闘いの指導者たち

この時期の闘いを指導し推進した者たちは、どのような階層の者であろうか。さきの山本郡柳坂庄屋嘉平次の「釈明書」でいう「諸上納方不埒」で「連々不人品」な「極々難儀に存じ候百姓」がそれに当たり、「高橋音門筆記」では具体的に、山本郡木塚村(現市内善導寺町)の勘右衛門、孫六が「毎々人集め等致し、兼て人品不宜者」とされている。

また、8月27日の処刑者の罪状にも同様の烙印を押されたものが見える.「役儀引き替えの儀を村中へ申し進め、別て頭取」したという生葉郡星野の百姓七兵衛・「村方下作等の儀に付き、相工」んだ竹野郡朝帰村(現浮羽郡田主丸町)の百姓与右衛門、『人品宜しからず候に付き、先年村払い仰せ付げられ候処、当春騒動の砌立ち帰」った御井郡北野中村の百姓茂蔵と上妻郡湯辺田村(現八女郡黒木町)百姓五右衛門の2名、「先年来毎度不埒の儀多く、御咎をもこれあり候所、此の度大庄屋に対し非道の儀を申し掛」けたとされる御井郡和泉村(現市内東合川町)百姓善右衛門や同郡府中町百姓作右衛門、庄屋の引き替えを頭取した御井郡下東鯵坂村庄屋名子清吉など、すべて好ましからざる人物と評価されている。この連中が一揆という農民の闘いの中で大いに活躍している。彼らは村内の最も貧困な農民であり、小作人であり、日傭いものたちだったのである。

4月上旬から2ヶ月近く続いた地域分散的な闘いも、5月下旬にはしだいに収束してくる。6月に入ると、一揆指導者の逮捕・詮議が始まる。「吉田秀文抄写本」はこのときの模様を「百姓召捕の足軽120、30人、在方所々に党頭捕り参り候て、毎日5人、3人、6人、7人程、牢舎に充つ。6月炎天。牢内凌ぎ難き内、段々多く相成り、7月下旬には300人に及び申し候。責め強●●8月に至る。8月20目詮議了わる」と書き止めている。8月27日の第一次の犠牲者は死罪18名を含み149名にのぼる大弾圧であったが、更に第二次は、10月27日行われ、死刑だけでも19名(25名処刑のうち.6名は盗賊方・町方)というこれまた厳しいものであった。