全藩的闘争の経過

この一揆は闘争の形態や要求内容から、二つの段階に区分してみることができる。前半は3月20日の竹野郡松門寺村印若野での農民の集会から、3月末の藩側回答により全藩的規模での一斉蜂起と打ち崩しが一応鎮静するまでの「全藩的闘争の段階」である。後半は4月4日ごろから5月末ごろまでの「地域分散的闘争の段階」である。

全藩的闘争の経過の概要については第52表を参照していただくことにして、以下注目すべき若干の点について述べてみよう。まず第一点は、この段階での一揆に参加した農民数についてである。竹野郡八幡河原(現田主丸町大窪付近)に結集した農民は、3月13日には16万8300人であり、3月末には総勢27、8万人に達したとしているものがあるが、これは実録体小説「久留米騒動記」によっているためである。久留米藩の当時の農村人口は、約14万人ほどで(後出、第六章第二節二項参照)、戸数も2万8000余である。

これから見ても、右の参加人数が正確でないことは明白である。一揆当時藩庁役人として直接農民たちと接した吉田喜太夫の覚書をまとめたものとみられる「吉田秀文抄写本」では10万人余となっており、またこれとは別に4万8000人程度と推定するものもあり、それぞれまちまちで今のところ明確でない。ともあれ、享保一揆の参加数が上三郡の約5700人と御井・御原郡の一部とを加えた規模であったのに比べて、この一揆では全藩域に及んでおり、規模の大きさから見てもこの時期の代表的な一揆であったことに違いはない。

なお、この一揆の規模の大きさについては、闘いの過程で目的意識的な組織化がなされたことを見逃せない。一揆の発頭村は、この年8月27日の断罪書(「宝暦四甲戌歳騒動御制詞」「列侯深秘録」によれば、竹野郡野中村(現浮羽郡田主丸町)となっており、同村の百姓久兵衛が発頭人となり隣村高木村(現田主丸町)百姓がこれに同意し、全村をかたらって立ち上がったとされている。このほかにも当然発頭村があったと思われるが、これらの村々から参加村拡大の行動が起こされていった。

例えば石垣村(現田主丸町)の場合、「同郡の内集らざる村へは御見舞申すと書き遣わし」というように参加しない村に対しては襲撃する旨の「書付」が出され、また、「寺々鐘を撞き、宮々太鼓を打ち、村貝を吹く」などの示威行動がなされ、参加村は組から郡へと拡大していくのである。もし差し止めなどがあれば激しい打ち崩しが行われる。唐島大庄屋の場合などその代表的なもので、「(八幡河原へ)参掛に唐島大庄屋方へ押し寄せ、(中略)踏み込み、家内残らず打崩し候故、家内には漸く二升焼の鍋一つならでは残り申さず」(「宝暦4戌3月日記日記」本庄弘直家文書)とそのすさまじさを記している。 一揆への参加呼びかけ文は、張紙や天狗状、天狗廻状、落とし文などと言われるが、この一揆に関するものとして、「高橋音門筆記」に次のような天狗状の記載があるので紹介しておこう。

明26日4ツ時、山隈原(現小邪市)へ寄会候間、其の   村中残らず御出なさるべく候。相談仕り度儀御座候間、   弥御出なさるべく候。若し御差し合い候はば、此の方     より御見舞申すべく候。以上     3月25日  近村   (御原郡)古飯村虎八様

この場合も、非合法な一揆への参加呼びかけであるから、後日の処罰を配慮して、差出人は「近村」としているが、傘連判状などとともに一揆頭取たちの知恵であろう。右の天狗状は藩庁役人に注進されたため、藩当局はこの26日には郡奉行を御原郡へ出役させていることが記録に見える。3月25日、八幡河原へ上郡から入り込み始めるころには、上三郡より他郡へ煽動者・組織者たちが送り込まれているようである。25日には御井・御原郡で、28日ころには上妻・下妻郡および三瀦郡でも具体的な決起が見られ、ここに総郡決起を成功させているのである。

なお、農民の全藩的規模での闘争が広がり始めたころ、闘いは都市にも波及していることが注目される。百姓一揆による混乱から札所が閉店され、藩札交換が滞り、3月27日には久留米城下で、藩札札元の三国屋が町人や地下軽者たち1500人余に詰めかけられ騒動が起こっているのである。