宝暦一揆の特色と意義

既に見てきたように、宝暦一揆はそれよりおよそ4分の1世紀前に起こった享保一揆とは量的にも質的にも大きな変化を遂げている。農村の一般的窮乏化が進む中で藩の貨幣形態による直接的搾取や商品流通過程を通しての間接的収奪の強化は、農民層との対立をいっそう深刻なものとした。また、特産物商品をはじめ商品生産的農業の発展は、農民各層の多面的な要求を生むことになり、農民の意識の成長と相まって闘争規模に大きな変化を引き起こしたのである。享保期の上三郡中心の5700人の決起に対し、宝暦期には全藩域に及びおよそ5万人の蜂起を見ることになり、しかも都市の一部にまで波及している。後半期の闘いでさえ、10万人を数えるものであった。

一揆の規模の大きな変化は、闘争方法に質的な変化をもたらしている.すなわち、享保期の訴願行動中心から宝暦期では打ち崩し、諸帳面押収・破棄、財産没収という暴力行為を伴うものとなり、地域分散的闘争段階では御井郡高良内村(現市内高良内町)での逮捕者の釈放を要求して城下へ押しかける行動や、生葉郡の山中の村々で300人が鉄砲を動員するなどの多彩な形態がみられた。また一揆の実質的な継続期間の点でも、享保一揆に比べて宝暦一揆は2ヵ月以上という長期間に及ぶものとなっている。

闘いの指導者層の面でも、両者では大きな変化が見られた。享保期には決して積極的とは言えないまでも大庄屋.庄屋層はいちおう農民たちの要求の線に添って行動したが、宝暦期の場合は村役人層はむしろ農民の闘争目標となっており、闘いの指導者層は下層農民たちであった。要求の実現という点では、享保一揆の場合、藩権力内の対立抗争という事情もあり、一人の犠牲者も出さず、要求も形式的には大幅実現した。これに対して宝暦一揆では多数の犠牲者を出したが、他方大規模な全藩的一揆によって、農民側は人別銀の廃止、諸運上銀の滅免、当時通用銀による上納の許可、御囲米・撰米.大庄屋増給米の廃止などそれなりに藩側の大きな譲歩をつかんでいる。それは農民に剰余生産物の一部を確保させることになったが、同時に歴史的規模を持った全藩的一揆をもってしても解決できなかった課題を抱え、農民層の分解は更に進み、在方商業資本の蓄積と地主制の発展をみるのである。

新たな社会的・経済的条件の変化につれ、百姓一揆もまた変質していく。宝暦一揆以後、直接領主権力と対決するような一揆は久留米藩では発生しない。この一揆の後半にみられた地域分散的な闘いは、三年後に見られる三瀦郡北横溝村(現大木町)や上妻郡蒲原村(現八女市)での農民と村役人層との紛争、更に文化・文政そして天保年間の村方騒動へと受け継がれていった過渡的性格を持つものであったといえる。