1・概観

 飯江川は熊本、福岡の県境で山川町の真弓に源を発し、約4粁北流して、高田町の舞鶴で西流に転じます。待居川(射的川)、大根川の支流を併せ、山川町と高田町、瀬高町の一部を洗い高田井堰で余水は総て塞きとめられ高田町の干拓水田に送られます。

  高田(田方)井堰の下流は江湖となり蛇行して本流に注ぎます。全長9粁、河名の飯江(ハエ)は流域の集落名をとったものです。

 では、その飯江の地名ですが、飯江集落一帯には、竹飯(タケヌイ)、飯尾(イイオ)、飯田(イイダ)など飯の漢字を利用する地名が多いのです。これらは竹飯は竹井、飯尾は井尾、飯田は井田などの如く井に代わったのが飯です。ところが、旧柳川藩誌では「飯盛山とて飯を椀に盛った形の円山あり。是れ此の山の飯を取りしものならん。」と飯は山容から起こったようにしてあります。

  ところが、飯江ではそうでなく、ハイ、ハエなど小平地を意味する地形語に由来する地名とみています。あるいは、南方系の南風(ハエ)に関係してかも知れません。飯江集落一帯は飯江川に沿うて山麓に河岸段丘による小平地がよく発達しています。 飯江川は楠田川と異なり、源流の渓谷は稍深く、水量もみるべきもがあります。流域の山川町一帯の山地はミカン園、谷底平野では水田が開けています。山川町の中心地の野町から竹飯一帯は飯江川が搬出した土砂によって形成された扇状地で肥沃な畑となっています。その扇状地は海水によって侵蝕され急崖をなして平野に没しています。その侵蝕面に此君泉(シュクンセン)などの湧出する井戸があります。此君泉は大字竹飯字竹井にあり往昔は竹泉と呼んでいたようで、竹井、竹飯などの地名もこの泉に由来するものです。この泉はいかなる旱魃にも乾いたことはなく、また大雨に際して溢れることがなかったそうです。というのは広い扇状地の地下水が徐々に流れ出る井戸だからです。旧柳川藩志によれば、「往時八幡山松花堂猩々翁此の地に来り、この水を以って硯滴となして書画を作って其の清潔を称賛して曰く、此れ石清水の水質と同じと。鑑通公之を此君泉(タケイズミ)と命名した・・・・。」とあります。ところが、現在では泉には粘土や落ち葉が流れ込み利用する人もないのでしょうか。

2・真弓(山川町)

 真弓(マユミ)の地名については旧柳川藩志に「隠岐次郎広有は御醍醐天皇より真弓の姓を賜はる。征西将軍に従い西下す。宮薨去後本郡南東隅の山中に隠遁す。後其の部落を真弓と称す。其の子孫今尚 所にあり。」広有は神功皇后に従って三韓を攻めた「日本射騎将軍」の後胤ということです。この集落の人々も前述の地名考を信じています。つまり、人名から真弓の地名が起こったというのです。ところが、地名が人名から起こることは極めて稀です。特に中世において国取り合戦の頃は一定の領地支配の証しとして、旧来の地名を姓とする傾向にありました。隠岐次郎という姓も隠岐の島と関係したもので、真弓の地に腰を下ろしてから真弓の姓を取ったものです。すなわち真弓の地名は古くからあったものです。

  真弓とは上等の弓、二流は梓弓というそうですが、弓矢の製造所でもあったのでは?  中世にはこの地帯が肥後、筑後の国境の要地であったため幾度か戦乱の巷となったでしょうが、その戦いは一過性野物で、多くの武士が長期に屯していたこともなく、弓矢製造所の言い伝えもないようですから、弓矢との関係地名ではないようです。やはり地形地名と睨んでおります。

  地名辞典によると、マミ、マミョウは山のかげ、窪地を指します。この集落は四方が山に囲まれた小盆地でマミに当たる地形です。このマミに真弓の字を当てたものです。飯江川が北流から西流に転ずるところは豆塚または馬見塚(マミヅカ)などの地名がありますが、これらの地名も真弓と同語源のマミ、マミョウから起こったのでしょう。

  真弓の北方の北関(キタノセキ)は、熊本県の南関に相対するもので関所のあったところです。この付近が肥後、筑後を結ぶ交通の要地になった一因は、国境であり、飯江川と菊池川の分水界でありながら急峻な山塊はなく平坦で交通に便なるためです。こんな分水界も珍しいのです。分水界が平坦な理由は真弓に発する飯江川の上流は往昔では熊本県側の菊池川に注いでいたが、侵蝕の深い飯江川に争奪されて飯江川の上流に変じた結果とみています。

  岡山俊雄氏による河流の争奪とは「となり合う二つの川の侵蝕力に差のあるとき、侵蝕力の大きい甲の川の源流部が、頭部侵蝕によって分水界を蚕食してついに乙の川に達すると、その地点より上流の乙の川の水は甲の川に注ぐようになる。」

  真弓集落は80戸、どの民家も大きな構造で落ち着きがあります。ミカン、筍が主たる生業ですが、水田も1戸平均50ア−ルはあり農家経済は豊かにみえました。

 

3・平(高田町)

  飯江川左岸、高田町の管内に平(タイラ)集落があります。ここは平家一族後胤の住む村として、またその周囲に平家にまつわるいろいろな伝説があることで有名です。村の人びとは平家の子孫を自認し、周囲の人もそう信じているようです。

  「平」は公的にはタイラと呼びますが、村人も付近の人もデ−ラと呼称しています。八女市、立花町でも一般にはそう呼ぶのです。古来からデ−ラと呼んでいたのに、漢字が使用されるようになってから、その音に平の字を当てたのです。平はタイラと発音することから平家伝説と容易に結びつくことになったのです。

  「デ−ラ」とは小さな平地のこと。立花町の平集落は河岸の小平地でこの集落と地形が酷似しています。つまり平というのは地形から記名されたもので平家とは全く関係ありません。

 

4・小牧山(山川町)

 小牧山別名御牧山(オマキヤマ)は名山ですから古来から甲塚山、兜山、佐野山、峡野山などと名称をもっています。

  海抜409メ−トルでこの一帯の山では最も高いのみならず、アスビ−テ火山(楯状火山)よろしく、山嶺からの傾斜はゆるやかで、山姿端正です。山頂には牧場守護神五神社があり、霊峰といわれるゆえんでもあります。小牧山の山名は柳川藩主立花鑑虎公元和の末年、峡野山と呼ばれていた頃、その一角に牧場を創設してから起名されたものです。峡野山とは山麓の集落名を取ったもの、サノとはせまい野で待居川によって形成された小盆地の称です。

  頂上近くに谷軒(タンノキ)、南面して五位軒(ゴイノキ)の小集落があります。こうした山頂に立地する集落は稀です。この二つの集落は、現在ではミカンが生業ですが藩政時代はすかなる仕事がなりわいとなっていたのでしょうか。こんな山上では飲料水をはじめ生活物資が得がたく、水田は遠く山麓にあっ耕作は不便であったに違いありません。両集落の地名を思い出してみました。タンノキ、ゴイノキに共通するキに謎がありそうです。「キ」とは東北地方では棚の字が当てられ小さな城や要害の意です。また、ある地域の人口を意味そんなことから、近世に創設された山頂の牧場の入り口から見張所があって牧場の管理人の住居が村の始まりではないかと思います。牧場似ついて、旧柳川藩志によると「この設備のため濠を掘り、土壁を築き、柵を建て官舎を置くなどのため9ケ年を費せり。」とあるから相当大規模なものだったのでしょう。                                                                

  山に南面する小渓谷の水は集って待居川となり、下五位軒、佐野、青々(セイセイ)の諸集落を育む小盆地を形成しています。青々は珍しい地名ですが、これは瀬々(セセ)スナワチ小さな川の瀬に由来します。

  待居川(マチイガワ)は射的川とも書きます。マト−、マットなど小平地の語かマチ(一区画の土地)、またはこの付近にあった馬の市場(マチ)から始まった地名です。

  山の北面の水は飯江川の支流大根川(ダイコンガワ)となります。この川名はタイ、ダイ、ダイゴなど河岸段丘、台地を意味する語か、デトという出口の意味する語に由来します。

  大根川の上流に蒲池山の集落があります。カマチとは川の上流の意です。ここには田尻惣馬によって築かれた溜め池があります。

 

5・竹飯(高田町)

 飯江川の右岸に竹飯という大集落があります。集落としては240戸を容する純農村の大集落は驚異です。集落の成因について考えられる事は、集落の東部に拡がる肥沃な長者原といわれる畑、北部の沖積地の水田は竹飯の人々の耕作地で共に相当広いもので、経済面の基礎になっているとみています。

 

 

 

                昭和56年10月初版発行

                平成9年7月第2版発行

     瀬高町郷土史会会員 鶴 記一郎著書 「矢部川の地名と旅」より

 

     平成14年6月23日 「飯江川」より一部を採用する。 久保田 毅