全藩的一揆勃発の原因

この一揆はその規模の大きさの点でも日本の歴史の中で、従来から注目されてきた全藩的一揆の一つである。それだけに今日まで、この一揆についての紹介や解説も多くなされてきた。しかし、この一揆については事件発生後あまり時を経ない時期に著述されたと思われる「南筑国民騒動記」や、同種系統と考えられる「久留米騒動記」(列侯深秘録)などの実録体小説が流布している。そういう事情もあって、これらの記述に依拠して書かれた紹介や解説では、フィクションが事実化され、事実が誇張され歪曲されることになって、この一揆の正しい認識とは異なった一揆像となっている。以下、このことも念頭に置きながら、一揆勃発の原因から考えてみよう。

一揆の直接的契機は、七代藩主頼僮の宝暦四年(1754)閏2月22日、藩士およびその召し使いの男女、農工商・僧侶・神官・浪人にまで人別銀の賦課を決定したことであった。藩士は高100俵につき銀札10匁、農・工・商などは八歳以上の男女すべて、一人につき銀札6匁を一か月6分ずつ毎月15日限り、閏2月15日から差し出させるというのである。藩は「御書渡」で、この人別銀という新税徴収の理由を『連々御勝手向き不手繰りに付」、『今般重き御差し支えに付」、『今般御参勤御用銀至極の御差し支えに付」、「一両年来米下値殊更去冬以来は格段の下値故」などなりふりかまわず並べ立てて領民の理解と協力を取り付けようとした。当時藩は大坂鴻池善八をはじめ上方・江戸の商人からの借銀が不可能となり、米価は下落し、江戸滞在費も不足がちであったのは事実であるから、藩が挙げた理由は決してまやかしではなかった。

しかし、藩当局はこの極度の財政難の打開策として、当面人別銀徴収以外の方策は持たず、そのためこれが積年の重圧と重なり農民を一斉蜂起させるのである。 今回の一揆は、社会的にも経済的にも享保一揆のときとは非常に違った条件に置かれていた。その第一は、享保一揆で欺瞞的に廃棄の約束がなされたにすぎなかった正徳の税制がその後も強行的に実施され、そのうえ、蔵米上納の際の撰米や俵拵えの規格を厳重にし、上納米の実質的な増徴が図られていることである。例えば撰米によって上げ米が不足すると、損毛があっても二、三割増額されることになり、しかもその分は相場より三、四匁も高値で上納させられることになっている。

また、俵拵えについては久留米藩では一俵は三斗三升が規格であるが、これに延米二升を加えさせられた。そして実質的には上納米は平均で一俵四斗ほどに当たり、一割五分を超える増徴になったという。第二は、前述したように享保17年から18年にかけての大飢饉によって、農村の全体的窮迫化が進んだということである。

そして第三には、農村内の階層分化がいっそう進行したことである。大庄屋・庄屋など村役人が地主層として成長し、大庄屋が年貢請負いという徴租体制によって中間収奪を強化して、転落する本百姓や貧困化する下作人・名子などとの利害の対立を激化したことである。第四に、紅花・染藍・櫨などを中心とする商品生産的農業がかなりの展開を示しているということである。このような条件の下に置かれた農民は、人別銀徴収に反発して、3月20日には生葉郡の若宮八幡宮(現浮羽郡吉井町)森の内に一か村の者が、その夜には竹野郡松門寺村(現浮羽郡田主丸町)印若の野へ7・800人余が集合し、在方騒動が始まるのである。農民の動きはその後急速に拡大していくが、その中で一揆農民が打ち出した要求は、以前とは違って極めて多面的な内容を持っている。