矢部村の伝説・民話

軍用金のなぞ

御側の村人の言い伝えに「黄金千枚朱千枚、千万無量のしるしには砥石(といし)」というのがある。軍用金を埋めてあるところに目印として砥石を置いたということで、その場所は神のお告げによってのみ判明するそうである。

高取の人が神のお告げで御側墓所の榎の木の下を掘ったところ、黄金が少し出てきたとか。

また、征西府の御用倉があったといわれる三倉にも軍用金にまつわる話がある。それは「朝日当たり夕日当たる、その印には二つ葉の南天」、つまり二つ葉の南天を植えて目印として軍用金を埋めたというのである。三倉の御倉屋敷というところに一坪にも余るほどの二つ葉の南天があったという。発掘したら面白いだろうと、第五代村長轟政次郎の父君が言われたそうだが、いまだにその南天がどこにあるかわからない。

いずれにせよ、次第に落魄していった征西府のことだから、莫大な軍用金が残っていることはまずあるまい。

鳴かぬクツワ虫

良成親王のお墓は、雪の中に静かに佇んでいた。積雪はおおよそ二十センチ。八女の行き詰まりの所だけに、山が折り重なっている。前に立ちふさがる黒々とした杉林は、カスリ模様である。谷あいから吹き上げる風に粉雪が帯になって峰を駆け上る。音さえもしない。

後征西将軍宮良成親王は、南朝の勢力を盛り返そうと奮戦したが、足利幕府より九州探題として派遣された今川了俊の軍勢に菊池本城を陥されて以来、宮方は振るわなかった。親王は大杣を在所として南朝復興の努力を忘れない。

そういったある日のこと、クツワ虫が「ガチャガチャ」とやかましく鳴き立てた。攻め入りにくい天嶮の地という安心感はあったが、親王は追われる身であったため、クツワ虫の鳴き声が気のせいか敵方の馬の轡(くつわ)の音のように聞こえてくる。親王はイライラした気持ちを抑えることができず、目をカッと見開いて「黙れ!!」と一喝された。それ以来、大杣ではクツワ虫は鳴かないという。

親王は戦い利あらず、この地で亡くなり葬られた。土地の人は、今でも親王を敬い、毎年十月八日には、親王の供養を盛大に行って御霊を慰めている。

七人塚

北向の七人塚

北向の七人塚

三国川と御側川の合流する所、川の南、城山(高屋城跡)の北に少しばかりの農地がある。地名を北向といい、今は近代的な矢部小学校が建っている。校庭の東側の田んぼの中に一基の塚がある。人呼んで七人塚という。

南北朝の争乱の頃である。ここに一軒家があった。そこに戦いに敗れた七人の落武者が逃げ込んできたのである。敵は川をはさんで対岸に陣取って、敗残の武士を探しまわっていた。

ある日、一軒家の女が川を渡って用を足しに来たので、北側にいた兵士が女を捕えて逃げた武士たちの行方を問い糾した。女ははじめは隠していたが、おどされ恐しさのあまり遂にありのままを話してしまったのである。北軍は直ちに川を渡って一軒家を襲った。七人の武士たちは必死で防戦したが、ついに刀折れ矢尽きて、非業の最期を遂げてしまった。この時、武士たちは「女のひと言のために禍いを受けた。未来永劫、女には崇るぞ」と叫んで死んだということである。

ここに葬られた塚が七人塚である。

また、南北朝で戦死した人を葬ったという千人塚というのが、矢部村に三ヵ所あるという。 場所の確認はできないが、七人塚の北と、鬼塚、土井間にひとつずつあるということである。

矢部の戦いで千人もの戦死者があったことは記録にないので、沢山の人が戦死したという意味か、他所から運んできて葬ったということであろう。


矢部のヤン七さん

  矢部のヤン七さんな   馬から来たが   五島の権十どんな 帆で逃げた

これは、郷土柳川が生んだ国民的詩人、北原白秋の詩の一節である。

当時矢部の里は、俗世を離れた山里で、そこに住む人たちは純朴であった。よその町へ出ることも少なく、出ればなにかとしくじって笑い話を残すのである。矢部のヤン七さんは、その矢部を代表する伝説の人で、愚直なまでに純朴な人柄をしのばせる愉快な話である。

矢部のヤン七さんが柳川から嫁御をもらったが、嫁の里帰りではじめて柳川に行った。嫁の実家では、大事な娘の婿殿のお出とあって、アゲマキの吸物を出したというものである。ところが、矢部のヤン七さんは山暮らしのため、有明海で採れるアゲマキははじめてで、食べ方がわからない。すると、家の人が「アゲマキはヘコ(ふんどしのことで、アゲマキには身の周囲にヒモ状のものがついている)をはずして食べるとばんも」と教えられたので、自分のふんどしを外してお膳の上に置き、「なるほどこうすれば、涼しく食べられるわい」といって、すました顔でアゲマキをご馳走になったということである。

また、家を出る時「柳川の家の入口には、のれんというものが下げてあり、夏は蚊が多いので蚊帳というものが吊ってある」と教えられていた。寝間にいくと部屋に蚊帳が吊ってある。 「はは−ん、これがのれんと蚊帳だな?」とヤン七さんは、蚊帳の一方をのれんと思ってはぐって入り、もう一方を蚊帳であるとまたはぐって外に出て、一晩中蚊にくわれて寝ていたという。

また、嫁の実家で出たエビがとてもおいしかったので、お土産に買い求めて帰ったが、それは赤いローソクであったとか。

愚かというより、なんと微笑ましい話ではないか。

明治の伝記的人物

郷土カ士 小霧島忠太郎

二タ板の笹又橋のたもとの台地に、老松天満宮の分祀といわれる天満宮がある。 その狭い境内の一偶に「力士小霧島忠太郎碑」が建っている。碑には名前のほか、何も記されていない。

小霧島忠太郎は本村二タ板生まれで本名は吹原忠太郎といい、「小霧島」というしこ名を持つ 柳川藩お抱えの力士であった。今日のように日本相撲協会による大相撲はなかった時代で、 当時は各大名が自分の好みと藩の力を誇示するために召しかかえていたものである。

小霧島がどのくらいの番付であったか、成績はどうであったかは、記録がないのでわからない。

木札は通行手形で、巡業の際関所で提示したものである。

 「右之者相撲業躰ニ而、諸国通行候道中人馬無遅滞曳立可給候、  尤川渡之所々滞無之様取計可給也」   明治二巳年 桑原殿内 山崎将監  宿村々川問屋役人中

また小霧島は、戊辰の役で大阪、会津の戦いの時には、官軍の砲兵隊に召集され従軍した。帰国後は矢部村の顔役として村のために尽力したらしく、漁業組合の書類が吹原家に残っていたという。

「明治二十五年五月二十二日決議案    第一区漁業組合副頭取 五条蛍雪     鵜一羽五円     長網百四十銭     投網三十銭     釣針竿二十銭     鮎一人ニ付四十銭      漁業組合取締役 吹原忠太郎」

ハト雑炊

久留米の殿様がサシロウ庄屋にお出ましになった。殿様は、庄屋どんに「矢部の者は何を食べているのか」と尋ねられた。庄屋どんが、「ハ(葉)とゾウスイ(雑炊)を食べています」と答えると、「ハト(鳩)がそんなにとれるのか」とおっしゃったとか。

この話とは別に次のような話もある。

殿様が「矢部の百姓はどうして目の玉が大きいのか。矢部の百姓は一体何を食べているのか」と問われた。「ハト雑炊などを食べております」と答えると、殿様は「ようそんなに鳩がとれるのう」と感心されたという。殿様はお城でよく鳩雑炊を食べていたからであるという。

ホシガナヤマ

久留米の殿様が矢部に見物に来られて庄屋どんの家に泊られた。山の中のこととて酒の肴に出す ものがない。庄屋どんはとっさの思いつきで、ホシガナヤマ(干物)を差し上げた。帰っての土産話に「矢部で下駄のハを食べたが、大変おいしかった。矢部で食べた下駄のハをもう一度食べたいものだのう」といったという。干物が下駄のハに似ていたためであろうか。

長柄の手水(ちょうず)

今の矢部中学校のある所は、もと庄屋屋敷であったそうな。そこには十五歳になると、髪も元服姿に中剃りして、ハンを押しに出なければならなかった。ところが、誰も朱肉など持って来ている者はいない。そこで庄屋は皆の手が汚れているのを見て、手をきれいにさせようとして「長柄の手水鉢(ちょうずばち)を廻せ」と言った。ちょうどそこに長野の長太郎というお人好しの青年が来ていた。皆の者は、庄屋の言葉を「長野の長(ちょう)(づ)をハチ廻せ」と聞いた。そこで「庄屋さんの言われることだ。しばらく我慢して、勘弁してくれ」と言って、長太郎の頭をかわるがわるぶったということである。

エノハ(魚の名前)の由来

昔御側に大へん親孝行の青年がいた。ある夏の昼さがり、夕飯のおかずにと思って御側川の上流、八ツ滝(王谷尻から御側川の上流にある八ツ目の滝のことをいう)に魚釣りに出かけた。ところがどうしたことか、この日に限って魚は一尾も釣れない。あたりはだんだん夕闇が迫ってきた。青年はあきらめて帰り支度を始めた。するとその時、水面に一人の白髪のおじいさんの顔が映った。ふと頭を上げてみると、滝の上の岩に仙人のようなおじいさんが立っているではないか。しばらくたってから、その老人が青年に話しかけた。「青年よ、嘆くでない。何事も辛棒が第一じゃ」と言ったと思うと、その姿は消え去っていた。あとには、ただ榎(えのき)の葉がハラハラと滝壷に舞い落ちてきた。

青年は思い直して、せめて一尾なりとも釣り上げたいと思い、また釣糸を滝壷にたらしてみた。すると、どうだろう。今度は不思議なことに、ググッと大きな手ごたえがあった。引き上げてみると、今まで見たこともない大きな美しい魚がかかってきたではないか。次々に糸を投げ込むと、釣れるわ釣れるわ、またたくまに籠いっぱいになった。青年は喜び勇んで家に帰り夕飯の御馳走を作った。

それから、この魚を「エノハ」というようになったということである。(栗原与市の話)

実は、栗原与市という人の兄、市蔵という人が、青年の頃出稼ぎ先からエノハを持ち帰り、八ツ滝に数尾放流したので、「エノハ」が御側川に棲息するようになったらしい。

「エノハ」は、アマゴ、アメノウオとも呼ばれ、サケ科の一種である。全長四十センチぐらい。 主に川上の清流に住む寒帯性の魚類である。ヤマメの地方型であるという学者もある。体側の小判型黒斑と美しい小さな朱紅点がある。三〜五年ぐらいで産卵し、産卵後は雌雄とも死ぬ。串焼き、フライなどに調理し、山間の珍味となって食卓をにぎわす。