八女教学の祖 江崎済

八女教学の祖 江碕済

八女教学の祖 江碕済

 

「光は東方より」とは、ギリシャの哲学者であり歴史学者であったヘロドトスの言葉である。西洋文明の起こりは東方(オリエント〜今の中近東)から始まり、西ヨーロッパに広がったという意味である。

八女地方の近代教育の源流をたどっていくと正に「教育の光は東方(この矢部の地)より」ということができる。教育の光を八女の東方、この矢部の地から起した恩人こそ八女教学の祖「江碕済」であり、村民はそれを誇りに思うと同時に江碕済の業績を永遠に忘れてはならない。

生い立ち

江碕済は、弘化二年(一八四五)四月二十六日久留米藩士森山栄太郎(安清)の長男として生まれ、幼名を元次といった。森山栄太郎は十石三人扶持の徒士(かち)で、久留米の南部庄島中ノ丁に住んでいた。

兄弟のなかった元次は、両親の温かいしかも厳しい愛育のもとで成長し、安政元年(一八五四)十歳にして藩校明善堂に入って教育を受けることとなった。

明善堂は、第九代藩主有馬頼徳によって創設され専ら儒学を教える藩校で、戦前は中学明善校、今日の県立明善高等学校の前身である。

元次の成績は抜群であったという。十七歳の時、漢学者加藤米山の塾に入り、約五年間漢学の素養を積んだ。その間の猛烈な勉強ぶりには、友人たちも驚嘆するほどであったという。家にあっては四畳半の部屋に閉じこもって、ほとんど寝食を忘れて漢籍を読破した。行灯のうす暗い灯りの下で蚊帳もつらず、寝床も布かないで徹夜することも稀ではなかった。その姿は蓬頭弊衣、顔色は蒼白として、これを見た友人たちは皆慄然としたという。

このように元次がひたすら漢学に精進しているうちに、日本の内外の情勢は一大変革期を迎えていたのである。即ち彼が十歳にして藩校明善堂に学んだ安政、万延年間にかけて、徳川幕府が朝廷の勅許も待たずに、米、英、露、仏、蘭などと和親条約、修好通商条約を結んだことから、尊王攘夷、佐幕開港論が沸騰し、安政の大獄につづいて萬延元年(一八六〇)井伊大老の桜田門外における兇変、文久二年(一八六二)の生麦事件や京都における寺田屋事件、同三年(一八六三)長州の外国船砲撃、七卿の都落ち、元治元年(一八六四)の長州征伐や真木泉州の天王山における自刃など、国内は騒然たるものがあった。筑後では、真木和泉守や高山彦九郎など維新回天の大事業に活躍していただけに、少年期から青年期を迎えた元次に与えた影響はきわめて大きかった。

元次は成人して江碕済と改名、巽菴と号した。封建制下の厳しい階級社会の中で純固たる漢学を身につけた済が、明治新政下の青少年教育に全身の情熱を傾けた経緯を知るためには、郷土筑後の歴史とその時代的背景をいくらかでも知っておく必要がある。

大楽事件と江碕済の苦悶

久留米藩は、初代有馬豊氏以来徳川幕府の九州各藩に対する監視的役割を帯びていた。したがって外様大名とはいえ幕府とは親密な関係を保ってきたため、幕末に至るまで佐幕的傾向が強かった。しかし内外の刺撃を受けて藩内においては早くから勤王思想が胚胎し、いわゆる天保学派の結束が強く、藩政改革、尊王運動の中心となっていた。こうした藩内の佐幕開港派と尊王攘夷派の対立抗争が激化し、その熾烈な抗争の犠牲となって多くの有為な人材が失われていく久留米藩の情況を見て、心ある人々は深くこれを憂慮していた。江碕もその一人である。

不破美作らによって刷新された藩校明善堂の中に与えた影響もまた大きかった。それだけに副寮長に起用されていた江碕済の苦悶も大きかった。

江碕済はこのころ考えるところあって、明治二年久留米を出て筑前の亀井塾を訪れ、ついで東京に赴き麹町半蔵門の安井息軒の門を叩いたのである。東京において清新な空気にふれた江碕済が久留米に帰ったのは明治三年の秋二十七歳の時である。

ところが、久留米藩においては容易ならぬ出来事がもち上がっていたのである。

いわゆる大楽(だいらく)事件である。
開塾之地跡

開塾之地跡 (矢部村桑取藪)

先に尊王攘夷を掲げて王政維新に成功し、明治政府の要路に立った薩長土肥の人々が攘夷論を一蹴したかのように政治のうえでは欧米諸国との親交を深めるとともに、日常生活の衣食住に至るまで欧化主義をとり始めたのである。しかも、久留米藩は藩閥政治が濃厚であったので、政治に参画することもできず、久留米藩のみならず、全国各藩の尊王攘夷論者を極度に刺激する結果となった。

長州藩における奇兵隊の幹部大楽源太郎もまた明治政府の欧化政策にあきたらぬ人で、ついに我慢しきれず奇兵隊を動員して山口県庁を襲撃したが、失敗に終わり隊員は悉く逃亡離散してしまった。明治政府は大楽源太郎の長州における暴挙をきわめて重視し、その追求はきびしかった。大楽ははじめ熊本に走ったが、その追求がきびしく、同志を頼ってひそかに久留米藩にかくれた。久留米藩は弘化、安政のころから勤王運動に努力を続けたにもかかわらず、維新の明治政府に何らの発言力も持ち得なかった不満から、明治政府に反対し大楽をかばう空気も強かったのである。

大楽を久留米に隠匿しているということで、久留米藩は苦境に立たされた。久留米藩の存亡を考えると大楽をこれ以上かばうこともできず、遂に大楽をおびき出して誘殺することになった。明治四年三月十六日夜のことである。大楽は殺され、大楽隠匿の嫌疑にかかわったほとんどの藩士が峻烈な刑を受けて事件は落着したのである。

その頃明善堂は、藩の支援を絶たれ廃校寸前であった。そうした中に起こった大楽事件は江崎にとっても大きな打撃であった。

そのとき、先に明善堂の居寮生であった若林卓爾(後の久留米市長)と内藤茂三郎(後上妻郡岡山小学校長)が深刻な顔をして、江碕を尋ねてきた。二人とも大楽事件の関係から不安を感じ、その相談に来たのである。特に若林は大楽事件の厳しい追求を恐れ、おたがいに久留米城下に身を置くことの危険を強調した。そこで三人協議の末、矢部山中に難を避け、しばらく時の推移を見ようということになったのである。

矢部山中桑取藪に韜晦(とうかい)

三人はしめしあわせて密かに久留米城下を去り、黒木町大渕の五条氏を訪ねて一部始終を打ち明けた。大楽事件が重大化していることを知っていた五条氏は、矢部山中の桑取藪の百姓家を紹介した。久留米から黒木まで六〜七里、さらに黒木から矢部まで山伝いに歩いて四〜五里の行程である。

人煙稀に見るこの山中を三人は矢部川沿いにさかのぼり、日向神の景勝をめでる間もなく鶴椎葉、谷野、笹又、鬼塚を経て石川内まで苦しい山道を急いだ。桑取藪はさらにこれから一里以上の山道を上らなけれぱならない。久留米城下の俗塵を避けて、身を隠すにはもっとも格好の場所である。

ところが、ここで三人が自給自足の生活を続けていくには相当の無理を伴った。慣れない山中の生活に若林卓爾はまもなく病をえてやむなく久留米に帰り、内藤茂三郎もまた我慢しきれず山を下りた。しかし、ひとり江碕はこの山奥にこもって晴耕雨読の生活を続けた。

済が矢部山中に隠棲を続けているということは、次第に藩内に知れわたった。その学才を惜しむものも少なくなく、中にはわざわざ桑取藪まで訪れて教えを乞う者もあった。また地元の矢部黒木あたりの青年たちは、江碕の教えを乞うてやまなかったという。

矢部小学校の創設

明治五年学制が発布されるや久留米では後藤良蔵や梅野多喜蔵、柳川では安東多記、宮本宗四郎らが小学校創設に立ち上がると、矢部山中にこもっていた江碕もまた学制の発布に大きなショックを受けた。学制の仰出書の全文に目を通すと、これまでうっ積していた済の気持は晴ればれとするように明るくなった。彼は早速山を下りて小学校創設に奔走し始めた。

当時久留米や柳川などでは、小学校教育にたずさわる人材を得ることはさして困難ではなかったが、八女郡のしかも人煙稀な矢部で小学校教育にあたる適当な人物はほとんどいなかった。漢学者として藩内でも高く評価され、矢部山中にその学才を埋れさせることを惜しむ声が少なくなかった江碕が、自ら小学校創設に立ち上がったのであるから、地元有識者は双手をあげて喜んだ。当時の三潴県庁の出先機関である上妻郡の郡長を経て、矢部小学校教員の辞令も出たので、明治六年の春には早くも開校の運びとなった。仮校舎として宮ノ尾の栗原常次がその居宅の一部を提供した。

こうして八女郡ではもっとも早く小学校が創立され、江碕が八女教学の祖といわれるゆえんである。

ところが、開校はしたものの生徒はなかなか集まらない。毎日山を越え谷を渡って一軒一軒を訪問して、学校教育の必要性をかんでふくめるように説いてまわった。都会をはなれたこの山村の父母たちに説いてまわる江碕の苦心は、想像に余りあるものがあった。政府は仰出書などの布令は出したものの、それに対する予算の手当てをしたわけではない。大抵の小学校は旧藩時代の藩校や寺院、私塾、有力者の住いの一部を教室に充てることができて、まだましなほうである。

そこで江碕が考えたのが講会というものである。一口三円の掛金で四十人余りの賛同を得て建築資金に充てることにした。

こうして明治七年、二階建三十四坪の校舎と十五坪の校長住宅、百十二坪の運動場が旧矢部小学校跡地(現矢部村役場、中央公民館)に完成したのである。ついで日出にも校舎十五坪、運動場四十坪の分校が建設された。こうして、この矢部村における明治初期の小学校は発足したのである。ちなみに明治二十三年の「小学校令」までは小学校とはいわず、小学とだけ呼ぶ。

矢部小学校は宮尾、稲付、福取、中村、大園殊正寺、女鹿野、堤、今村、六本松、上御側、下御側、三倉、梅地藪、石川内、竹払、神窟、片山、飛、土井間、真弓尾、栗原、ニツ尾、古野、田出尾を通学区域とした。

日出分教場は、日出、秋伐、枳殻(げず)、別当、桑取藪、茗茄尾、尾ノ崎、蔵当、論地畑が通学区域となったが、両校区とも都会では全く想像もつかない遠隔地であり、ここに通学する児童の困難もさることながら、江碕校長の辛苦も並大抵ではなかった。「家二不学ノ徒ナカラシム」という太政官布告も、この山村の大部分が農業や林業を業とする杣人にとって何のことかわかるはずもない。当時本村のみならず貧困な農山村においては、子どもでも家業の手伝いとして草刈りや薪拾い、子守りなどの重要な労働力であった。月謝まで払って学校にやるということは迷惑千万なことであった。それだけに江碕校長の労苦も就学の勧誘や資金調達など並大抵ではなかった。

そのうちに地元北矢部善正寺の住職田中智旭と宮原聞多という二人の青年教師が矢部小学校教員として江碕校長を扶けることになった。

校舎とともに狭いながらも校長住宅ができたことは、江碕にとっても大きな喜びであった。その当時彼はすでに三十一歳、婚約も整った三谷棹子と結婚式を挙げ、老父母、新妻もここに呼んで、ひたすら小学校教育に全力を傾けることができた。

矢部塾の開講

彼の高潔な人格と漢学の深い造詣を慕ってその教えを受けようと筑後地方一円の向学心に燃える青年たちが少なくなかった。そこで江碕は小学校教育にあたる一方、小学校の二階を教室にして漢学の塾を開いた。そのことが伝わると黒木、北川内、八女はもとより三井、浮羽、三潴、久留米、柳川などから袴、脚絆、草鞋姿で山道を上ってきて、その教えを乞うた。当時塾生は、月五十銭を納める定まりであったが、それはその頃白米一日六合として一ヵ月の宿泊費に充てられていた。
田中智旭

田中智旭

 

当時の矢部塾入門者名簿には、塾長鏡山修をはじめ三十三名の名が連ねられているが、その中には善正寺住職田中智旭やのち矢部村長になった宮内万吉、坂本虎之助や新宮勇など矢部村の人もいた。

講義は四書五経、論語、孟子とその他の漢籍によって行われたが、その教えは単に漢籍の講義にとどまらず、絶えず時代の進展に即応して国家社会に有益な人間の育成をめざす実学を重視した。

「恥とは何か。恥を知ることである。小にしては個人の恥、大にしては国の恥、各人が恥も外聞もないような行為をすれば、世間のひんしゅくを招くのは当然なことである。また国家としていつまでも西欧諸国の指導援助を受けるようでは、正に大きな国の恥といわなければならない。いま日本の青年は、立派な独立国を築きあげようとしている重大な秋に際会しているのである。諸君は時代の進展に目覚めて真剣に学問の道に励み、自らの知識と人格を磨き、立派な日本人として活躍してもらいたい。」

江碕の講義には、祖国を愛する情熱がほとばしっていたし、青年たちの目は希望に輝き、先生の熱弁に我れを忘れて聞き入ったのである。

力説する先生とこれに聞き入る子弟との交わりは、矢部の渓谷を流れる清流のように清く、また美しかった。

黒木塾

矢部塾における江碕の講義は、たちまちにして筑後一円の評判となった。当時は全国的に教育施設が不備で筑後地方の各町村でも小学校経営に苦心し、適切な教師を求めることさえ困難を感じていた。矢部に隣接する黒木や北川内では江碕の学徳と業績を高く評価し、塾の誘致を計画する有志が現われた。黒木の五条氏や北川内の素封家木下甚助などである。彼らは矢部山中の不便さを説き、熱心に招へいしたが、江碕としては両親、妻子もあり、矢部小学校のこともあったので簡単に求めに応じることもできなかった。しかし田中智旭が訓導になると明治九年矢部塾を黒木に移し、後事を田中に託して矢部小学校を正式に辞任した。

黒木塾に移転すると、生徒はさらに増えた。黒木塾時代の名簿には、矢部塾時代の塾長であった鏡山修をはじめ三十九名の名があるが、その中には三越デパートの創始者、比日翁助、後年陸軍大将となった仁田原谷三郎(重行)、矢部村長坂本鉄之進などの名が見える。

三越創立者 日比翁助 陸軍大将 仁田原重行

三越創立者 日比翁助

陸軍大将 仁田原重行

北ぜい義塾(ほくぜいぎじゅく)

馬鈴薯王 牛島謹爾

馬鈴薯王 牛島謹爾

江碕の名声と業績は、いよいよ筑後一円の識者の認めるところとなり、各地から勧誘の交渉が行われた。中でも熱心だったのは、北川内村で酒造業を営み八女郡内でも屈指の素封家木下甚助であった。木下は教育にも最も熱心で江碕を北川内に迎えたいと熱心に誘ったが、江碕は簡単に応ずることもできず、再三丁重に辞退した。機を逸すると他へ行かれはせぬかという懸念があったのか、木下は郡長堀江三尚に相談して江碕を北川内村の戸長(村長)に任命することにした。

木下の熱心さに動かされた江碕は、明治十二年北川内小学校長として父母、妻子眷族といっしょに北川内に移転し、黒木塾もここに移して「北ぜい義塾」と名を改めた。戸長の実際の仕事は父栄太郎が果たしてくれたので、江碕は青少年教育に全力を傾けることができた。その時彼は三十五歳、棹子夫人との間に三児をあげている。

北ぜい義塾にはさらに多くの青年たちが門下に集まった。塾生には河原峰次を塾長として八十七名の名が挙げられているが、その中にはのちに衆議院議員となった木下学而、アメリカで馬鈴薯王といわれた牛島謹爾、武田範之、渡辺太郎、西田重遠、のち陸軍中将松浦寛威、淳六郎兄弟など各界で活躍し名を成した門下生の名前が連ねられている。

明治二十五年江碕四十五歳のとき、黒木上ノ峰尋常高等小学校長となり、明治二十八年には三井郡松崎尋常高等小学校長として転任することとなり、北川内の北ぜい義塾も閉鎖の止むなきに至ったのである。

江碕の晩年と終焉

江碕済の書

江碕済の書

江碕は請われて松崎尋常高等小学校長になると同時に三井郡教育会長にも挙げられ、小学校教育に八年間尽粋した。

そのころになると日本の教育制度も整い始め、中学校や女学校、工業学校、商業学校、農業学校などの実業学校も各地に設立されるようになった。

そういう中で、江碕は明治三十六年九月五十九歳の時請われて県立中学明善校助教諭心得となって専ら漢文科を担任することになった。久留米市荘島町に居を構えた江碕は、新知識を身につけた若い教師にまじって矍鑠として教壇に立った。登校する生徒にまじって歩く白髭をたくわえた江碕の風貌にはおのずから威厳があり異彩を放っていたという。

江碕の学識の深さと世の評価は、明治四十四年陸軍特別大演習で明治天皇を明善校にお迎えしたとき、時の福岡県知事寺原長輝の依頼により上表文を起草したこと、大正四年七十一歳のとき福岡県庁舎、議事堂改築落成に際し、庁舎を「観聚閣」と命名し、撰文を起草したことでもその名声がうかがえる。

江碕がその晩年を明善校教諭として教鞭をとる間にも、かつての門人たちは荘島の宅にその安否を尋ねてきた。そうしたいつまでも変わらぬ門人たちの熱い恩義に報いられる一方、家庭もまた良妻賢母の棹子夫人の内助の功を得て温かい家庭であった。
喜寿と金婚式を迎えた江碕夫妻

喜寿と金婚式を迎えた江碕夫妻

江碕は十人の子宝に恵まれ、長男規矩は東大を経て住友銀行の幹部、次男準縄は早稲田高等師範部を卒業して教育界へ、三男衡は米国スタンフォード大学で電気学を学び横浜船渠の技師に、四男雷八は渡米して農園経営、五男達夫は東京高等工業を卒えて朝日新聞印刷局長の要職についた。また五人の女子はそれぞれ良縁を得、長女貞は黒木町長隈本勝三郎に、二女ゆきは福岡県会議員宇野赳夫に、三女梅子は小学校長稲富広吉に、四女秋は海軍主計少佐橋爪修一に、五女小枝子は日本車輌師長兼吉節にそれぞれ嫁し、良妻賢母の実をあげた。先年亡くなった代議士稲富稜人は、三女梅子の子である。

大正十年江碕は七十七歳の喜寿を迎えた。友人や門人たちは棹子夫人との結婚五十年の金婚式を併せて久留米萃香園で喜寿の賀宴を開いている。牛島謹爾は出席できなかったが、アメリカから「巽菴江碕先生の喜寿を奉賀して叙す」という長文の手紙を寄せている。

これら多くの子弟たちの終生変わらぬ尊崇と敬慕に守られながら、江碕済巽菴は大正十五年十二月二十日明善校教諭の現職をもって没したのである。享年八十二歳の生涯であった。

明善校では学校葬を計画したが、遺族の固辞により実現しなかった。

偉大な郷土の教育家江碕済にふさわしく簡素ながらも盛大な葬儀が行われ、久留米市日吉町順光寺に葬られた。

江碕済顕彰碑の建立

昭和五十七年、江碕済の業績と遺徳を永遠に顕彰するため、有志相い集い江碕の孫にあたる故稲富稜人を委員長とする北ぜい義塾建碑委員会が発足した。そして八女近代教育発祥の地矢部村大字北矢部桑取藪の塾跡に「江碕済顕彰碑」が建立され、内外の大勢の有志により盛大な除幕式が行われた。

その碑文は、久留米市の詩人故丸山豊が撰している。

「先生の高い学識と深い徳性によって故園に心の種子を蒔かれました。 北ぜい義塾はその大きな足跡です。先生を敬仰する私たちは、ここに 来て無量の教訓を学び、精神の真の豊穣へ志を立てるのです。」      丸山豊      昭和五十七年十一月建之               北ぜい義塾建設委員会                     外有志一同

江碕済先生年譜
弘化 2年(1845)
 〃
弘化 3年(1846)
 〃
嘉永 3年(1850)
嘉永 5年(1852)
嘉永 6年(1853)
安政元年(1854)
萬延元年(1860)
文久元年(1861)
元治元年(1864)
慶応 3年(1867)
 〃
明治元年(1868)
明治 2年(1869)


 〃

明治 3年(1870)
明治 4年(1871)


 〃
明治 5年(1872)
明治 6年(1873)

明治 7年(1874)
明治 8年(1875)


明治 9年(1876)
明治10年(1877)


明治12年(1879)
明治14年(1881)
明治18年(1885)
明治21年(1888)
明治25年(1892)
明治28年(1895)

明治33年(1900)
明治36年(1903)
明治44年(1911)

明治45年(1912)
大正 4年(1915)
大正10年(1921)
大正11年(1922)
大正13年(1924)
大正15年(1926)
 〃
4月26日久留米城下荘島中丁有馬藩徒士森山栄太郎長男として誕生
6月7日10代久留米藩主有馬頼永公篠山城に入城
7月・頼永公篠山城において病没、享年25才
10月・慶頼襲封11代久留米藩主となる
6月14日・江戸赤羽藩邸において参政村上守太郎刃傷事件起こる
5月・真木泉州等幽閉さる
米使節ベルリ浦賀来航
(10才)藩校明善堂に入学
3月・江戸桜田門において井伊大老暗殺さる
 (17才) 加藤米山塾に入門
7月・真木泉州京都山崎天王山において自刃
 (23才) 藩政改革により明善堂居寮生に抜擢され副寮長を命ぜられる
大政奉還・王政復古の大令下る
1月・久留米藩参政・明善堂教授不破美作暗殺さる
1月24日・今井栄・喜多村弥六・北川亘・松岡伝十郎・久徳与十郎
石野道衛・本荘仲太・梯譲平・松岡誠蔵・吉村武兵衛徳雲寺に於て切
腹
 (25才) 明善堂を出て、筑前亀井塾を訪れ、間もなく上京し安井息軒
の塾に学ぶ
 (26才) 帰国・三谷樟子と婚約
長州(山口)奇兵隊幹部大楽源太郎外3名久留米藩内に逃亡、これを
隠匿誘殺の罪により主謀者小河真文死刑、大参事水野正名以下数10名
の藩士投獄さる
 (28才) 若林卓爾・内藤蔵三郎とともに矢部山中桑取藪にとう晦
8月・学制発布
 (29才) 矢部小学校教員を拝命、矢部小学校創立に奔走、北矢部村宮
の尾栗原常次宅の1室を借りて開校
 (30才) 矢部村有志と計り講会を起し小学校々舎建設資金を募る
 (31才) 北矢部宮の尾(現在の矢部小学校所在地)に新校舎並に住宅
完成、両親・夫人悼子を招く。小学校教育のかたわら青年のための矢
部塾を開く
黒木小学校兼務、黒木塾を開く
西南戦争おこる
 (32才) 2月矢部小学校を辞し、後事を門下生田中智旭(訓導)宮原
聞多に托す
 (35才) 北川内小学校長となり、北ぜい義塾を開く
仁田原重行陸軍士官学校入学、明治16年陸軍少尉任官
牛島謹爾上京二松学舎入学
牛島謹爾東京高等商業学校本科進級試験に落第、12月横浜出帆渡米
 (45才) 5月北川内小学校長を辞任、黒木上の峰高等小学校長となる
御原郡(三井郡)松崎高等小学校長となり、同郡教育会長に挙げられる
北ぜい義塾閉鎖
牛島謹爾米国より帰郷
 (59才) 9月・県立中学明善校教諭となり漢文科担任
 (67才) 筑後平野において陸軍特別大演習挙行、明善校は明治天皇の
行在所となる。福岡県知事寺原長輝の依嘱により上奏文を起草
仁田原重行陸軍中将に任ぜられ第2師団長となる
 (71才) 福岡県庁舎会議事堂改築に際し観聚閣記を起草
 (77才) 5月15日・久留米市櫛原町萃香園において喜寿金婚祝宴を開く
日比翁助帰国
3月24日・陸軍大将仁田原重行逝去
3月27日・牛島謹爾米国において死去
 (82才) 10月20日・明善校教諭現職のまま逝去、久留米市寺町順光寺
に葬る


生涯学習の先取り 竹原青年会の夜学会

夜学会誌

夜学会誌

明治初期に向学心に燃える若者たちに学習の 場と機会を提供したのが江碕済の矢部塾であっ た。矢部塾は矢部小学校の校舎が当てられたが、 そこで学ぶ者は、村内の中心部のごく限られた ものであったし、江碕が去ったのちはその存在 も薄れてしまった。

竹原や日出、御側などのような辺境の地に あっては、小学校以外に若者が自ら学ぶ場と機 会はなかったのである。

明治後期から大正にかけて各地区に青年会を 組織し、好学の若者たちが自主的に学習会を開 く以外になかったが、その会場や指導者には恵 まれなかったと思われる。

その中で、竹原の青年会の夜学会は盛んで、 村内外の注目を集めた。

竹原地区には大正七年以降の夜学会誌が残さ れている。この夜学会誌は、毛筆和綴じの日誌 である。轟矢泉の執筆で、夜学会の起こりや学 習状況、個人の成績など克明に記録され、興味 深い。

それによれば、まず社会の進運は青年の自覚 と教養を要求し、大正二年十月、竹原青年会が 結成されてその会則第七条第二項により夜学会 が開講されたこと、小田直次郎、小田慶蔵、姫 野収、若杉重蔵ら好学の士十四人が集まって緒 方氏の留守宅を借りて学習が始められたことな ど記されている。さらに、大正四年、青年たち の熱意に動かされて村から十円と用材の寄付を 取りつけたこと、青年会が六、七日もの奉仕作 業によって敷地をならし、学習会場を建設した こと、戦争で出征者が多くなり閉鎖の止むなき に至ったことなどが記されている。

そのあと会員の学習成績などについて記され ている。

第一回  算術科答案    一〇〇    若杉 博君    九八     轟 定彦君    九五     江田鉄蔵君  第二回  読方答案    九五     小田慶蔵    九〇     轟  定彦

など毎回ごとに一人一人の成績と所見が付し てある。

学習内容としては、国語は読み方や作文、算 術では歩合や分数、比例などであった。

指導者は、執筆者の轟矢泉や大正四年高巣小 学校に赴任してきた松延徳次郎など、地区の有 識者や小学校の教師であった。

生徒たちの作文も「静かな夜」とか、「他出 青年に意見を求めるの文」とか掲載されている。

この向学の気風は、夜学会が閉鎖されたのち も、有形無形のうちに地区民に大きな刺激を与 え、今日でも地区のみならず矢部の文化、教育 の風土に息づいているのである。

まさに今日、さかんに提唱されている生涯学 習の先取りで、教育の力がいかに大きいかを如 実に物語るものである。

なお、他地区の青年会の動きは、明らかにす ることができなかった。

最後に、轟矢泉の「夜学生諸君へ」と題した 短歌を記す。

 老いて後悔ゆるとも何か甲斐あらん   勉め励めよ若き身をもて