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岩戸山古墳 −筑紫国造磐井の墓− 福岡県八女市 2000.12.2

                八女丘陵
                
                筑紫の君の幾世代にもわたる墓域と考えられる八女丘陵(やめきゅうりょう)は東西10数kmにおよぶ。この丘陵には西側から石人(せき
                じん)山古墳、神奈無田(じんなむた)古墳、岩戸山(いわとやま)古墳、乗場(のりば)古墳、善蔵塚(ぜんぞうつか)古墳、鶴見
                (つるみ)山古墳、釘崎(くぎざき)古墳群、丸山(まるやま)古墳など11基の著名な前方後円墳がある。この東方には「金製垂飾付
                耳飾り」や多数の埴輪を出土した立山山(たちやまやま)8・13号墳、巨石古墳として有名な童男山(どうなんざん)古墳などがあり一
                大古墳群を形成している。総数は150〜300基と考えられている。

                八女市は福岡県の南内陸部にある。鉄道は通っていないので、福岡方面からくる場合、西鉄久留米駅またはJR久留米駅から西鉄バス
                で行くことになる。福島方面行に乗り、「福島高校前」で下車、5,6分で史跡公園に着く。公園内は「岩戸山古墳」を中心に広場や、
                復元住居が並び、散歩する老夫婦や遊ぶ親子連れに格好の公園として整備されている。「乗場古墳」はバス停前の道路をはさんで、岩
                戸山古墳とは反対側にある。こちらもバス停から5,6分だ。


 



 

		バス停から歩いてくると「別区」(べっく)と呼ばれる広場に着く。岩戸山古墳の後円部に造られた広い空間で、このようなものを持
		った古墳は全国でもこの古墳だけである。文献(筑紫国風土記)によると、ここで裁判が行われていたらしい記述があり、特別な祭祀
		場とも考えられる。廻りには、古墳造営時のように石造物が並べられているが勿論みんなレプリカである。本物は近くの「岩戸山歴史
		資料館」にある。

 

 

下右の「石人」は本物。上野の東京国立博物館にある。この写真はそこで写したもの。元々この「別区」に立っていた。

 

 



 

 





		岩戸山古墳は九州最大級の前方後円墳で、全長約135m、後円部径約60m・高さ約18m、前方部幅約92m・高さ約17mを測る。墳丘周囲には
		幅20mの周堀と外堤を持ち、外堤を含めると全長約170mの大前方後円墳となる。古墳の東北隅には外堤につづく一辺約43mの方形の区画
		(別区)が存在している。墳丘の内部主体は不明であるが、墳丘、別区から多量の石製品、埴輪が出土している。
		筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)の墳墓とされ、6世紀前半の築造と考えられている。6世紀初頭継体天皇の時代、畿内政権からの
		独立を図った磐井は、朝鮮半島に出兵する将軍・近江毛野臣(おおみのけなのおみ)を、新羅と組んでさえぎろうとしたが、畿内から
		来た援軍大伴・物部の軍団に破れた。上の写真で「石馬」の頭部が無いのを見て貰ったと思うが、「筑紫国風土記」によれば、豊前方
		面へ逃亡した磐井が見つからないのに腹を立てた官軍の兵士たちによって、この石馬の首が落とされたと記されている。

		九州では第一級の古墳で、規模では宮崎県西都原の女狭穂塚(めさほづか)古墳に次ぐものである。岩戸山古墳が磐井の墓であろうと
		の推定は、幕末の久留米藩の国学者矢野一員によってなされ、現地の実証的考察による優れたものである。この説の補遺完成がみられ
		るのは戦後のことであった。

 

別区からぐるりと岩戸山古墳をめぐっていくと、岩戸山古墳神社(?)がある。小さな滑り台などが置いてあって昔ながらの神社の境内である。

 

 

 

 

                筑紫国造
                
                筑紫国造が成立したのは6世紀の後半ともみられているが、5世紀後半にはすでに肥・豊(肥前・肥後・豊前・豊後)にまたがる一大
                勢力圏をつくっていたとみられる。磐井の乱の後も国造の存続を許され、白村江の戦ののち唐に抑留されて天智10年(671)帰国した
                筑紫君薩野馬はその後裔とみられる。同族に筑紫鞍橋君・筑紫火君・筑紫火中君がみえる。八女丘陵上には、現在11基の前方後円墳
                を含む約150〜300基の古墳が発見され、その年代も5世紀中頃から6世紀後半までおよんでいる。磐井の乱以後も連続して大形墳墓が
                造営されており、筑紫君一族が滅びることなく存続したことを物語っている。




 

		6世紀の人だというのに今でも地元では慰霊祭が行われている。尤もキリストにしても2000年前の人ではあるが。
		神社の石段を下りて道路を横切ると「岩戸山歴史資料館」がある。

 



                筑紫君磐井
                
                日本書紀継体天皇21年(527)の記事によると、大和朝廷は、新羅から奪われた任那の地を奪還するため、近江毛野臣に6万の兵を率
                いて渡海させることになったが、新羅はひそかに筑紫君磐井に賄路を送って毛野臣の軍の渡海を妨げることを勧めた。そこで、磐井
                は肥・豊(肥前・肥後と豊前・豊後)の二国をもあわせた勢力をもって、朝鮮半島からの貢船を略奪し、朝延にたち向ったので朝廷
                は国家の大事として物部大連麁鹿火を遣わして討伐させたという。同22年11月、御井郡(現在の福岡県久留米市・三井郡)で激戦が
                行なわれ、磐井は敗れて斬られた。同12月に磐井の子の葛子は、糟屋の地(現在、同県粕屋郡)を屯倉として献上して父の罪に連座
                することを免れたという。「筑紫国風土記」逸文には、磐井は豊前国上膳県(現在、豊前市付近)に逃亡したという別伝と、生前に
                彼が築造した自分の墓と、そこに飾られた石人、石馬などのことが記されている。



糟屋屯倉?大型の建物遺構 田渕遺跡 【asahi.com 2000.7.11】

「糟屋屯倉」とみられる遺構。中央に左右に連なる穴が四重柵列。その上が大型建物の柱の跡/福岡県古賀市教委提供

大和朝廷との戦いに敗れた九州北部の豪族(磐井の息子葛子)が、死罪を恐れて献上したと日本書紀に書かれている「糟屋屯倉(かすやのみやけ)」跡とみられる遺構を福岡県古賀市鹿部の田渕遺跡で確認した、と同市教委が十日発表した。市教委は「木簡などの文字史料を見つけ、裏づけを急ぎたい」としている。

市教委によると、遺構は広場を中心に南東側に大型の建物(七十二平方メートル)、南西側に別の建物(十八平方メートル)があり、その間を南北に四重の柵(さく)列(長さ十四メートル)が走っている。建物が大型で囲郭構造であることから、律令制以前の国の役所である官衙(かんが)的な場所であると市教委は推定している。出土した土器などから、遺構は古墳時代後期(六世紀後半)とみられ、同時期、筑前国にあった「糟屋屯倉」の可能性が非常に高いとしている。
「屯倉」は朝廷直轄領から収穫した稲の貯蔵庫の意味。日本書紀は、五二七〜五二八年の戦いの後、筑紫君磐井(いわい)の子である葛子(くすこ)が、大和朝廷に「糟屋屯倉」を献上した、と記している。ここを足がかりにして、大和朝廷が九州に勢力を広げたというのが一つの解釈になっている。(7/11)









−乗場古墳−

		福島高校前には「乗場古墳」がある。前方後円墳で、内部石室に装飾を持っている。古墳をのぼって前方部頂までのぼった。石室は入れ
		るようになっているが、錠がかかっており、何処に鍵があるのか明示されていないので、内部を見学するのはあきらめた。
		おそらく隣の福島高校辺りに預けてあるのではないかと思ったが、岩戸山古墳を歩き回って疲れていたので、学校へ訪ねていく気も起き
		なかった。しかし、後日資料を見ると、この石室内部からの出土品は上野(東京国立博物館)、九州大学、福島高校に分散して収蔵され
		ているとの事であった。又装飾の模様は、福岡王塚古墳や熊本のオブサン・チブサン古墳の装飾とよく似ており、また石室内部の板岩を
		横積みに積んでいくやり方は、和歌山の岩橋千塚(いわせせんづか)古墳のやり方とそっくりである。
		さらに岩戸山古墳、および立山山古墳から出土している「金製垂飾付耳飾り」も、和歌山の大谷古墳から出土しているそれと全く同じで
		ある。とても、製品や製作技術が伝播していったとは思えない。明らかに、同じ民族がここと和歌山(或いは他の地域にも)とに別れて
		いったと考えた方がスンナリ説明が付く。半島からの渡来人たちは、相当な数で日本に移入してきた事が分かる。



 

 

 



 

後円部の頂。



 

この古墳の装飾は、福岡県浮羽郡の装飾古墳群、および熊本県菊池川流域装飾古墳群の装飾との類似性が指摘されている。

 

下左は前方部からみた後円部と、右はその反対。なんだかカブトムシの背中に乗っているような感じだった。

 

		八女古墳群の中の童男山(どうなんざん)古墳には奇妙な伝説がある。岩戸山古墳と同時期の6世紀後半に築造された円墳であるが、
		ここが徐福伝説に言う「徐福」の墓だというのである。秦の始皇帝が不老不死の仙薬を求め、仙術にたけた徐福が一族郎党を率いて
		九州に上陸したが、ここ八女で病に倒れたという。人々の看護にもかかわらず徐福はここで亡くなり、木の船は朽ちて石船になった。
		そこで童男山に塚を造って葬ったと言う。今でも徐福の命日には「ふすべ」という行事が行われている、とものの本にある。

		徐福の命日など誰が知っているのかと思うが、しかしここにこういう伝承が残って居るというのは、太古からのあることを伝えている
		のではないかという気がする。それは、磐井も含む「筑紫の君」一族が渡来人の末裔ではないかという考えである。詳細は「岩戸山歴
		史資料館」で検証しているが、八女古墳群からの出土物は大陸半島色が非常に強いと思う。和歌山市立博物館に展示してある同市大谷
		古墳から出土したイアリングといい馬具類といい、明らかに渡来系の遺物でそれはここ八女古墳群からの出土物と酷似している。しか
		も和歌山も根強く徐福伝説の残る土地である。
		また、最近の研究者たちの中には、「磐井の乱」は「乱」ではない、という見方をする者もいる。大和朝廷の九州・支配経営政策に反
		発した「磐井」の「大義の抵抗」であるというものだ。
		私見では、「倭国大乱」や、それに続く「大和朝廷」成立前後の闘いや、大和朝廷による熊襲・蝦夷征伐などは、渡来人どうしの派閥
		争いもしくは渡来人たちの部族間闘争であるというのが私の説である。渡来してきた朝鮮人・騎馬民族・中国人たちの集団は、それぞ
		れ日本中を騎馬により或いは徒歩により、駆けめぐって各地に拠点を築いた。それははるか縄文時代にも行われ、弥生に入っては環濠
		を築いてムラを守り、馬が移入されてからはそれらを持ってきた部族たちと闘い融合し、次第に日本列島に地盤を築いていったのだろう。
		そして朝鮮系は中国系とあるいは騎馬民族系と、あるいはもともと日本にいて渡来人の力を借りて力を付けていた「国津神」たちと、
		闘い、融和し、和合しながら、日本全体が統一へ統一へと突き進んでいたのではないだろうか。

		「磐井」も、渡来系の末裔で九州北部に勢力を持っていた豪族で、これを支配したい大和の勢力が攻め込んできたというのが、私の
		「磐井の乱」に対する捉え方である。官営の歴史書である「日本書紀」には叛乱と明示されているが、「筑紫国風土記」では、大和朝
		廷側が突然攻め込んできたという表現になっている。(尚、本文には「筑後国風土記」と記されているが、そういう名の風土記の存在
		は今の所確認されていない。)



邪馬台国大研究 / 遺跡・旧蹟案内