秋月城

    県指定有形文化財

秋月城の碑

秋月御館図

秋月御館図

秋月城杉の馬場の南東東側の高台にあり、現在は中学校と公園に利用されているが、堀や石垣とともに本門(黒門)、長屋門が当時の面影を残している。本門は黒門と呼ばれ、秋月氏の古処山域搦手門を黒田氏が秋月域の本門に移し、さらに明治初年の廃城の際、垂裕神社の表門としたものと伝えられている。門は木太い薬医門で本瓦葺、男梁の上に大板引き蟇股(ひきまた)をおく。蟇股や水引虹梁の絵様から、天正年間の秋月時代までは遡らないまでも、十七世紀前半の建築と推定されている。

黒  門

長屋門は昭和六十二年度より三ヵ年計画で全面解体による保存修理がなされた。この解体によって新たな発見があった。長屋門は城跡の旧位置に残る唯一の遺構と伝えられているが、明和二年・文政三年に描かれた古地図では同じ位置に示されているので、位置が変わらなかった事は確かである。しかし、両図とも表門の幅より狭く描かれている。解体の結果、長屋の中ほどに立柱の礎石の扉軸穴の偏心、門上部北側藁座から「嘉永三戊」の墨書が発見された。この発見によって、本門は文政三年までは表門と同じ一間二戸薬医門か一間二戸棟門であったものが、嘉永三年に古材を利用して長屋をつけた現長屋門を建立したものと推定される。



長屋門


さらに幕末時の「秋月御館図」では同じ大きさの長屋が描かれているが、解体前は南棟が桁行七間・梁行二間、北棟は桁行四間・梁行二間であった。発掘調査の結果、北側三間目は確認出来なかったが、二間は確実に張り出していたので、解体整備では南棟は桁行七間・梁行二間のままとし、北棟は北側に二間継ぎたして桁行六間・梁行二間の長屋門に拡張されている。



        秋月城跡の堀



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