浦安の舞

  「天地の神にぞ祈る朝なぎの 海のごとくに波たたぬ世を」

  昭和8年の昭和天皇御製をもとに、昭和15年、皇紀2600年を奉祝して
  時の宮内庁楽長、多忠朝(おおのただとも)氏により作曲、振り付けされたもの。 
  五穀豊穣と家内安全などの願いと感謝を込めて、扇の舞、鈴の舞が奉納される。


 風流(菅原道真公と奉納との関係について伝わっている話)

 * 昔、河北の庄では、河童が出没し、子供達に悪事を働いていた。そのころ、藤原時平の讒言で
    大宰府に島流しになった道真公は、北野の地をお通りになり、川で馬に水をやろうとしました。
    すると河童が馬の足を取り、川の中に引き入れようとしたので、道真公は素早く刀を抜き、
    その手を切り落としました。それ以来河童は鳴りをひそめましたが、道真公の死後、再び子供に悪戯を始めたので、
    道真公が祀られている天満宮に風流を納めた。
 * 北野の地で藤原氏の追ってに襲われた道真公。その時河童の頭三千坊が、道真公を助けるため戦い、
    手を切り落とされた。それを慰めるため、風流を奉納するようになった。

 口上 (北野町史誌より転載)

  東西東西御静まり候らい、そもそも筑後国か河北荘、千代の中村より出たる風流と申して、
  よりもて興ずるは当社天満宮のお祭より事起り、されども中頃おとたえて相続するものなかりしば、
  村人集りてすたれたるを起し、すたれたるをついで、遠時昔の形ばかりなるしらゆうの袖を返し、
  進上謹み奉る。音楽の皆々はやし候らえ、御はやされ候らえ。


 大名行列 (北野町史誌より転載)

  祭礼の前日、行列の主役である大行事、小行事、幣指の6人の子供(二集落から三人ずつ)が
  父親に伴われて、神域の精進屋入りを行い、又、その日潔斎所で朝座式の祭典が行われる。
  これには、千徳・角光両家(社家)が参列する。
  大行事、小行事、幣指は皆五,六歳頃の男の稚子で、神意によって定められる。
  行事は藩政時代に藩主有馬家の代参者が、神様に随行したものであり、権威があり、名誉でもあった。
  行列は行事のお供をするもので、はさみ箱(二個)、傘(一本)、け槍(二本)の計五人の若者が一組となる。
  これらを指導するのが、有名な北野三日士(さむらい)で、祭礼の三日間だけ大小を許され、行列の警備にあたった。
  鳳指   → 御神輿の上に鳳を指す家で、重要でしかも名誉ある家であった。
  流鏑馬 → 通称やくさみどんと言う。その昔、鎌倉時代の服装で、騎馬にまたがり、途中走りながら的を射たものである。
  近年は笠と緋の上下袴でお供をして、昔の名残りをとどめている。

 御神幸(おみゆき)(北野町史誌より転載)

  
祭礼当日、本殿での神事が終わると,御神幸が始まる。
  御神輿が本殿を出立し、行列を整えて下宮に向かって行進する。
  御神輿のお下りである。行進の順序は次のようである。
  @ 風流〜
  A ご神馬〜
  B ぱったり子(弓持ち、鉄砲持ちの稚子〜
  C 行事〜
  D 行列〜
  E 加勤の宮司のお供〜
  F 御神宝〜
  G 御神輿〜
  H 座主(ざす) 今は当社の宮司

  大行事は立烏帽子・白衣。緋袴で騎馬に乗る。小行事は同じ服装で肩車に乗る。
  お汐井筒で道中を清めながら進む。
  御神輿は途中の御輿休所で一時休みをとる。この時、参拝者は「御神輿くぐり」をする。
  御神輿の下をくぐると子供が丈夫に育つといわれ、大人も病気をしないといわれている。
  若者の行列は踊り(ふり)ながら進む。途中、行事などの家の前では「ふりこみ」をする。
  十郎丸の御昼間殿では、しばらく御輿休めをする。下宮の御旅所で、しばらく休憩の後、往路を
  本宮に向かい進行する。御神輿のお上りである。
 かます寿司(おくんちの定番料理)

  叺(かます)・・・・・米などを入れる袋。わらむしろを二つ折りにし、両端をわらで縫った袋。

  魚のかますにシャリを一杯詰めた寿司を、 収穫した新米を一杯にした叺に見立てものが、
  かます寿司の始まりと言われている。”おくんち”のおもてなし料理で、昔は各家庭でトロ箱一杯のかますを
  買ってきて、作っていたそうだ。おくんちの頃が脂が乗って一番美味しい。
  北野町では、おくんちと言えば今でも、お正月よりも親戚、縁者が集まり賑わう。

  

    
 戻る           北野町の史跡へ