一揆の指導者層

第三点は一揆の指導者についてであるが、「久留米騒動記」では、伊久嘉(生葉)郡大庄屋青山秀左衛門が、24年間領内16人の大庄屋とともに非道を働いてきたが、宝暦4年正月から改心して、一揆に組したとされている。「高橋音門筆記」によれば、第52表に示すように、3月23日、生葉郡吉井両大庄屋(石井・田代氏)が藩庁に農民の動きを注進したことを記しているので、この青山秀左衛門のことは作者のフィクションであることは明らかである。では、この一揆の指導者層はどういうものたちだろうか。

蜂起当初の3月21日、竹野郡石垣村(現浮羽郡田主丸町)新宮社での農民の集会に対し、同村庄屋林蔵が長百姓二人を派遣して状況偵察をやっているところから見て、同村庄屋・長百姓が一揆の発頭人もしくは指導者に座っていたとは考えられない。3月27日、八幡河原で郡奉行が家老中の「書渡」を読み聞かせたとき、

「大勢百姓の内より一人、ほほ包みを致し罷り出て、奉行中へ申し候は、中々左様なる書渡にては、何れも百姓中得意致さず。先の辰の年以前の通りに仰せ付けられず候では得意致さず候と申しをり、はや同音に鬨をどっと揚げ」(宝暦四戌三月日記)

郡奉行に応対する指導者とも思える百姓の姿が見えるが、八月の断罪書によれば、これが石垣村の小百姓藤四郎である。彼は4月以降の地域分散的闘争の段階でも「頭取」として下作定などで村役人と闘っており、八月ついに刎首に処せられた指導者の一人であった。

一揆後の大弾圧で、農民側は第54表に示すような多数の犠牲者を出した。この中には死刑になった御原郡井上組の大庄屋高松八郎兵衛が入っているが、彼については「大庄屋にて勧め候由の咎故、死刑」(吉田喜太夫筆記)とも、「連々私曲の仕形これあり、当春百姓共申し出候に付き吟味を遂げ候処、其の紛れこれ無く、役儀をも相勤む、右体の儀、重々不届の至り候。

これに依り死刑」(宝暦4甲戌歳騒動御制詞)とも記されている。庄屋では竹野郡野中村庄屋八郎右衛門は、一揆発頭村でありながら対処ふじゅうぶんで死刑になっているが、御原郡干潟村(現小郡市)庄屋三郎右衛門と竹野郡門上村(現田主丸町)庄屋忠助は、一揆に加担したとしてそれぞれ梟首、刎首に処せられている。

極刑が最も多いのは一般の農民たちで、梟首8名、刎首6名に及んでいる。彼らについての断罪書を見ても、一揆の全期間を通じ、闘争の指導的役割を果たし、その主力となったのは大庄屋・庄屋などの村役人層というより、むしろ村内で彼らと利害の対立が激化し、貧乏化しつつあった下層の農民たちであったといえる。