熊鷲、そして、万葉の歌



  ●夜須の地名伝説
                                     羽白熊鷲 

神功皇后が西下ざれ、新羅を討たんとされている当時、朝倉地方には、羽白熊鷲という強力な首長がいて、
朝廷の命にも従おうとしなかった。そこで筑紫の国に入られた神功皇后はまず、これを討たんと決意され、
策を立てて夜須町安野原におぴきよせられた。羽白熊鷲は強健で、身体には翼があり、よく飛ぴ高く翔けることができたから、神功皇后も、なかなかこれを討つことができなかった。そして神功皇后はこの強者を倒したのち、
その安堵感から周囲の者に「熊鷲を取り得て、我が心即ち安し」ともらされた。

以上『日本書紀』に記された神功皇后の伝説のうちの夜須町に関わる部分の概略ですが、
同町の名は、その「安」に由来するのだとされています。
神功皇后は伝説上の人物だというのが歴史学の定説です。
しかし、伝説や神話が朝廷方に都合よく書かれているのは確かだとしても、それらが、何らかの歴史の事実を踏まえて書かれたものだとするのもまた、最近の歴史学の定説。

そこで、神功皇后については、おおむね、次のような推論がなされています。
神功皇后とは、複数の人物の行跡が合成された結果、創られた架空の、しかも象徴的な人物。
伝説の中に散りばめられた事跡は、何らかの理由で時代がずらされている。・・が、神功皇后のすなわち朝廷方の敵もしくは味方にも実在のモデルが存在し、敵となった人々は熊襲とか土ぐもとか熊鷲とか、恐ろしげな名前で呼ばれることになってしまった。
熊鷲は、朝廷方にとって、かなり難敵だったに違いありません。
甘木・朝倉地方で、大いなる勢力を持つ首長だった。
「・・・安し」という言葉に、その難敵ぷりが込められているようです。

いずれにしても、古代のいつしかある侍、安野原が、歴史を左右しかねない激戦地となったことは
確かな事実だといえるでしょう。
そして、時は巡り・・・。


   安の里
  
  ●大伴旅人と安野原
聖武天皇が即位され、神亀と改元された720年、大宰帥、すなわち大宰府の景高長官とて大伴旅人が赴任します。
大宰府は当時はすでに九国三島=九州全域を統治する官庁だとされ、また、半島や大陸との外交の窓口でもあったわけですから、大伴旅人は官吏としてもかなりの高官だったということになります。
しかし、私たちにとっての大伴旅人は、万葉集を代表する歌人の一人。
その旅人が、万葉集の中に次のような歌を残しています。

 君がため 醸みし待酒安の野に 独りや飲まむ 友なしにして

大伴旅人は、下僚であり友でもあった人物と、送別の宴を安野原で催すつもりだった。
ところが、その友は急に出発することになり一人酒を飲むことになってしまったというのです。
当時、安野原は、大宰府の官人たちの、くつろぎの地になっていたものだと思われます。
はるかな広がりを持ち、景視はたおやかで、万葉を代表する歌人の詩情をそそるほどに、魅力的な地であったからでしょう。少なくとも、旅人は、最も親しい友と酒を汲みかわし、別れを告げるのにぷさわしい地として、ここを選んでいる。

激戦地だったこともある、安野原。
歌人の情感に、そよそよと優しく応えた、安野原。
旅人が、その昔、この地が激戦の地であったことを知っていたか、どうか・・・。

ちなみに、『日本書紀』が完成したのは、旅人が大宰府に赴任したのと同じ年、720年のことだとされています。



歴史散歩 top next 秋月城下町物語