古 代 |
杷木町にいつごろから人が住みついていたか、それは現在までのところ、全くわかっていない。しかし相当古い時代からたくさんの人が住んでいたであろうということは出土物などで判明している。 杷木は北に筑紫の連山を負い南には洋々たる筑紫次郎の大河をめぐらして、狩猟や漁撈に適し、山野には豊冨な白然の食糧に恵まれて、古代人の生活環境としては最も適したところであったと思われる。さらに農耕の技術が導入され、稲作など行われるようになった時代にも山際の高地等から耕作が始まったのではなかろうか。筑後川も現在より豊かな水量を誇っていたのではあるまいか。上流の水源地一帯は欝蒼たる、原始林に覆われて、保水力を持ち、常に豊かな水量が流れていたことであろう。しかし一朝洪水に見舞われると、一面の平原も泥土や砂礫の原と化し、川の流れは全く変わって、人が営々と築いた営みも跡形もなくなってしまう。それどころか、人命もまた無数に失われ、水の恐怖に人々はなすすべもなく、ただ神仏に祈りを捧げることが精一杯であつた。 河川工学が進歩して各種機械が便用される現代でも豪雨に見舞われると必ず多数の人命が失われている。 そのうえこの洪水は5年、或いは10年の周期で訪れる。この水の被害を避けるために古代人の住居は川辺を避けて、小高い丘の上や山麓等にあつたと思われる。特に大河周辺に住む古代人の生きる知恵ではなかったか。かつて揚の永楽寺の近所の山が果樹園として開墾されたとき、古墳が出たと言うことで見にいったことがある。古墳はなかったが、変わったものを見た 杉の立木の中に小さな石を高いところで70セソチくらい積んで二坪から三坪くらいの畑が階段式に何十枚となく整然と造られているのを見たことがある。秋芳洞の中の千枚皿を拡大したようなものである。 かなり古い時代の耕地の跡であろう。故老の人も.こんな畑地があることは今までだれも知らなかったという。 ここは昔永楽寺という寺があったところで今も地名になっている。 いつごろの寺かはわからぬが、他の寺等を考えると鎌倉時代から南北朝ごろにかけて作られた寺と思われるが、当時の住僧たちの畑であろうか。 いずれにしても高いところに人が生活していたことを物語るものである。 杷木町にも古墳はたくさんあったと思われるが現存するものは数が少なく、規模も小さいように思われる。 弥生期にたくさんの集落があり活動が認められるのにその後の古墳期に活動が弱まるのはなぜか。もっともほとんどの古墳が果樹園等の開墾によって破壊されてはいる。 |
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1杷木神龍石 2穂坂天神原遺跡 3陣内遺跡 4ト野原遺跡 5楠田遺跡 6小覚原遺跡・二十谷遺跡 7上池出遺跡 8畑田遺跡 9立聞遺跡 10長光寺遺跡 11西ノ追遺跡 12クリナラ遺跡 13若宮遺跡 14前田遺跡 15鞍掛遺跡 16沖出遺跡 17田島北遺跡 18天園遺跡・夕月遺跡 19笹隈遺跡 20拐古墳 21大谷遺跡 22江栗遺跡 23志波岡本遺跡 24亦坂古墳 25岩河内古墳 26茶臼山古墳 27志波桑ノ本遺跡 28杉馬場占墳 29杷木宮原遺跡・中町裏遺跡 30志波宝満宮古墳 31麻底良城跡 32本陣古墳 33外之隈遺跡 34塚堂古墳 35塚堂遺跡 36日ノ岡古墳 37万ノ岡古墳 38堂畑古墳 39仁右衛門遺跡 10鵜木城跡 工1長尾城跡 |
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