石田家住宅

妻入切妻造の町家

建造物の概況

石田家住宅は、藩政時代の御用商人遠藤家が建設した家屋で、西棟・東棟ともに宝暦12年(1762)の大火により焼失したのち、西棟は明和元年(1764)までに再建されている。遠藤家文書によると、西棟は「津乃屋」と記され、遠藤家の出店または隠居宅として使用されていたことがある。東棟は、「脇戸」と記され、寛政年間(1789〜1801)までに再建されている。その後も数回の改築が施されているものの、当初の部材がよく残されていた。
 明治維新時には柴田藤吉氏、遠藤喜一郎氏が東西それぞれに居住していたが、大正初期には遠藤謙吉氏により甘木屋質店の店舗の蔵として両棟を併合して使用されていた。昭和6年石田家の所有となり、再び分割し貸家として使用され、近年は空家となっていた。
 明治以降の人口流出の中で、隣接家屋を併合する例は他の町屋においても見られるが、本家屋には東棟、西棟が地形的に西下がりでありながらその床高を揃えたり、また2棟間の隙間を押入れ・棚等に利用し、一時的にはそこに開口部を設け連結して使用したりといった空間利用上の特徴がある。
 上記の家屋そのものの価値に加え、秋月の町屋地区の中心的位置にあることから、現在取り組んでいる町並み保存運動の核としての波及効果を期待して、県指定有形文化財の指定がなされた。
 本住宅は二棟接続であった町家を一棟に併合し、その後再び二棟に分割して利用するという、いわゆる並行二棟型の町屋といえる。二棟のうち西側の棟は、妻入りの屋根の上に入母屋造りの二階をのせた形をとり、東側の棟は、同じ妻入りで二階が切妻となっている。
 平面は、東側が土間に、板間と畳間が二部屋続き、座敷には床の間と仏壇がある。西側は、東側と対照的な造りになっており、奥には縁側とそれに囲まれた中庭がある。

東棟は遠藤家の建設した家屋である「辻の家」または「脇戸」にあたり、寛政11年の建築を後世、大改築し、当初の部材を使用したものである。 また西棟は、遠藤家文書の中に「津之屋」と記され、文政12年の火災を免れた建物である。 両棟の建立年代は異なるものの、二棟接続の町屋としての建築上の手法・空間利用等の特徴から県指定有形文化財に指定されている。秋月の伝統的町並みの核となっている。



     解体前       礎 石        修復後

御用商人遠藤家と石田家住宅

 遠藤家は遠江国渥美郡(静岡県)の出で、近江を頒していた戦国大名浅井長政に仕えていたか、浅井家の滅亡により浪人となり、筑前へと落ちてきたという。その後甘木町に在住し、農業のかたわら酒造・質屋を営んでいた。
  元和9年(1623)、黒田長興が秋月藩5万石を分知され翌年秋月に入部する際に、遠藤家に藩の御用を申し付けられた。遠藤家は秋月中町に出店を構えるが、御用が行届かないとして元緑6年(1693)、4代喜左衛門は秋月に引移り、甘木屋と称した。これが石田家住宅から西側の興膳家までの広い敷地にあたると思われる。なお甘木は弟惣左衛門に譲り分家とした。
  出店時代にも2度大火に見舞われており、正徳5年(1715)の大火で遠藤家はまた焼失してしまう。しかし、甘木分家からの支援もありすぐに再興を果たすことができた。一方、有力商人であった未次・坂口家はこれらの火災により次第に衰退し、勤めていた年行司も遠藤家が代わって勤めるようになり、明治になるまで代々この役を勤めた。
  さらに5代喜左衛門になると、宝暦2年(1752)札の辻に出店を出し、後にこれを分家としている。この頃の記録に石田家住宅の記述があり、他の持家と、同様に西棟・東棟ともに貸家として使用されている。
  宝暦12年(1762)、大火発生、本家以外は札の辻分家を含め令焼した。焼失した家屋は明和元年(1764)までに再建され、天明元年(1781)頃には西棟が出店として使用されはじめる。これが「津乃屋」に該当する。また東棟からは寛政5年(1793)の祈祷札が発見され、寛政11年(1799)に新たに普請したという記述がある。
  寛政5年は、7代喜三右衛門が川茸の製品化に成功した年であり、藩主長舒に献上している。しかし遠藤家は文化文政の頃に、藩財政窮乏のあおりを受けて衰退し、天保3年(1832)に家督を継いだ10代喜三右衛門によって、川茸と醤油中心に切替えようやく再興を果たす。この時、老朽化した家屋等が修復されており、東棟もその修復を受けている。
  明治維新以後は、秋月町はその政治的役割を終え、同時に経済的求心力を失った。人口の流出が相次ぎ、明治9年(1876)の秋月の乱がさらに追討ちをかけ、遠藤家もまた明治12年(1879)川茸製造所のあった弥永村に引き移った。明治以降の石田家住宅については前述のとおりである。



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