激しい打ち崩し

次に注目すべき点は、「久留米騒動記」では、一揆農民が八幡河原への結集に際して、兵粮米16万7000石を準備し、謀計をめぐらして城内より借り出した鉄砲1万8000挺、鎗6000振りなどで武装し、鎮圧に乗り出した城兵と交戦した模様が描かれている。この闘いで藩側は69人が鉄砲で射殺され200余人の負傷者を出したという。しかし,一揆の折に郡代上奉行として直接対策に当たった高橋音門の筆記には、3月27日、人別銀御免の家老中覚書を八幡河原で郡奉行戸田甚右衛門・稲生権平らが、農民へ申し渡そうとしたときの様子を、

「委細打ち返し百姓共へ申し聞かせ候処、一円納得致し候様にも相見えず、声高に相聞え、手勝れの事共もこれあり、手に及ばず候故、何れも引き取る」 と述べている。また、このときの模様を『石原家記』では、戸田がおおぜいの農民の中で、書き渡しを二人の下代に読ませたところ、

「吉兵衛(下代)は二、三度読み、脇道より引き取る。樋ロ専蔵(下代)読み候処、一間斗にては読ませ読ませ致候処、後は気分悪敷候由、夫被帰候。石礫を投げ候故・漸として帰与られ候由」

と書いている。これから見ると、小競り合いがあったことは認められるが、「久留米騒動記」に言うような大規模戦闘があったとはとうてい考えられない。 全藩的闘争の段階では、八幡河原・小江河原・吉田山・田川原などに見られるように大群集が結集して威力誇示を行うことや、大庄屋・庄屋・商人の居宅などを打ち崩すという方法がとられている。

特に後者の方法がいかに激しく行われたかは、打ち崩された家数からも想像がつく(第53表参照)が、『米府年表』にはその状況を「其の行装、簑笠に鎌を持ち、鬨を上げて大庄屋・庄屋・用達の者等を打ち崩す」と述べ、『石原家記』は「家財・諸道具・天井・板敷打ち砕き、其の音すさまじ」、「家に有限りの品は寸々伐り折り踏み崩し、家は柱を切折、かがすを以て巻倒し、尚掛り有る柱・はり抔の類は斧・なた・段切鋸にて残す所なくずたずたになし、屋敷内外、諸木を伐り倒し、踏み折り、或いは焼き捨て候。下民、か様に騒乱・あばれ候儀、前代未聞」と書き残している。