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    お栄(ハヱ)
   
  良右衛門さんのおかくれた時にゃ、まあだお祖父っつぁん(五代目真藤重三郎)な、十四才 じゃったげなけん、いっときゃ、山本から稽古ごつてん、父親代りになって見てやんなさった ち云うこつじゃった。家のこつは、おっ母さんのおハエさんの、一手にしっかり引き締めて、 経済の切り廻ししなさって、ずんずん財産も殖えて行った模様じゃん。

  天保十四年良右衛門さんのおかくれた時、甥ごの山本武八郎さんの天保十三年の真藤の収入 と支出ば、まあだよう調べて見らんとわからんばってんち、一応のとこば書付けとんなさった つの、山本の書き付けの中にあったけんち、緒方の清作(山本家支配人)さんの写して来て呉 れたつのあるが、一年間に使うたつが、銀四貫百四、五十匁(約六十一両)米四十五俵で、入っ たつが、作男置いて、うちで作った米以外に余米およそ百俵、水車のかし料(四ヶ所)小麦四 拾俵、枦実五拾俵(一俵百斤)の代銀一貫七百目、竹五百束代銀壱貫目、ち云うこつで外に、 大豆(畑余米)。

余米百俵ちゃ村内の分で、蜷川の六丁分の余米や、差配人が上納てん納物差し引いて、残り米 ば蜷川で売ってお金で持って来よったげな。其頃の家族は両親と子供二人、姉娘のおよりさん な縁づいとんなさったかん知れん、外に使用人の何人かおっつろたい。

  とにかくおハエさんな経済家で、どんどん財産な殖えたらしかったが、万事になかなかやか ましゅうして、細まかったげな。お仏さんの御命日にゃかならずお墓参りのあるげな。そして、 お帰(け)りがけに、高良ん川の手頃な川原石ば一つ二つ袖に入れて持っておいるげな。その 石の溜リ溜ったつで表の道端の一尺余リの高さの、四十間ばっかり長さの石垣は出けたっげな ち聞きょったたい。

まさか全部がお袖入りの石じゃなかっつろばってん、そげな風に細かったげな。そりばってん、 飢餓てんの時ゃ惜しみ無しに、米てん何てん、村の困っとるとこに分けてやりょんなさったげ な。そっで人の、たてまつっとったつじゃろの。一体に初手の物持ちち云うとこ辺な、そう云 う風な気風のあったもんの。そりゃ例外もあっつろばってん。

  薙刀が上手で、免許うけたりしとんなさったげなが格式ばって、家の前ば村の者達が、鼻唄 歌うたり、大声立てながら通ったりすると叱りょんなさったげな。よその家の前ば失礼な!ち 云うて。いつか村ん中ばおいりょっったげなりゃ、うしろから村ん者か裸馬に乗って黙って追 越して行ったげなけん、腹立てて無礼者!!ち、ピシヤーッと馬の尻ば杖で打っ叩きなさったげな。

馬はびーっくりして一目散に走って逃げて行ってしもたげな。お供しとった長右衛門が「ご隠 居さん馬ん尻ば叩きなさったけん、乗っとった者んなよかっつろたい、馬ん逃ちゃおらんなら、 ご隠居様から、ごーほん叱らるヽとじゃつつろけん」ち笑うてあたし、話したこつのあったたい。

  おハエさんな、こげな在方(ざいかた)の藪だらけのごたっとこに、侍ち云うたっちや、山 本に較ぶりゃ何がつでんなか財産の家にお入ったつが不平じゃったらしかもん。

  良右衛門さんの妹ごのおモギさんが、おハエさんの兄さんの伝之進さんにお入っとって、お互 兄嫁さんで小姑さんで、いとこ同志で遠慮はなしで、始めのうちゃ、お二人ながら始終いざこざ の絶えじゃったふうで、旦那んさん方も、とうとうお手揚げしなさって、そげん八かましかなら、 もう二人ながら出さじゃこて、ち云うこつになったげな。そりから一族の長老株の誰かが、「そ げん云うなら二人ながら出りゃよかたい。

そりばってん、二人いっしょに出るち云うとも何じゃけん、どっちかは残らじゃこて」ち仰しゃっ たげなりゃ、途端に二人ながらピシャーッとおとなしうなんなさったげなたい。ほんなこつは、 どっちでん、出とうはあんなさらじゃった風たい。初手は何せ、世間のせもして他に気の行くこ つも少なかっつろもんじゃけん、勢いそげないざこざがどこでんはづみよった模様たい。

  おハエさんのお里帰りの日は、山本に「今日ゃお里帰りのございますけん」ち朝、男のお荷物 どん持って行くと、「そーら、今日は真藤ん叔母さんのおいるげな」ち大ごつげなもん。あたで お掃除てん何てんの・・・・。

  糸屑一本でん落てとっとば見つけなさっと、拾い上げて手にこう持って、片手どん膝の上で パターン、パタン云わせて、「こなたは、ご大家のけん、糸屑どんが落てとる」ち皮肉んなさる げなもん。そげなふうじゃったけん、後の伝之進(武八郎)さんの奥さんも、そうに捌けたお方 じゃったげなが、このおハエさんにゃ、ヒロヒロしとんなさったげなたい。珍らしか江戸絵どん が来とっと、さっさとお気に入ったつから、「こりゃ頂いて行こ」ち持って行きなさるげなもん。

  おハエさんのおかくれたつは慶応二年七十六才じゃったげな。あたしば除(の)くっと、うち の家系のなかじゃ一番長生きじゃったたい。

  おハエさんの娘ご、お与利(ヨリ)さんな一番始めは、京ノ隈の馬廻組の湯山林之進さんにお 入ったげなばってん、いっときして、何じゃ彼じゃで、湯山にお子さん残したなり、帰っておいっ とったげな、そして二度目に石原本家九代目小右衛門さんにおいったつたい。この小右衛門さん な、そーなお酒好きで、家の敷石まで呑うでしまいなさったち人の云よったくらいで、殿様から 年々二百俵づつ頂だきょんなさったげなばってん、このお方で石原本家はとうとうみーんなのう なったったい。

そげなこつで、ここも何とか彼んとかで又おヨリさんなうちさんご一新ちよいと前頃帰っておいっ て、うちで明冶五年頃五十五才でおかくれたが、何かの時ゃ、湯山からも、石原からも、行った り来たりじゃった風じゃったが、どう云うとこで出ておいったもんじゃりの・・・。


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