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    補習科
   
  うちにぶらぶらしとったっちゃち云うとこで、お父っつあんの、校長先生と何か話して来 て女学校の補習科に人れち云いなさったけん、また補習科には入った。
四回卒業の人達ん一 年補習科の仕舞えて、また一年自由科んごつして残っとんなさったっと一緒になったたい。 権藤のかつしゃん、山本のおつたしゃんとおまきしゃん、あたしと四人だけじゃん、そりが みんなお互、遠縁てん近縁の者ばっかりたい。

  学科は裁縫ばっかりち云うてん、修身と音楽の授業は受けにゃならじやったばってん、音 楽は何ごつかで、みんな合唱せにゃんち云うごたる時だけ習よったぐらいで、呑気なこつじ ゃった。そん時はもう洋髪てん海老茶の袴はいたりじゃった。
銀杏がえしもあったばってん ……。
本科の生徒の方も何でんどうやら女学校んごたる体裁になっとったたい。

  そんときゃ、生駒先生ち云う裁縫の先生ん来とんなさって、とてもむつかしうして、やか ましかげなち聞きよったばってん、あたしどんないっちょん叱られもせじやった。
補習科に 行ったけん、基礎からよう判かった。そりまでは縫うばっかりじやったもん。

  補習科の教室は南北並びの一番北の端の教室じやった。その教室の一隅、四人連れで陣取 った。机もめんめん一つ宛あったたい。四人何でん一緒にしよったばってん、どっちかち云 うと、かつしゃんとおつたしゃんがよう気の合うとったこたる。時々持ち物調べが不意にあ りよった。

そん時その頃人気のあった"魔風恋風"ち云う本ば、おつたしゃんじゃったか持って来て、四 人で見よったつば、おつたしゃんの、かつしゃんの机の中に、入れとんなさったつば見つけ 出されて取り上げられ、四人ながらお説教されたたい。その頃は、本でん何でんやかましか こつじゃった。

  おつたしゃんな、あんまり裁縫ば好きなさらじやったけん、いつか男袴縫うたとき、誰か が加勢して縫い上がったこつんあったつば、誰が云よったもんじゃり、お節さんにつげ口し たげなたい。

そっでお節さんの「おつたしゃまん袴ば自分で縫いなさったじゃうか、どげんでごさいまし つろか」ち、あたしに聞きなさったこつのあった。
何せ其頃は山本は久留米じゃ、最上 流のうちで、二人ながら近親どうしで、同じ年のちょうど年頃の、いづれおとらぬ美人じゃ もんじゃけん、二人はお互仲のよかっに、学校ででん世間でん、めくじり立てて、何じゃか んじゃち二人ば天びんにかけて、取ざたしたりどうしたりで、いつでん二人ながらいらん迷 惑ばさせらりょんなさったたい。
其頃迄は世間がせまかったけんじゃっつろたい。

  おつたしゃんな色白でぱーっと花の咲いたこたる美人で目の大きうして「どうゆう美しさ じゃか」ち人の云うごたる美人じゃった。
そのうえ大がらじゃった。かつしゃんな背はあん まり大きうなし、一寸色は黒かったばってん、中高顔のおとなしかほんに美しか顔じゃった。

おまきしゃんな、ばーっとした美しさじゃなしおつたしゃんとは反対の感じの美しさじゃっ た。背もすらーっと高かった。
ほんに顔形と云い人がらといいあげん美しか人はちょいとな かろうの。真藤のみちしゃん、このあたしゃ、美しか人達ば尚美しう見する引立役で、南洋 じゃ美人の類じゃっつろの。

  補習科ん時じゃった。朝学校に行ったりゃ生駒先生の昨夜は大ごとじゃったよち云いなさ るもん。詳しかこつはわからんばってん、車の隅に気ちがいさんのござった。中学校卒業し て高等学校に入って気の狂うたつろうじやった、その人が夜、学校には入り込うで帰らんけ んいざこざの起ったち云うこつじゃったたい。

ところがそりからが、その気違さんが朝からでん学校に遊びに来るごつなって、補習科ん教 室んなかさん這入って来て、火鉢のはたにすわらっしゃるもんじゃけん、みんな裁縫にこて 使わにゃならんとに、えすうして火鉢んそばさんいっきらんもん。

先生とは何ごつんなかふうで世問話どんしてじゃん。そっで先生の「ここは女ばかりの学校 で面白くないでせう、中学校か商業学校にでもいらっしゃいよ」ち云いなさると「あんなと ころは自分が経て来たところだから面白くない、女学校がいい」ち云うて、テニスのボール ば何時でん持って来て、テニスしゅうテニスしゅうち云うてみんなば困らせござった。

誰がどげんしてん帰らっしゃらんけん、のちにはこっちが智慧出して窓でん入口でん内側か らつめて仕舞うたばってん、背の大っかもんじゃけん、廊下んがわの窓の一番上の段のすり 硝子じゃなかとこから、こー覗かっしゃるもん。

  姉さんなお花の先生ばして、お父っつあんな竹細工どんしよんなさったたい。元は家中の 一かどの家じゃったったい。何時か竹細工しよんなさるお父っつあんば、後から棒か何かで 頭ば叩かっしやったげなけん即死じゃつたげな。

警察で澄した顔して「クロバトキンどん殺して来た」ち云わっしやったげな。日露戦争ん頃 じやったもんで…。後には打ち抜きに入れてありょったげなが、後に死なっしやったげなち 云うこつじゃった。

  あたし達ん教室は南北に流れとる棟じやったけん、向側の男子高等小学校は教室の中まで ようわかりょった。先生の声でん生徒の声でんようわかりょった。粟生の直しゃん(後の久留 米高女藤村直之助先生)なその頃、男子高等ん先生しょんなさったたい。あげん身体は小まか ばってん、声の大っかこつが、唱歌の時間な大声張り上げて"箱根の山は天下の険、函谷関も、 ものならず"ち繰返し繰返し自分が歌うて教えよんなさった。

詩吟てん剣舞てん書てんほんに上手で、水泳もとても上手じやったげな。筑後川ば鎧着て泳 ぎ渡ったりしょんなさった。
櫛原の「座りぼたん」ち云はれよんなさった佐々のばばさ んの甥ごたい。ほんにあの頃、自分の娘が女学校で、あげんお世話になろちゃ思ひもせじゃっ たたい。

のち、藤村に養子に行きなさった。あたしどんが、補習科済ましていっ時だんして、女学校さ ん来なさったたい。  


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