「遠藤家記録」によれば、原産地の川筋及び製造所にそれぞれ、
○公儀献上御用之外、此ノ川筋ノ川茸堅ク相障り間敷ク、並ビニ漁一切停止侯事 郡役所
○公儀献上御用ノ川苔製造所、無用ノ輩入るべからず郡役所
という石の制札が建てられ、遠藤家以外の者の採取を切禁じていたといわれる。(寛政8年1796)この川茸がはじめて食品として認められようになったのは、宝暦13年(1763)3月のことで、6代遠藤幸右衛門という人が、自分所有の土地を見回った際、付近の者が川の中に「カェル藻」が発作、して、流水の邪魔になって困ると訴え出たので、それを取り上げてみると、なるほど暗緑色の、蛙の格好をした寒天状の塊である。触ってみるとぬるぬるして、あまり感じがよろしくない。 大体、一個の大きさは普通直径が3センチから11、2センチ位のもので、中には30センチ程もあるでっかいのがあって人びとを驚かせることもある。
時に、たまたまそこに居合わせた人びとの中から、食べてみたらといい出すものがあり、試食してみると案外に味は淡泊でなかなかよろしい。吸物によく、さしみのつまによく、三杯酢にしてまた格別というわけである。
殊にはじめ危慎した腹の痛むような様子も、全くなかったので、これから安心して食用に供して可なることが判り、ここに改めて保護育成するようになったのである。
しかし、このままでは長持ちができないので、いろいろ研究し、遂に完成したのが、浅草海苔みたいに乾燥した、革質紺緑色紙状のもので、時に寛政5年(1793) 1月のことであった。当喜三右衛門(幸右衛門の子 第七代)は早速これを藩主に献上したのであるが、八代長世舒は殊の外喜び、「寿苔」との名を賜わった。だがしかし、この名は間もなく泉の字を加えて『寿泉苔」と改められた。なお川の名も目出度い名前がよかろうというので、黄金川と改められたのであるが、同時に賜わった歌は、
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