地域分散的闘争の展開

4月4日ごろから農民たちは各組村において、大庄屋.庄屋.長百姓などの銀米取り込みの追及や役職の引替(罷免)、下作料の滅免などの要求を掲げて闘い始める。五月末ころまで藩内で地域分散的に展開された闘いを挙げてみると第55表に示すとおりである。この段階での村方騒動的な性格を含んだ闘いに対して、藩当局は大庄屋などの不正については相対のこととして、直接介入はしなかったが、闘いがエスカレートして打ち崩しを伴う暴動の様相を示し始めると、逮捕・入牢などの弾圧をもって対処している。一揆鎮静後の大弾圧でも、この段階にかかわる処罰と思われるものが多い。

地域分散的闘争の段階での主要な側面の一つは、村役人層の不正を追及する闘いである。4月17,8日ごろ御井郡府中町(現市内御井町)で大庄屋の割賦高に対する不審追及が起こり、郡奉行下村権蔵がその取り調べに当たったが、不正は発見されなかった。同じころ同郡石崎村(現三井郡北野町)では、庄屋が病気のためこれに代わって取り仕切っていた散使又次郎に拝借米・救米・救銀・講銀などの割賦や差し返しについての不審があるというので、農民が調査要求をしたのに対し、藩役人が調査に立ち会い、その結果処分が確認されている。

しかし、このようなケースと異なり場合によっては激しい闘争の展開をみることもあった。4月13日、山本郡中泉村(現市内山本町)では庄屋はじめ三軒が打ち崩され同じころ竹野郡東大窪村(現浮羽郡田主丸町)でも庄屋弥三右衛門が打ち崩しに遭い、17日には御原郡本郷枝村(現三井郡大刀洗町)庄屋の会所で箪笥・帳面が押し取られ、29日には上妻郡北矢部村(現八女郡矢部村)では庄屋宅が打ち崩され、諸帳面・家財が破却される事態が起こっている。また、闘いに参加した農民の規模も数十人から数百人規模で、中には1000人に達するものがあり、4月13日の山本郡善導寺付近の集会ではその数一万人と記されている。

山本郡柳坂組大庄屋に対する農民の闘いの場合は、「上野健三郎家文書」によって詳しく知ることができる。同郡高椋(現市内山本町)・古北(現市内善導寺町)両村庄屋からの「御注進申上覚」によると、「山本郡村々百姓の中、一村から一、二名ずつ4月18日に常持村百姓の所へ集まり、柳坂大庄屋上野太兵衛が銀米を取り込んでいるので、同人の抱田畠・山を残らず引き渡させることにし、19日一応居村に引き取った。明20日受取りに行くので、一村より百姓一人ずつ出てくるように、庄屋もまた立ち合うはずだ」というのである。この事に関して、5月に大庄屋太兵衛が一揆の件で閉戸謹慎中のため、息子で庄屋であった嘉平次が「釈明書」を提出し、次のように述べている。

銀米取り込みについて種々申し開きをしたが聞き入れられず、騒ぎを静めるためやむをえず田畑およそ四町歩、抱山などを引き渡したが、決して銀米の取り込みなど行っていない。このような非道を申し掛けてきたのは、常々諸上納についても不埒なことが多く、「連々不人品」ということで太兵衛から取り調べをしなければならぬとされていた類の者で、自分の不埒は弁えず、このときとばかり太兵衛に難題を持ち掛けてきたものである。同意しない者は踏み潰すなどと脅かしておおぜいをけしかけたもので、この類の極々難儀な百姓は組内に5、6人はいて、いろいろ立札や挾状などをした様子である。生葉・竹野郡の難儀な百姓たちは、大庄屋・庄屋へ申し掛けたのは不正などのことがあってのことと言われている。しかし、当組に限ってはそのようなことはないというのである。

「差し渡し証文」では、拝領高60俵はじめ8件の取り込み事項をあげ、その引き当てとして、大庄屋の抱田地3町9反8畝24歩とサラメキ山、ワサグリ山の二か所を山本郡の百姓中に差し渡すとなっている。ところで、庄屋嘉平次、大庄屋太兵衛に対して、組内の村々の長百姓以下の「誤り状」が現在19通、21か村分(柳坂組は30か村)が残っている。このうち1通が5月付け、17通が9月付け、1通は日付不明であるが、いずれも大庄屋.庄屋へ非道を申し掛けたのは了簡違いであり、不正の事実はなかったとして詑びを入れたものである。処分された大庄屋の中には太兵衛の名は見当たらない。