は東国勢の旗の手を 見て関の藤川を打渡、小関を南に当巽に向て 備を立。又備前中納言宇喜多秀家大軍にて同所に陣す。又大谷形部少輔吉隆・平塚因幡守為広・ 戸田武蔵守重政・子息内記重宗・津田長門守 信成等相従ふ。

既に石原峠を引下し、谷川を打渡、関ヶ原の北の郷に押出し、西北の山を後に当 て不破を左に見て、是れも同く巽に向て陣を 張。東国方の先陣は福島左衛門太夫兼てより承之て陣を張。御旗本の馬廻は鶴翼に備を立つ。右 の手は山内対馬守・有馬玄蕃頭・堀尾信濃守・ 寺沢志摩守。左は京極丹後守・金森法印、子息出雲守・生駒讃岐守。御旗本迄は十六段の備と定 む。先手一番は福島左衛門太夫。二番は細川 越中守。三番は加藤左馬助。四番は黒田甲斐守。五番は田中兵部大輔。六番は筒井伊賀守。七番 は井伊兵部少輔。八番は本多中務少輔。九番 は松平下野守忠吉。十番は藤堂佐渡守。十一番は蜂須賀長門守。十二番は織田源吾信益入道有 楽、子息河内守。十三番浅野左京太夫。十四番 池田三左衛門尉。十五番は寄合組。其次は御旗本と次第を定て押出して、其後所々に手向有し中 にも、福島正則は東国方の先手なれば子息刑 部少輔鉄炮八百挺弓五百張段々に組合せて先矢合の鎬を石田が先手へ射掛八百挺の鉄炮をつるべ 放に金鼓を鳴して閧を揚たりければ、東兵是 を受取て同じく楯の端胡禄を打敷きて、都合七万五千三百余人閧をどうと作りたれば、西国勢 十一万八千六百余人同じく閧を合せけり。

敵味 方拾九万三千余人が一度に叫ぶ声なれば、東西南北数十里に響き渡て、大山も是が為に崩やつら んと夥し。諸手一同に軍始て敵味方交り家々 の紋付たる旗東西へ靡、伊吹嵐に翩翻し入乱たる斗にて何れを味方と見分ざりし。海道依り北の 山手は福嶋・加藤・筒井・黒田・細川・田中 等、石田・小西・宇喜多の先勢と乱合て揉合。又、右の方道より南は、東国方藤堂・京極・蜂須 賀等と、西国方は大谷・平塚・戸田・津田等 兵を二つに分一手は松尾山に勢を厭させ、四人一手に合せ相懸りに蒐て軍を相挑む。東国方の従 軍石川伊豆守・織田有楽父子・古田大膳亮・ 猪子内道助・船越五郎右衛門・佐久間久右衛門兄弟先登して相戦ふ。爰に松平下野守忠吉卿・井 伊兵部少輔直政は七番の備なれば、敵に逢ん 事若遅からんかと軍兵を本陣に残し置、両勢僅三千余騎、関ヶ原より不破と小関の間、加藤・筒 井の陣の間に加藤・筒井と成合て嶋津兵庫頭 が勢と相戦ふ。又、池田・浅野・山内・堀尾・本多等は南宮山岡が鼻の敵を厭へて守り居たるに 、彼勢は戦へしども不見、諸手(大将)は所々 において火水に成て相戦にいつまで斯敵を守て手空ふすべき倡や、中筋を突崩し、嶋津・宇喜多 の大兵と戦ん、されども爰を一向に捨ては山 上の敵気を得て討て掛る事も有べければ、勢を残して此敵を押へ可然とて、半を残し関ヶ原合戦 の半なる時、横合より蒐入て中筋を突崩し、 嶋津・宇喜多に打て掛る敵味方の射違る矢は夕立の軒端を過る音よりも滋く、打合太刀の鍔音は空 に響、山彦の唱止むひまも無りけり。

世の 人に名を知られたる一人当千の輩、声を発し備を乱して石田が陣へ馳入揉立々々短兵急に勢め戦 ふ。両陣互に奮迅の力を出し、武威を争ひ、 東へ追、靡けば西へ追帰し、轆轤を転ずる如く追回れば車輪の如く廻り返す。去れども馬強なる 関東勢に当られて討るる者数をしらず。石田 が兵士戦屈し驚破立て、西を差て頽れ掛る。福嶋愈機に乗て掛よ攻よと下知するに、小西摂津守 行長は少こと不漂渠も同く太鼓を打て石田が 勢に入替て十文字に蒐破る。石田も是に力を得て小返しに返して相戦、一挙に死をぞ争ひける。 家康公は此在様を御覧じて、敵の旗色騒ぎ立 たるぞ、軍は福嶋討勝たるぞ、吾惣人数閧を作りて、石田・小西を脅かせと自ら太鼓を撃唱し閧 の声を揚たりけり。

石田・小西が両勢色めき 立て見へしかば、家康公は鞍上に立騰て朱施を揚て軍士を摩き、吾旗本の先陣は一同に馬を入よ と近習の輩も前一軍は備を頽し、石田・小西 の横合を討べしとて自ら御馬を進め給へば、御旗本の先備槍の穂先を一面に揃へ、馬の轡を雁行 に雙て突て掛る。其競揺々として山の動く如 くどうと叫て横合に馳入たれば、小西・石田の両勢暫く戦とぞ見へし。東西南北に別れ裂て右往 左往に北げ走る。御旗本の軍兵共逃る敵を追 討しければ御馬廻の勢透たり。此時家公上ケ二三返吹しめ給ひ、軍を班せと麾き給ひけるに、敵 を軽く追捨て蟻の如くに集り皈る時、旌旗を 押立て八陣をなし給ふ。其軍令のすみやかなる事、恰も神の如くなれば、敵も味方も感じけり。

小西・石田の勢は、伊吹山草の谷、伊勢路に 落往者も有。或は谷に落入て死をいたす者も在り。皆立足もなく敗北する中に石田が老臣嶋左近 子息新吉父子は蹈留々々追来る敵と戦ける。 斯る所に関ヶ原の左道筋の南の方より藤堂佐渡守高虎・京極丹後守高知両勢横合に蒐入けり。左 近是を不驚、馬を急度立直し、彼両勢に渡合 ふ。左近の家人諌めけるは、吾々爰にて討死せん、君は爰を遁れ給ひ石田殿の御先達を見給へと て、命を捨て相戦ふ。左近父子を落さじと、 藤堂玄蕃允透間をあらせず責掛る。左近の嫡子嶋新吉義勝と名乗て取て返し、玄蕃允に無手と組 て馬より下に動と落、新吉上に成て玄蕃允の 首を掻処に、玄蕃允の小性高木平三郎馳来り、嶋が上に落重て首を取、父左近は子息新吉の討死 を夢にも不知、近付敵を追払々々終無難延け り。爰に筑前中納言・左衛門督・小早川秀秋は家康公元兼々御味方仕り裏切り為べきよし内通す。

彼旗下に相属したる脇坂中務大輔・小川土 佐守祐忠・朽木河内守利綱・赤座久兵衛尉等同じく内通し、一所に松尾山に陣しけるが、其雌雄 をや計り兼けん。巳の下刻迄一戦も始ざりし。 然る処に家康公の御勢も石田の陣に横槍に入て彼勢を追崩す。其折節御旗本の勢透て責ば則破る べく見えしかば、秀秋以下の諸大将能き透間 を窺見て、御旗本へ突掛らんと色めきける所に、家康公の御人数共雲の如くに集て備を堅くしけ れば敗難しとや思ひけん。忽、兵を立直し松 尾山より引下し大谷刑部少輔吉隆に討て掛る。

大谷兼て心替を推量して兵を分て待掛たる事なれ ば、少も不騒、鉄炮三百挺つるべ放、弓二百 張哉衾作て射ける程に、死生は不知、矢庭に二百余被打倒、先陣白みて進み得ず。大谷遙に是を 見て一文字に打てかかる。初め被打立色めき たる秀秋の先陣、大谷に巻り被立、若干の大勢が味方の陣に頽れ掛りける程に、味方の多勢に揉 立られ、友崩れして四方へ散て逃去る。かか る処に東国かた松平下野守忠吉卿・井伊兵部少輔・本多中務大輔・藤堂佐渡守・京極丹後守等四 方より大谷の方へ討て懸る。

刑部少輔始より 討死と覚悟をしければ、大勢を見ても気を不屈、三軍に当て勇を振ふ。平塚因幡守も山内対馬守 等と相挑み討死せんと武威を振ふ。然れ共平 塚も討れ、吉隆も自害しければ凶徒の軍兵悉く敗北して、玉藤川を打渡り、伊吹山へと北上る。 東国方の諸大将備を乱して追討す。如此敗軍 する中に、嶋津兵庫頭義弘舎弟中務大輔義家、打残されたる兵僅に三千余騎を相従へ東国勢数万 騎が中に討て入、懸破々々南に向て落て往。 筑前中納言秀秋、嶋津兄弟を討留よやとて兵を進て追い蒐る。相伴ふ輩に脇坂・朽木・小川・赤 座等都合其勢二万余騎、松尾山より下り掛、 嶋津の兵を追掛る。元来剛なる嶋津なれ共、敵の太刀先の鎧の總角、甲の錣に二ツ三ツ打当る程 近付、一同にどうと喚て大返しに取て返し火 出る程戦ひけるに、備を乱して遂げる故にや秀秋以下二万余騎立足もなく被追立山上に逃上る。

松平下野守忠吉卿・井伊兵部少輔直政が両勢 入替り(莫馬?)直に打て懸る。義家の軍兵は旗をも不指二千斗満円に成て落行処に両勢の追を見 て足早に二町斗引退き、高き所に蒐上り打 残し射残たる弓鉄炮矢玉を不惜放しければ両勢干討殺され砕易して四度路に成る。直政も二カ所 疵を蒙り血を止めける。

其内に軍少猶予しけ れ共、嶋津山より下り打て掛駈破り落行けれ共、遁さじと追蒐る。義家則取て返し、十文字に掛、 通り旋風の如く相巡る。忠吉卿は衆に先立 て自武威を振れしかば自余の敵には目を不掛、大将に組て討んと挑みけれども、度々の戦に息絶 え疲るるのみならず大将も士卒も深手浅手負 ぬ者もなく、馬武者を追詰て可討様もなく、今は是迄と、嶋津義家馬上にて腹掻切て太刀の鋒を 口に含で馬より俯に落て貫れて死にけり。

是 を見て討残されたる郎等二百八十三騎馳入々々戦て一人も不残討れけり。其間に嶋津義弘は虎口 を遁れ僅に五十余騎を引具して伊勢路に掛り て落行けり。今度討取首共を御実検有けるに都合首数三万五千二百七拾級也。高名の次第に随ひ、先当 座の褒美として感謝状金銀を賜りけり。

吉政公佐和山白攻并に石田を搦取る事

関ヶ原の軍散じけれ共、石田三成の行衛知れざれば、定て佐和山へ立帰り籠城するならんと、筑 前中納言秀秋・田中兵部大輔吉政・宮部民 部少輔・井伊兵部少輔・石川右衛門等に被仰付ければ、早速其用意をなし、九月十七日の早天諸 手一同に攻掛り短兵急にぞ攻たりけり。城内 も待請たる事なれば、矢炮をはなし、爰を先途とふせげ共、勝誇たる東国勢切れ共打ども事共せ ず、水の手口より田中兵部大輔城内へ乗入、 松原口切通口よりは家康公の御家人攻入しかば、城兵皆本丸へ引退。扨其後、腹隠岐守・石田杢 頭等、井伊直政が陣へ使用を出し城兵の一命 を助けらるるに於は一族残らず切腹申べしと有により、其旨家康公へ伺しに、御許容有に依て石 田一族切腹し、十七日辰刻落城也。

家康公は 十七日午刻永原へ御陣を移されしが、田中兵部大輔を召給ひ仰けるは、石田三成佐和山に籠城せ ざる上は何国に落たるも知かたし。貴殿は江 州の案内者なり。急ぎ江北へ馳趣き、石田を尋出さるべしと仰出さる。去程に田中吉政は石田三 成を捜し出すべき為北近江に至り、其身は井 口村に在て諸方へ人を差遣しせんさくす。此時手の者に向ひ、治部は風流を好む者也。若道筋に 匂の留る鼻紙あらば心を付けよと下知せらる。

石田三成は、関ヶ原の破より一先ヅ佐和山へ立帰り寄手を引受潔く腹切んとは思ひけれども、敵 に追隔られ彼方此方とさまよう内腹痛を煩出 し、僅の行歩も難叶容体なれば漸く古橋村へたどり付少ししるべの有ければ、与次郎太夫と云者 をたのみ其隣を受一両日は保養しけれども、 一円快無之難義しけるに同村の又右衛と云者来り、石田殿を隠し置るよし此邊きびしく御穿鑿あ れば顕れて御咎めあらん事必定也。其心得せ られよと云けれども、与次郎曽て驚かず。さらぬ様にもてなし帰しけるを、三成物陰より是を聞、 与次郎太夫を近づけ、汝の懇志申尽し難く 候。然れどもかく運命極て一身を置に処なし。

此上は田中方へ注進して、我等を引渡すべしと有 により、与次郎太夫泪を流し御情なき仰かな。 何とて殿を田中殿へ渡し参らすべき、此所より何方へも忍ばせ給へといひけるを、三成推返し申 所は祝着なれども、迚も煩ひ重ければ纔の歩 行も成難し。兎角して捜出されては必ず汝が身のためにあしく、我等も覚悟なき様なれば只々田 中へ告しらせよと有により、与次郎太夫力な く其旨を詔へければ、兵部大輔家人野村傳左衛門・沢田少右衛門等与次郎太夫が家に押入、野村 先だって石田を組臥縄をかけ乗物に乗せて、 井口村へ連帰りける。兵部大輔は途中へ出向ひ慇懃に挨拶有ければ三成も面色打とけて、一戦に 利を失言語同断無念なり。去ながら太閤への 報恩と思へば今はさまでの後悔なし。又今日迄身を離さず秘蔵せし脇指は、先年太閤より給りた る切刃貞宗の珍器也。筐にまいらすとて田中に授く。

又、石田三成は関ヶ原敗北より北近江草野寺に隠れいしが腹痛を煩て打臥いたりしを江民共怪し みて此趣田中手先へ告来る。仍て田 中兵部大輔軍士の内田中(野村)傳左衛門・沢田庄左衛門等罷越穿鑿するに、草野寺を遁出草野谷 の瞼岨の中に、綴れ小袖を身に纏ひ、 米少しこし袋に入、草刈鎌を腰にさし、破れ笠を( )に当、樵夫の姿に身を窶し平臥て居たりけ る。傳左衛門・庄左衛門等樵夫に尋 逢て何者ぞと問けるに、是は樵夫にて候が俄に病差起り如此と答ける。されども其詞樵夫に非ざ れば傳左衛門搦取吟味そけるに石田三成なりと云々。

扨、井口村に連帰り懇に餐応し、医師を附、薬をすすめけれども、三成同心せざりしを色々さと しければ、三成も承引して薬用し、同二十 日の朝まで彼所に逗留して保養を加へける。同二十三日の晩吉政、三成を召連大津の御陣へ参着有 ければ、家康公殊外に御悦喜有。

石田を本 多上野介正純へ預られ医師を御附御小袖等あたへられしと也。其後、田中兵部大輔を御前へ召て 御辺は江渡関ヶ原にて戦功あらはし、今又石 田を擒にせらるる事一方ならぬ功労なりと仰らる。田中は三成を召捕せたる御物語の序に、彼の 指たる脇指は一年太閤より給りたる切刃貞宗 (或は切刃兼真云)の名刀也とて、此度某にあたへ候しが囚人の引出物なれば、清かたき御事也と 有ければ、家康公申さるる所は、さる事な がら今更石田の志をむなしくせらるるもいかが也。其上太閤の手にふれ給ひし物とあれば、かた くかたく我等の差図に任て其方所持せらるべしとぞ宣ひける。

吉政公筑後拝領付柳川其外城普請并善政の事

関ヶ原合戦御理運に成しかば、軍功の諸大将へ御恩賞有之。中にも田中兵部大輔吉政、此節所々 の軍功無比類との仰を以て、岡崎拾万石を 転じ、筑後一円三十二万石を被下けり。吉政も身に余り面目をほどこし給ひけり。扨、黒田・田中 は無二の御味方たるにより、両人へ筑前・ 筑後を被下候事、九州壓の思召の由御内意成ければ、先、守禦の備第一可成と、柳川の城を広め 修築を加へ、福嶋に新城を取立、有来の城々 修築を加へ、柳川を為本城、自分是に被居。

久留米の城には二男田中主膳正。福嶋城には三男田 中久兵衛尉康政。高尾城には家臣宮川才兵衛 (六千石)。三潴郡榎津城には榎津加賀右衛門(三千二百六十石)。同郡城島城には宮川讃岐(六千 八百石)。御井郡赤司の城には田中左馬(一 万百八十石)。上妻郡黒木城には辻勘兵衛(三千六百五十石)をぞ被置けり。扨、惣家中へも其軍 功其勤に応じ、皆々加増新知を為取。且其聞 へある諸浪人等追々被召抱、武器を制し、軍役の手当をなし給ふ。寺領等も先規の如く被寄付。

扨、百性は国の本、民厚ければ国強しと、税 斂を薄うし、仁徳を施し給ふ。然るに当国村々に水帳無之租税之法相知れず。其故は是迄名嶋よ り秀包領以北は民に水帳を渡さずして有しよ し、此時名嶋の浪人元勘定役を勤し人、筑前上座郡に居たるが、筑後一国の水帳所持したるよし 其聞え有により、田中家より是を所望有けれ ども与へざるにより、国中より銀8貫目程出さしめ、上妻郡甘木村の庄屋市次郎と云者才覚有者 なれば、是に其胎銀を為持彼水帳を乞取しむ。 則与へければ、田中において是を以田法を正し古制を復す。租税の法は土地の上下と年の豊凶と に従て是を征す。内検高凡て七拾五万石有し と云。是は深意有事也。後人察知すべし。其頃乱国の末なれば、百性も気荒にて喧嘩をなし、或 は一撲を企てなどして不静に付在々所々に所 持の刀脇差不残被召上。

慶長八年夏の頃、国中古城跡等御吟味被遊、八町嶋古城御覧被成、前々の筋目有之候者罷出様子 申上候得と、任御意、岩橋新左衛門 入道得也若起時分罷出古城の義、薩摩陣此方を一々申上、薩摩大将忠長より被下候免状差上る。 吉政御覧被成其分の者ならば、御取上 被成候刀脇差御免被成候との御意にて、慶長八年七月六日に磯野伯耆・田中勘右衛門当御印被下。 則是也。其後柳川へ御礼に罷出候て、 伯耆・勘右衛門にこれこれと申上、両人衆即( )吉政へ被申上、新左衛門を御城へ召寄られ刀脇 差御渡被成如何様にも取続候へ、自 然の時は召寄さるべきとの御意にて御褒美被下候て罷帰る也。
   御井郡之内古賀村新左衛門道具事
一、わきさし    一こし
一、かたな     壱こし
右二こしの分先あつけ至候間可相渡者也
慶長八年七月六日

                    吉政 判      磯野伯耆殿      田中勘右衛門

諸事無残所治め給により四民安堵の思ひをなしけるとぞ

承応四年下妻郡中嶋村庄屋市郎兵衛が書上候書付の内にも慶長七年より元和六年迄拾九ヶ年の間 は御仕置高下少しも無御座候て下々迄緩こ と世渡り仕候。兵部様は元民にて米七石御取、其後段々と御仕上ケ、筑後三十三万石御取被成候。 就夫下々の委細まで発明に無甲乙被成候と 云々。数百年の干今至と雖、筑後の租税の法、隣国に比較るるに最も軽し。故に民寛緩なり。

他 国より来る人は安住して不去、他国へ出奔し たる者は大形後には立帰者多し。爰を以て見る時は下のゆるやかにして暮し好き事見るべし。

(以上、田中興廃記の興之巻…平成六年九月八日入了。)

  

吉政公が祀られている真勝寺

真 勝 寺 (柳川市新町)

真 勝 寺(本堂) (この下に吉政公はねむっている)

田中吉政公の墓(本堂)伽藍の下にある