1、須賀神社の創建

拝殿・渡殿・本殿全景・大楠(本殿・大楠は県文化財指定)

筑前、筑後の平野を二分し有明海に注ぐ筑後川、その上流域、北に馬見古処連山の裾野、秋月を含む甘木市の中央に鎮座の須賀神杜は、元応2年(1320)に再建され、今日に至っている。
この豊饒の里甘木は、両域の河川の恵みを受け農作物の豊かな産出を見、和らかな丘陵の上に、人々は交易の街を築いてきた。
現在もこの名残を止めて、甘木の街を中心に七街道が放射線状に走っている。
日田へ通じる日田街道、秋月飯塚への秋月街道、福岡への朝倉街道、吉井方面筑後街道、佐賀方面筑前街道、久留米への久留米街道、小石原彦山への彦山街道である。
この街の中心に甘木発祥の寺院とされる、甘木山安長寺があり、人びとの生業が起こったと伝えられている。甘木千軒、秋月千軒と伝えられて人びとの往来は地方都市の圧巻であつたと思われる。人びとはここを生業の場として、商売をするに至った。古来、天変地異事あるごとに念じたものは神仏のご加護より他はなく、相計り此の街の北東に神杜を建て無病息災の祈念をなしたのであるが、幾度かの戦乱、あるいは火災のために消失、再建を繰り返していたのである。
鎌倉時代末期豊後(大分)は九州の政治文化の中心的ところで、博多と府内(大分)は海路、あるいは陸路を通じて交流の盛んな事であった。博多承天寺住職直翁は当時唐の国からの文化を携えて豊後に赴くおり、甘木安長寺に投宿したが、俄に病気に罹り生死の間をさまよいいるとき、一神があらわれたという。

「吾、神速素戔鳴ノ神ナリ、昔、此処二、ワガ杜、有れども兵火二罹レリ、汝、モシ、ワガ社ヲ再建ナサバ汝ノ病ヲ除カン。」

直翁和尚再び祈念するとにわかに病の気が消えた、急ぎ府内より帰国、弟子宗普に命じ、社殿を建立し、素戔鳴ノ尊を斎祭り、禾穀豊饒、無病息災の祭りを厳修し、三時の座禅、四時の勤行を為したのである。
後に、上奏して本社を「甘木山祇園禅寺」と号する事となる。以来明治元年神仏分離のときを迎えるまでこの呼び名は変わることはなく、地元住民は今日親しみをこめて「お祇園さま」と日々の生活のなかにとけこんでいる。
其のおり、当地に夏特有の流行病が蔓延する。和尚は垣棚を造りて、自ら、台上に登り「祇園さま」のご神水を、振り撒き乍ら甘木の街中を、無病息災の祈願をなした。
今日の、甘木祇園山笠の草創である。さかのほれば約680年前という事になり其の歴史の重みを感じることができる。
甘木祇園山笠の移り変りをみてみると世の移ろいをみることができるので、次ぎに記す。

祇園社の草創は元弘のころにして水無月(六月)の祭礼久しく有つとふ中に慶安の頃参詣せし人 願成就に少の事を致せしより 程を経て庄左といふ紺屋 牛頭天王の霊夢を蒙り 山笠を作りて千年の邪気を祓より事始り 続きて元禄のころ躍を再興して氏子の息才を祈り 夫より年々邪気の災も除()り 町の竈(かまど)も数増り 諸国の人も入込み 町々に市立て栄え行く事ひとえに当社の恵みなり 忝くも此祭を 上様にもしろしめされ その後 年々怠なきも 当社御神徳の輝なるべし初は西東催合にて 男女交りに踊りという人もあり また祇園社の神前にて操(あやつり)を一五日に興業せしと噺人もあり 次第に踊り繁盛して 当所御代官 立花八太夫様の時代 正徳二辰の踊りより絶える舞台に立帰り祇園会も町の励みになり 段々と賑(ちぎは)う 俗の諺にも祇園風に吹かるるものは 無病なりと言いはやせりまた この祭りに 逆らい直(すなお)ならぬ人は当社の崇(たたり)を受けたる者数多し 是神霊の罪なるべし この次第に栄ゆる ゆえ町中の定たる祭事とはなれり 自今以後背くべからず 祭礼の中興より130年に及べ共一年切りにて 山踊 覚たるものなく 町々の志を無にすること残り多く思いて 享保壬子の凶年過ぎ 丑寅の豊来年を筆初めとして 当社に神納するものなり 希くはこの末 年々に絶えせず 書院給はらば 当社末代の亀鑑ともなるべきものなり
尤も 町々のて控(ひかえ) 所持人もこれあるにつき皆書写しなり

天明6年丙牛6

松岡氏某撰

二宮氏採集

これは「甘木祇園山笠縁起」の写しである、判読しにくい箇所も随所にみられるが当時の甘木の発展振り、世代の気質など、また福岡藩の甘木に寄せる思いなどがうかがわれる。

※注 昭和52年甘木四日町上野氏(現菱屋)

この甘木の町の賑わいは祇園の祭りと共に盛んになり、月を決めて市が立つ事となる。現在に残る町名で二日町 四日町 七日町 八日町 四重町等は、当時の名残を現在に留めている。

さて、ここで神社に伝わる行事を記す。

先にのべたように氏子の無病息災五穀豊饒の祭儀が殆どであるが、その中で春の五穀祈願の祭儀は豊年祈願の祭りとして伝えられ、「甘木おどり」として今日では、さらに研かれ「甘木盆俄」という芸能にまで発展している事は周知のことである。先のとおり祇園山笠行事が盛んになると共に、あわせて村踊りとして、児女にて舞曲を奉納し甘木盆俄の源流であるこの踊りは、江戸文化の濫觴たる元禄年間にその起源をみることができる。なお現在社務所に保管の、「甘木盆踊り絵馬」は当時の面影を伝える貴重なものである。

甘木盆俄

祇園山笠

夜須郡草稿 祇園社伝

七日町に在りし本杜伝に云う・-…毎年六月十五日祭礼アリ作山二本ヲ社前二担山キタリヤガテ駅中ヲ錬リアリク マタ 村踊リトテ舞曲ヲ児女ニナサシム 作山ハ慶長ノ頃ヨリ始マリ 踊ハ元禄ノヨリサカントナリ 東西ノ町ニテ当番アルク □□口□見物ノ男女四方ヨリ来リ集ヒテ肩ヲ擦リ踵ヲ□キ塵ヲ飛シテ賑ワシキ祭礼ナリ□杜後二近年村民義倉ヲ造リ米穀ヲ貯フ逐年其量ヲ フヤシテ□口凶年ノ糧二備フ 誠二善政トイフベシ 側二碑ヲ建テ其のノ事ヲ僧仙崖撰……

とあり、当時の賑わいを伝えると共に町中が合議により動いている状態がまざまざとうかがえる。なお義倉については福岡県文化財の指定をうけているので次に其の原文を(仙崖和尚筆)記す。

県文化財指定

碑文は仙崖和尚



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