寿泉堂
川  茸



秋月藩の「郷村鑑帳」の中に、寿泉苔遠藤幸右衛門と云町家、下座郡屋永川二生る川苔といふ物にて製す。天明年中始而製せしよし、年々まし相弘り、諸国におゐて賞翫せり。
 とあるが、今は金川町産の製品で秋月とは縁遠くなっているけれども、嘗てはその川苔(川茸)の生える屋永の地が秋月領であり、その所有者が秋月中町町人甘木屋事遠藤氏で、原料を秋月に持ち帰って精製し、またその製品が藩より幕府への献上品であったところから、藩が特別の保護地区を与えて奨励をしておったなどの点から、概要をここに取りあげることにした。
 そもそも寿泉苔は、前にも記したように、遠藤氏所有の屋永川(後の黄金川)に生える川茸を精製して、食品としたもので、藩では珍しいところから、特に保護を加え奨励し、これを幕府への献上品としておったのである。




「遠藤家記録」によれば、原産地の川筋及び製造所にそれぞれ、

○公儀献上御用之外、此ノ川筋ノ川茸堅ク相障り間敷ク、並ビニ漁一切停止侯事 郡役所

○公儀献上御用ノ川苔製造所、無用ノ輩入るべからず郡役所

という石の制札が建てられ、遠藤家以外の者の採取を切禁じていたといわれる。(寛政81796)この川茸がはじめて食品として認められようになったのは、宝暦13年(1763)3月のことで、6代遠藤幸右衛門という人が、自分所有の土地を見回った際、付近の者が川の中に「カェル藻」が発作、して、流水の邪魔になって困ると訴え出たので、それを取り上げてみると、なるほど暗緑色の、蛙の格好をした寒天状の塊である。触ってみるとぬるぬるして、あまり感じがよろしくない。 大体、一個の大きさは普通直径が3センチから11、2センチ位のもので、中には30センチ程もあるでっかいのがあって人びとを驚かせることもある。
 時に、たまたまそこに居合わせた人びとの中から、食べてみたらといい出すものがあり、試食してみると案外に味は淡泊でなかなかよろしい。吸物によく、さしみのつまによく、三杯酢にしてまた格別というわけである。
 殊にはじめ危慎した腹の痛むような様子も、全くなかったので、これから安心して食用に供して可なることが判り、ここに改めて保護育成するようになったのである。
 しかし、このままでは長持ちができないので、いろいろ研究し、遂に完成したのが、浅草海苔みたいに乾燥した、革質紺緑色紙状のもので、時に寛政5年(1793) 1月のことであった。当喜三右衛門(幸右衛門の子 第七代)は早速これを藩主に献上したのであるが、八代長世舒は殊の外喜び、「寿苔」との名を賜わった。だがしかし、この名は間もなく泉の字を加えて『寿泉苔」と改められた。なお川の名も目出度い名前がよかろうというので、黄金川と改められたのであるが、同時に賜わった歌は、

こがね川清瀬に生る水苔は
         千歳をかけて猶ほしげるらん

というのであった。
 黄金川にはニカ所に出水(湧き水)があって、水質は澄んで清く、よく流れて淀むことがない。川茸はその水底の小石や水草などにっいて発生するのであるが、暖かいときには一週間位で成熟し、寒いときには一カ月位かかるそうである。
 昔はこの川茸を秋月まで運んで、自宅で製造していたが不便なため、文政6年(1823)に産地の屋永に製造所を設けて、そこで製造をするようになった。
 因みに、川苔、川茸というのは俗名で、本当は「すいぜんじのり」というのが本名らしい。熊本市の水前寺が原産地だからである。

川茸採取

川茸貼付け 寿泉苔



トップへ


「甘木歴史回廊」