八女の地名おこる

古代の矢部

八女市より八女東部の山地をのぞむ

八女市より八女東部の山地
をのぞむ(八女市)

古代になると、日本書紀の中にはじめて八女 の地名が見える。

景行天皇(大足彦忍代別尊)が八女の県(あがた)に巡 行されたとき、「東の山々は幾重にも重なって まことに美しい。あの山にたれか住んでいるか」 と尋ねられた。そのとき、水沼の県主(みぬまのあがたぬし)「猿大海(さるのおおあま)」 が「山中に女神あり。その名を八女津媛といい、 常に山中におる」と答えたことが記録されてい る。これから八女の地名が起ったといわれてい る。

その女神を祀ったという八女津媛神社が矢部 村大字北矢部字神ノ窟にあり、創建は養老三年 (七一九)三月といわれている。

ついで、持統天皇四年に「上つ陽(やめ)、下つ陽 (やめ)」の名が出てくるが、これはこの頃の八女地 方が上・下に分かれていたことを示すものであ ろう。

その後、八女地方は好字嘉名をもって三字を 二字に省略したものと思われるが、上妻、下妻 の二郡になり、上妻は太田、三宅、葛野、桑原 の四郷、下妻郡は新居、鹿待、村部の三郷であ ったことが平安時代の「倭名抄(わみょうしょう)」に見えるが、 矢部村は三宅郷にあたるのではないかと推定さ れる。

大化の改新の公地公民の制によると「五十戸 を以って里となし、里毎に里長一人をおき、戸 口を検校し農桑を課殖し、非違を禁察し、賦役 催駐することを掌らしむ。而して四十里を大郡、 三十里以下四里以上を中郡、三里を小郡となし、 郡毎に郡司を置く」とある。

その後、大宝令により郡制を改めて五等とし た。すなわち「二十里以下十六里以上を大郡、 十二里以上を上郡、八里以上を中郡、四里以上 を下郡、四里以下を小郡とす」とある。
 元明天皇和銅六年(七一三)の詔に、郡郷の 制度を、郡は郷を統べ、郷は里を統ぶるとある が、のち里を郷に改めている。しかし、この制 度は次第に乱れていった。
 以上のことから考えると、上つ陽唐フ郡は十 二里以上の上郡、下つ陽唐ヘ四里以上の下郡で あったかと考えられる。

平安時代も末期になると、公地公民の制はく ずれ、各地に荘園(貴族・社寺・豪族の私有地) が発生したが、上妻郡にも川崎荘、広川荘、水 田荘があり、矢部は地理的にも川崎荘と密接な 交渉を持っていることから、川崎荘の一部で あったかと考えられる。