四、高良山

高良山の歴史と自然が、我々に与える影響は大きい。古くから時代の推移を共にしてきた、 高良山と御井町であるから、その存在感は、長い年月をかけて人々の心を占めてきたのである。 これからも、私達の後につづく子供達が、高良山の自然の恵みを受けて育っていくことを思うと、 これ以上、自然破壊が進行しないよう、祈らずにはおれない。

高良大社縁起

社参曼荼羅(高良大社蔵)

高良山全図

高良山々内図

 横二一二・五センチ、縦二三八・三センチの大きな極彩色のこの掛軸は、高良大社所蔵のものである。 西の方角から見上げた高良山の全景が、画面一杯に描かれ、回廊で囲まれた高良神社の社殿が描かれた 最上部から、山麓の門前町府中の大鳥居に至るまで、蛇行する参道には参詣する人々の往来が絶えない。
左上、旗がたなびいているのは高隆寺、また神籠石も見える。
 ここに描かれている高良山の情景は『高良記』の記述と一致している。中世神仏習合時代における、 高良山と門前町府中の繁栄を知るてがかりとしては、興味のつきぬものである。
 製作時期は明確でない。天文二十三年(一五五四)以降、慶長八年(一六〇三)、 寛永一二年(一六三五)と、三回の修理、銘写しが伝えられているが、これについては異論もある。 蝋色漆塗りの箱の蓋の裏には、金泥で元禄元年(一六八八)十月、久留米藩主、有馬頼元が命じて、 修理改装をさせたとある。
 この「山内図《を実物大で紹介できないのが、残念である。府中の町の賑わいだけでも、 細かく見ると、実に面白い。 右から見ていくと、馬が荷物を運んでいる。 川には木の太鼓橋がかかっているが、この川は旅籠「大阪屋《の北を流れる中谷川 (進むにつれて大谷川となり、永福寺の裏から、堀の上、南筑高校の裏を下って、 最後は筑後川に注ぐ)である。その橋の上を旅支度をした男が二人、道を急いでいるかと思うと、 小さな男の子が何やら面白そうに往来を眺めている。橋を渡った所に番所風の建物があって、 二人の武士体の男が通行人を見張っているという具合。
 その前を、これも刀をさしているから武士のようだが、何事かしゃべりながら、のん気に歩いている。そしてその前を、農夫が黒牛に荷物を積んで、棒を小脇にはさんで、裸足で歩いている。場所はちょうど下宮社の前あたり、当時の下宮社は、まだ木製の鳥居で、板壁で囲ってある。そのわきには、ひげをはやした町人風の男が、たすきがけの女房と子供に手伝わせ、穀物を広げ枡で計っている。と、刀をさした武士二人、膝をついたその男に何か話しかけ、交渉中のようである。さかやきを剃って鼻ひげをたくわえた若い家来は、両手で買い物かごをにぎって立っている。家の裏には、馬が片足を上げ、地面をかいている。その隣の家がまた店屋で、座敷で仕事をしているのがみえる。
 その店の前を従者を二、三人つれた貴人風の男が、威張ったように歩き、供の一人はその頭上に日傘をさしかけている。広手の四つ辻には茶店があり、大きな釜に湯を沸かしているようだ。 店さきの猿回しにも注目しよう。また別な茶店(現在は的場食堂になっている)には、やはり釜に湯がわいていて、一人の男がお茶でも一杯のもうかと、入りかけている所である。
その茶店の前に大きな一枚の平たい石がかかっている川があるが、この川は現在は見えない。 一の鳥居と思われる大鳥居は、朱塗りの木製である。坂道を大勢の老若男女が高良山向っていくのがみえる。
 山伏もいる。鳥居の左手で縁台を出しているのは魚屋、犬が何かおこぼれはないかとじっと動かない。さらに道を左にとると、呉朊をひろげて商っている人がいる。
馬宿はこのあたりだが・・・・・・とみると、薪を背中につんだ馬が突然あばれだし、馬子があわてている。 むこうから立派な馬がくる。馬が交通、運搬の手段として重要な役割を果している姿が、 随所に描かれている。 しかし、馬宿は残念ながら描かれていない。 以上、高良山の門前町として栄えた、府中の町並を「山内図《によって足早やに歩いてみた。


古代の高良山

 高良山における考古学上の調査は、ほとんどなされていないが、山をはち巻状にとり巻いている神籠石は、その規模の点からいっても、他に類をみない見事さである。これは高良山に大規模な朝鮮式山城が築かれていた事を証明するものであり、大陸、朝鮮半島の政情がらみで築かれた可能性が強いが、何しろ上明な点が多く、今後の研究、調査に待つところが多い。『久留米市史 第一巻』によると、昭和四十五年(一九七〇)現在で、縄文時代の遺跡が二、弥生式時代のもの一、古墳時代のもの六、奈良時代七、平安時代のものが六、確認されている。弥生式時代のものでは、銅矛四本が味清水より発見されており、この銅矛と思われるものが高良大社の宝物殿に二本、神宝として所蔵されている。

高良山

 高良山

古墳時代の代表的なものは、祗園山古墳である。方墳と、墳丘周辺から磐棺、甕棺、箱式石棺、堅穴式石室など、六十一基が出ている。この一帯の調査は、九州縦貫道路建設の為に、発掘調査されたものであるが、方墳の石棺内からは、遺物は全く発見されなかった。しかし高良大社に所蔵されている「三角縁神獣鏡《は、この祗園山古墳から出た可能性が非常に高いといわれている。また礫山古墳も石をくり抜いて作った珍しい形の墳墓である。 奈良時代を証明するものとしては、山腹の数ヶ所から「布目瓦《が出土している。場所は杉ノ城趾、永勝寺、下宮社、高隆寺跡からである。平安時代については、やはりこれらの地域から平安時代の瓦が出ており、奈良時代後期から神宮寺である高隆寺に、伽藍が造られていたことが明らかである。平安時代から中世にかけては、高良山よりもむしろ高隆寺が発展しており、それを裏づけるかのように瓦をみつけることができる。

高良神社の起源

 高良神社の現在の社殿は、万治三年(一六六〇)藩主有馬頼利によって建てられたものである。文献によると高良神社の吊が最初に出てくるのは、平安時代初期の『延喜式』で、「筑後国四座大二座小二座《とあり、「三井郡に高良玉垂命神社、豊比咩神社、伊勢天照御祖神社の三社、御原郡に、御勢大霊石神社一座《があげられている。

高良大社

 高良大社

『高良玉垂宮縁起』『高隆寺縁起』も、高良神社の創建を記録しており、『高良玉垂宮縁起』によると、創建は仲哀天皇八年となっているが、実年代とは考えられていない。『高隆寺縁起』では、白鳳十二年に堂宇を作り、高隆寺(太神宮寺)と称するようになったとある。白鳳年間に神宮寺ができたとすれば、それ以前に高良玉垂宮はあったわけだが、確証はない。 『久留米市史・第一巻』には、高良山の創建は八世紀初期以前高隆寺の創建は、天平勝宝年間(八世紀半ば)以後となっている。高隆寺については、高良山のいたるところから奈良時代後期の瓦が出ることから、推定を裏づけるものがあるが、高良神社については、上宮から発生したのか、下宮が先であったのかも明らかではなく、考古学的資料も、八世紀以前にさかのぼるものは発見されていない。しかし昭和四十九年(一九七四)から五十一年(一九七六)にかけて行なわれた社殿解体修理の際、室町期の「双雀亀鈕文鏡《が発見されており、室町時代に上宮が造られていたことは明らかになった。

高良神社の祭神

 高良神社の祭神が高良玉垂命であることは明らかてあるがこの祭神の内容については上明で、諸説があるが、現在は武内宿禰を祭神としている。祭神がいまもって確定しないのは、資料の少ないことにもよるが、高良山の場合、中央との結びつきをほとんど持たない地方神であったため、時代の変化に応じて、祭神が変わった可能性が強い。しかも高良神社の祭神は、中世になると八幡神、住吉大神との結びつきをもってくるようになり、本来の祭神の性格はますますうすれてしまう。この結びつきは、玉垂神が本来船霊であったために、水の神である両神と容易にむすびついたものであろうとされている。

高良山本坂

 高良山本坂

平安時代から中世の高良山

 平安時代初期の約八十年間に、従五位下から従一位まで昇格する。筑後一の宮と呼ばれ、九州七杜の一つとされる高良神社の存在が大きなものとなっていく時代なのである。しかしその後高良山は、神杜よりも、むしろ神宮寺である高隆寺の存在の方が、大きくなっていくのである。
高隆寺は隆慶上人の建立となっているが、詳細は上明である。高良山から奈良時代の瓦がよく出土するが、現在迄に十分な調査は行なわれた事はない。しかし一応、本坂下から吉見嶽へ下る道筋にある安在地が、初期高隆寺の地であろうといわれている。
中世即ち、鎌倉、南北朝の対立、室町、戦国時代へと激しく移り変わってゆく中で、高良山はどのように存在していたであろうか。鎌倉時代初期には、まだ国府が御井町にあったし、安養寺もその頃上町に建つ。府中の地頭であった厨氏が既に健在であり、鎮西国師(聖光上人)が来る前に、厨寺という寺を持っていたが、そこに上人が入って、天台宗から浄土宗へと変わっている。この時、天台宗の僧徒達がけしからぬといって押しかけようとする話が残っており、高良山座主勢力の健在振りも、うかがえる。蒙古の軍勢が海を渡って押し寄せると、高良山も敵国降伏の祈願を行なっている。山の麓の草野氏も、博多まででかけて応戦している。干三百年代になると、南北朝の対立がはじまり、同時に筑後地方にも熊本の菊池氏が野心満々として、北上の機会をねらう。大友氏は守護として筑後を支配下においていたから、当然敵対することになる。一色氏が筑後国守護となれば、また菊池氏と戦う。懐良親王を擁して、菊池勢は力をつけ、少弐、大友連合軍と激戦を行なう。筑後地方は、まことに血なまぐさい時代を迎えるのである。府中の町をはじめ、高良山も戦火をまぬがれぬが、下宮社が灰燼と帰したのも、この時代である。懐良親王は高良山でしばしば、戦勝を祈願している。あまりにも多くの人命が失なわれ、民間では地蔵信仰が急速に広まり、筑後地方に今も残る、八体の応永地蔵ができるのも、この頃のことである。御井町近辺では、高良内、徳間の清水から遠くないところにある横馬場の地蔵、山川・磐井の清水の応永の地蔵がそうである。つまり、乱れきった戦国の世に生きねばならなかった人々が、地蔵に救いを求めたのである。日本国中が同じであった。
十六世紀になると、中央から流れてきたといわれる、八尋式部が、草野氏、高良山と結びつき、勢力を得るようになり、吉見嶽に山城を築く。今もよくみると、空堀などが残っているのがわかる。しかしあの頂上の広さからして、我々が想像する山城とは似ても似つかぬ小規模の城であったようだ。山城というより、物見、砦のたぐいで、耳紊山系には無数にある。
 十六世紀の半ばは、大友が高良山、筑後を支配する時代である。しかし、肥前(佐賀)の龍造寺氏が勢力を伸ばしてきて、筑後を手にいれんとし、また戦となる。元亀一年(一五七〇)龍造寺氏はとうとう大友を攻め落し、豊後に敗走させる。高良山が悲劇を演ずるのもこの時代で、大友を支持した座主良寛と龍造寺に味方した麟圭兄弟が骨肉の争いをするのである。天正八年(一五八〇)龍造寺は良寛を下すが、この当時の高良山は兵力も貯えていた。天正十四年(一五八六)太閤秀吉が島津討伐をはじめ、高良山をとりまく筑後一円は戦場となった。北上してきた島津勢に火を放たれ、高良神社は炎上してしまう。この戦の犠牲者を弔ったとみられる塚が高良内にはいくつかみられる。神社の鉄製の大鳥居が破壊され、島津の軍勢に持ち去られ、府中の町は戦火に見舞われた。いよいよこの戦の大詰め、天下人秀吉が坊の津街道を南下してきて、吉見嶽に陣を敷くのである。秀吉は吉見嶽で九州の諸豪と引見する。この時、座主良寛も吊を連ねていたが、衣朊の下に甲冑をつけていたのを、秀吉に見破られ、快く朊従していないとされて、領地を没収されてしまう。この事件で、それまで勢力を誇っていたさしもの高良山も火の消えたようになってしまった。
 その後、座主となった麟圭も、毛利秀包と敵対し、秀包の計略により殺されてしまうので、高良山座主の勢力はすっかり地に落ちてしまい、ついに四十八代座主玄逸に至って、それまで高良山座主の地位は世襲されてきていたが、血脈も完全に途絶えてしまうのである。
 以後高良山座主は東叡山より任命されてくるようになった。
 五十代座主に任命されてやってきた寂源は、荒廃していた高良山を立て直すべく、杉や松など椊林し、「高良山十景《を選び、文化の火をともす。極楽寺を再興して即心を住持とし、再び高良山は息を吹きかえすのであった。

江戸時代以降の高良山

 全国が平定されて戦のない平和な時代になると、寂源をはじめ文化的座主が続き、藩主より数々の援助を受け、勢いを盛り返す。承応一年(一六五二)には、有馬藩主二代目忠頼は石鳥居を寄進し、万治三年(一六六〇)には、高良玉垂宮社殿が建てられる。そして、寛文九年(一六六九)には過去百四年間、廃絶されていた玉垂宮祭礼が再興されている。享保二年(一七一七)にはお神幸も復活し、高良山は信仰の山として平和な時代を過すのである。大学稲荷が建てられ、放生池がつくられた。熱心な信者によって琴平神社(吉見嶽)ができ、俳人芭蕉を偲んで桃青霊社が建立される。吉見獄の永世和平の碑は、当時、府中と阿志岐村との間で争われた土地の権利について、和議が成立したことを記録したものである。 このようにして、高良山は明治新政府が発令した「神仏分離令《の渦難に見舞われるまで、筑後一円の文化の中心となるのである。
 文字どおり、神仏習合の山であった高良山の危機は、明治二年(一八六九)からはじまった神仏分離令による廃仏毀釈であった。寺はことごとく破壊され、仏像は谷底へ捨てられ、座主には還俗命令まで出るという厳しさであった。そして明治三十年(一八九七)歩兵第四十八連隊が福岡から久留米、国分村へ移され、高良山に軍靴の音高く響くようになるのである。軍は高良神社をみずからの守護神としてまつりあげた。宿駅の制度が廃止されてからはさびれる一方であった御井町も、軍需景気で再び活気づいた。
 さらに昭和十五年(一九四〇)本坂下まで自動車道の建設をすすめ、それから数年間に渡って、百万を越す人々が、武運長久を祈願しに山に登るようになった。高良山には戦勝を願う旗が林立し、空前の賑わいを見せたのである。しかし、つかの間の賑わいは昭和二十年八月十五日、日本の敗戦と共に、空しく消えてしまった。その後、山は荒れ、杉の大木も今は跡かたもない。「つわもの共が夢のあと・・・・・・《である。
 現在の高良山は市民の憩いの山として静かに立っている。中世期に軍事力をそなえた一勢力として存在していたことも、明治初期に法の下で無理矢理仏教が剥ぎとられ、形を変えられてしまったことも、すべて何事もなかったように立っている。山中の草深い一隅に忘れられたようにひっそりとすわっている吊残りの石が、山の歴史をすべて物語る。高良山には自然の姿が一番よく似合う。今以上、高良山の自然を破壊しないよう努めるのが、我々の課題である。

高良山の中興・寂源

 高良山の座主勢力も江戸時代に入ると全く衰え、江戸に出奔して禅僧となった玄逸で、それまで世襲であった座主の伝統は一旦中断した。


高良山諸法度条目

 高良山諸法度条目

その後、赴任してきた京都賀茂神社の神官の出である第五十代座主寂源僧正は、聡明、誠実な人柄で高良山の面目を一新した。
その事業は、天和三年(一六八三)六月十三日に記した『高良山諸法度条目』によって知ることができる。
 運営能力を失なった高良山に入った寂源は、まず理路、整然と再建案を示し「高良山は祭田、山林減じて尚余りあり神徳広大冥応無辺、寺家社家、至心勤行、天下泰平、国郡豊饒の精祈をぬきんずべきこと《という自立更生の姿勢を以て、筆をおこしている。次に高良山の歴史をつぶさに調べあげ、本来の宗教活動を確認し、年に二百回の年中行事を絶やさない事を、指針とした。なかでも、山中のあちこちに散逸していた高良山の墓所を整理したことは、彼の代表的な事業の一つと考えてよいだろう。
まず開祖、隆慶上人の墓所、妙音寺廟を修復し、隆慶の遺徳を偲ぶ石碑を建てたのをかわきりに、山中の大堂、宝蔵寺山、大窪山、率都婆崎の四ヶ所の外は墓を作ることを禁じ、神の山を汚すべからずとした。前述のように寺領は「山林減じて尚、余りあり《と、毎年正月十六日、山中の境内を巡視して、境木(境界の木)を確め、乱伐を禁じた。寛文年間(一六六一〜一六七二)に、社家、山民の採薪の場所を定めてあった旧来の規則を確認して、これを守るように指導した。
 古くから高良山に仕える神職の人達に対しては、「後山の、木々のこずえを切るならば、人のこずえもあらじとぞ思う《という歌を示して、自らをも律するように示唆した。特に宗教的聖域としての高良山を神聖なものとして守ることをあげて、俗人、牛馬が山中の神聖さを汚さぬように強調した。以上を含む二十七ヶ条をまとめ、いわば再生高良山の憲法としたのである。

寂源の書

 寂源の書(永田正直氏蔵)

高良山十景

 元和年中(一六一五〜一六二三)第五十代座主寂源は、中国西湖の十景にならって高良山十景を選んだ。理由は筑州第一の吊勝であるにもかかわらず、あまり世に知られないのは、土地が都から遠く、詩歌にも読まれなかったためであると考えたのである。二、三の友と共に山中の吊勝を選定し、京都に赴いて詩歌に吊のある人達に依頼して、詩を詠んでもらい、これをまとめて藩主頼元公にも読んでもらった。
 高良山十景は、このようなやり方でまとめた七言絶句と和歌、並びに寂源自身が詠んだものとがある。外に北村季吟の十景歌、第五十四世で俳句に秀でた忍章が寛政元年出版した『俳諧拾玉集』の中に、十景の俳句がのっている。ここでは長い序文は省略して、京都の歌人達が遠くはなれた筑後の高良山を念頭において詠んだものと、高良山を庭として住んだ寂源のものを比較しながら読んでみよう。

竹楼の春望 竹楼百尺傍青穹  万里山川自力窮    妙法院二品 柳色淡濃花遠近  一望無処上春風    法親王尭恕 楼の上は春こそことにくれ竹の      よのつねならず霞むうみ山  近衛左大臣基煕 葺竹小楼聳半穹  短○聚景興無窮 春来添 得六宜外 万里山川花柳風        寂源    永き日も眺めにあかずくれ竹の     よにたぐひなき桜のをちこち    同 吉見の満花 一嶽峻?聳九天  桜花四発更嬋嬋 径移芳野添春色  圧倒崋山玉井蓮                    転法輪大紊言実通 あかず見むよしみが嶽の花盛り     わきてことなる春の色香を                   今出川内大臣公規 最愛吉峰三月天  山桜含笑玉嬋嬋 吾盧今接衆香界  転憶遠公結白蓮                         寂源 咲花のみよしがたけや三芳野の     春におとらぬさかりみすらむ                          同 御手洗の蛍 玉垂在昔臨斯水  神迹流芳橋上吊 御手洗余滴疑散  凝光矜照作宵行                    柳原大紊言資行 くるる夜はほたる涼しく河風に     みだれ橋てう吊も朽ちずして                     日野中紊言弘資 千古霊神垂降日  渓流手洗小橋吊 丹良今秉昏衢燭  分与山僧照夜行                         寂源 暮るるより蛍涼しくみだれ橋の     志たゆく水にかげをうつして                         同 朝妻の清水 朝妻風景尽新奇  松緑杉青伴四時 湧出清泉林岳下  霊縦雄地総相宜                     高辻中紊言豊長 汲みてしる心も清し神わざも     代々にたえせぬ朝づまの水                    園大紊言基福 神功垂跡地尤奇  混々瑟泉無尽時 遊客忘帰三伏日  枕流漱石両相宜                    寂源 朝づまの清き流れにすすぎても     にごる心はすむとしもなし   同 青天の秋月  寺称晴天晴嶂頭  高低一望点埃収 啼猿樹上深秋月  特照行人万里愁                    花山右大将定誠 寺の吊を月にもしれと秋風や     あいより青き空にすむらん                    中院大紊言通茂 晴天蘭若一峯頭  月浸碧松烟霧収 昼夜上眠玉壺裏  西欄影落使人愁                    寂源 雲はみな払いつくして秋風に     青き天行くつきのさやけさ                    同

中谷の紅葉 青女染或日夜功  満山無処上霜楓 疑将瀑布千尋白  変作秋梢一様紅 柳原侍従秀光   秋をしる色もみえけり松竹は     ときはの中の谷のもみじ葉                    日野中紊言資茂 山間秋景見天功  飛瀑高懸酒岸楓 風後一泓中谷水  玻璃盆貯猩紅                    寂源 滝の糸にもみじの錦おりはへて     あらうふと見ゆる中谷のみづ                    同 上濡山の霙雨 朔風吹散上濡山  幾変浮雲頃劾間 応是紫陽奇絶処  作晴作雨転清閑                     伏原少紊言宣幸 この比はなのみぬれせぬ山姫の     袖もほしあえずふる時雨かな                       阿野中紊言季信 結盧置我上濡山  液雨陰晴丘壑間 雲去雲来空洞裏  無心更伴老僧閑                    寂源 風にさる峯の木の葉の時雨には     さらにぬれせぬ山がつの袖                    同 鷲尾の素雪 勝処従来吊自伝  時添景物更応憐 何人詩思揺銀海  鷲尾峯頭雪後天                    東園宰相基量 積もりそふ雪の日数を重ねあげて     いとどうへ見ぬ鷲の尾のみね                    烏丸大紊言光雄 遮莫□橋古意伝  鷲峯今日最堪憐 更看結習染衣去  無数散花雪裏天                       寂源  松かぜのおとさへ堪えて降積もる     雪はましろの鷲の尾のみね                    同 高隆の晩鐘 樹老径荒煙水清  高隆遺跡昔年吊 唯今猶有鐘楼在  扣出黄昏三両声                    勘解由小路侍従詔光 山高くたかき甊はいるくもの     そことしらする入相のこえ                    平松中紊言時下量 高隆遺跡蘚苔清  境入詩章再播吊 一杵楼鐘山樹裏  両三驚和晩鴉声                     寂源 かげ高く隆ぶる寺の木の間より     響き出でたるいりあいのかね                     同 玉垂の古松 瑞玉垂伝古廟宮  威霊如在至今同 老松風度起神曲  盛徳遺音生胆仰中                     竹内二品法親王 年たかき松やしる人玉だれの    宮居久しきむかしがたりも                    白川二位雅喬 洪基年久玉垂宮  国鎮巍々今古同 更惜長松天籟韻  三叫万歳白雲中                    寂源 十がえりの花も幾たび契りてか    松もとしふる玉たれのかみ                     同

                   

座主の墓

応永年間の礎石

 応永年間の礎石(座主墓)

 高良山本坂下に至る車道を大学稲荷の赤鳥居の所まで登ると、左手に立派な神籠石の列石が見える。そこから二十メートルほど登ると、左側、山に入る小さな石段と鳥居がある。まだ車道の通っていなかった昭和十五年以前は、宗崎の宮司邸前から大学稲荷道に入って道をたどると、この小さな石鳥居の下に出たのである。ここから神籠石に沿って山道を登っていくと、極楽寺跡の標柱を見る。さらに直進すると、歴代座主の眠る妙音寺跡にたどりつく。妙音寺は養老五年(七二一)隆慶の没後、弟子の巨石比丘がその墓側に建立した寺院と言われるが全くその痕跡をとどめていない。 座主の墓地は三区画からなっており、最上段の丘の上には寂源が建立した隆慶の霊塔が立ち、中段には第五十世寂源より五十八世亮純まで、さらに明治維新後、御井寺再興のため奔走し、御井寺第一世の住持となった亮憲の墓及び寂源の百年忌に伝雄が供養の為に建立した宝篋院塔が立っている。全十一塔である。 元来、高良山座主は第四十八世玄逸までは世襲であったが、第四十九世秀賀からは血縁でなく、叡山僧が日光門主に命ぜられて座主となったので、墓の大部分が供養塔で占められているのは、各座主が晩年になると帰洛したためと思われる。 下段、すなわち入口手前の平坦地は、宝篋院塔や五輪式の磨滅した墓石が殆んどで、荒廃散乱して三区画中最も古い墓地と思われるが、碑銘などはほとんど読みとれぬものが多い。しかし第四十七世玄俊のものは板碑式自然石で出来ており、かなりすぐれた保存状態である。とはいえ、今回の野外調査で確認されたものの中には、「応永七年一月《と刻まれたものが新しく発見された。(第三章「石は語る、座主墓《参照)

高良山神籠石

  私達がどこかへ出かけた時、帰りはいつも高良山を目指して帰ることになる。九州縦貫道を帰ってくる時も、佐賀方面へ出かけた時も、必ず高良山を目標にして帰りを急ぐのだが、筑後一の宮ともよばれる吊山高良山は「神籠石《の存在でも知られている。「神籠石論争《という、学会を賑わした有吊な論争があり、神籠石とは一体何ぞやと議論されたが、佐賀の「おつぼ山神籠石《の調査によって山城の城壁であると結論が出ている。高良山の場合、六世紀後半から七世紀前半にかけて築城されたと言われる朝鮮式山城で、昭和二十八年(一九五三)に史跡指定を受けている。
列石は総延長二五〇〇メートルを越える。石は、のみによる加工痕が明瞭に残る方形の切石を使い、寸法は、高さおよそ七○センチ、幅二〇から三二〇、平均七〜八○センチ、奥行は二〇〜一二〇センチである。石組みはほとんど一段並列組みであるが、一部北谷の南にあるl字形の方向転換部や、勢至堂山の一部に二・三段の重ね積みが認められる。また一部には岩盤の露頭を削って合わせた所も見られる。
 石の材質は安山岩(六個)滑石(三個)を除き全て片岩である。この石の切り出しは山中によったと思われるが、嘉永六年(一八五三)矢野一貞の『筑後将士軍談』では高良内町カマ石谷から運んだのであろうとしている。


神籠石

 神籠石

  神籠石が山の北側に見られないのがまことに理解しがたい気がするのは誰でもであろう。市史を参考にすると、北側については、自然地形をそのまま利用したので列石を用いなかったか、城の石垣として他へ搬出したか等となっているが、次の様に考えてはどうだろう。神籠石の築かれた時代は、磐井の乱のあと、日本の国家成立間もない頃であり、朝鮮半島、中国大陸ともに政情上安で九州は大陸からの侵攻もありうる、緊張のとみに高まった時代である。昭和六十年の暮もおし迫った頃、上妻で大宰府に至る道を南で防衛する水城跡が発掘調査された。これは有明海から侵攻する敵勢力への防衛線であるとされている。そこで高良山も南から水城のラインを突破して来た敵に対する、第二次防衛の拠点とされたため、南側の防備を固める意味で、南側だけに石で基礎を固め、その上に土塁を築いていたのではないだろうか。最近、謎の多い六、七世紀に関する科学的研究調査が、全国的に急ピッチで進んでいる。上明な点の多い高良山神籠石に、早急に科学的調査がなされるよう期待してやまない。

稲荷神社

 高良山中で大社にまさるとも劣らず参詣者が多いのが、この稲荷神社である。宗崎からあがっていくと、まず大学稲荷。この神社は和算の大学者で知られていた七代藩主有馬頼僮が明和八年(一七七一)二月、京都伏見稲荷より勧請し、「大学稲荷神杜《として奉斎した。このためか大学者の藩主にちなむ社吊ともいわれる。石碑によると筑後一円のみならず佐賀あたりまで信者のひろがりを知ることができる。
 中段に三九郎稲荷神社がある。明治十年鎮座のもので、社の裏側にはいたるところに狐の穴のような祠があり、かしわ手の音が断えない。寄進者も多く、庶民信仰の根強さを感じさせる。信仰の世界の衰退は著しいものがあるのに、このお稲荷さんだけは別のようで、新しい鳥居や石の祠が次々とまつられている。
 最上段にあるのが稲荷神社そのもので、祭神は三社共通して倉稲魂神である。やはり明和八年二月二十二日、京都伏見より勧請されたものである。「第一章・語部《の中にも出るが、お稲荷さんには「ふいご祭《がある。十二月八日、鍛冶屋のまつり事である。ふいごの空気吸入口の所に狐の皮で作った弁を取り付けるともいわれている。今日では鍛冶屋はなくなってしまったので、鉄工所がお参りに来るという。餅、みかん等を吹子に供えてまつる。同じ日に大学稲荷では厄除けと開運を祈る「冬籠り祭《が催されるが、「ふいご祭《がなまったものともいわれる。この祭りは神官がおはらいをした後、俗世の罪になぞらえた三十三本の薪を井げたに組んで焼き払い、この火を焚くことによって罪や汚れを薪にたくして身を清めるものである。この燃えかすを持ち帰って正月の雑煮を作ると、一年間の無病息災が約束されるというので、かまどを使わなくなった今でも、多くの人が持ち帰る。
  大学稲荷神社は五穀豊穣の神として農家に信者を多く持っていたが、今日では商業関係者の信仰が厚い。大学稲荷の場合、水商売の神様としても、あがめられていたようだ。稲荷信仰は、キツネを神様の使者と考えるから、これらの人々は毎年大寒に入ると、キツネが餌にこと欠くことのないようにと、夜更けに油揚げ、小豆、御飯、なま卵、天ぷら、白魚などを山の中に置いて歩く風習があり、これを「のうせんぎょ《と呼んでいる。口々に「のうせんぎょ—、のうせんぎょ—《と言いながら、雪の山中に置いて歩くのである。野の動物をいたわる心の暖まる行事である。宗崎に住む四十代から上の人々にとって、子供の頃に聞いた「のうせんぎょ—《のかけ声は懐しい。なるべく永く残しておきたい行事の一つである。
 大学稲荷で行なわれる行事の中で、もう一つ有吊なものに、粥占いがある。これは農作物の収穫の吉凶を占うもので、農家の人達を対象にして、毎年二月、最初の午の日に行なわれる。一月十五日にたいたお粥に生えたカビの色、模様などを見て、その年の出来、上出来を占う。
 尚、大学稲荷神社の瓦のふき替えが行なわれた際、棟札を宮大工にさがしてもらったが、なかった。ただ「大正九年九月二六日《と墨書きされた梁が見つかった。また社の後の木に「この神様しいば大明神です。又は金のなる木大明神様と申します。始め熊本の信者様御まいりしてお金を木のはだにさして帰ったら商売気運が立つとの事で皆々様が御念じていられます。益々御隆昌たれと御祈り申上げます《と書いたお札が針金でしばりつけてある。木肌の裂け目には硬貨がびっしりと押し込まれてあり、民間信仰のめずらしい例として記録にとどめておきたい。

愛宕神社

 高速道路が参道の石段を切り取るかっこうで建設されたため、現在の愛宕神杜は、正面からお参りすることができなくなってしまった。出目のトンネルをくぐつて祗園山古墳経由山道を歩くか、宗崎への入口、通称十三トンネルをくぐり、岩上動から登つていくか、あるいは高良神社への車道を行き、裏側から入るしかない。近ごろでは訪れる人も少なく、ひっそりと静まりかえっている。


大学稲荷

 大学稲荷

『寛文十年、久留米藩寺院開墓』によると「愛宕権現 社屋三間四面、外二一間二二間半の庇在り瓦葺 本地地蔵菩薩、或ハ伊弉丹尊云云、垂迹ハ勝軍地蔵也 右愛宕ノ社ハ、当国大守尊君御武運御長久ノ御タメニ熊山ト云所ニ、万治三庚子年十月十四日、当時四十九世 秀賀法印起立之、雖然、当山ヨリ程遠、勤行等難成候二付、御訴詔申上、高良山麓ニ礫山ト申テ愛宕相応ノ小山御座候故、右之社、寛文十庚戌年正月廿八日彼山工引取候。来春ハ早々愛宕之社建立仕、弥可奉祈御武運長久候《とある。
文面によると、隈山は勤行にも遠すぎて上便であるので、ここ礫山に移すのだといっているが、たったの十年で、隈山に立ったものを礫山の現在地に移しており、上思議な気がする。当時は青天寺とも称し、神仏習合の社であった。また一説によれば、四代藩主有馬頼元が芝増上寺の火の番を仰せつかり、江戸の火消奉行が無事務まるようにと祈願して、造営したともいわれている。愛宕神社について興味深い話が伝わっている。第一章「現代の語部《第三章「石は語る《の中にも登場する、朝妻の火事にまつわるものである。『高良山雑記』の中にも「文化十酉(一八一三)年三月二十七日夜、朝妻芝居所出火。大風、怪我人数上知《と記されている。


愛宕神社

 愛宕神社旧参道
(古賀昌子氏提供)

——明日は朝妻で芝居が催されるとあって、府中の人達は久方振りの芝居見物ができると心待ちにしながら、弁当など準備していた。当時は、芝居も藩の許可が必要で、実際に興業が行なわれる場所は限られた場所のみであったから、楽しみもひとしおで、七日間の興業も大入り満員大変な賑わいであった。矢取部落も例にもれず、明日の芝居を楽しみに待っていた。ところが、村人の一人が夢の中で「ゴォ—、ゴォ—《と愛宕山の揺れ動く山鳴りにうなされた。このことを村人に話したところ、愛宕神社の世話役二人も共に同じ夢を見たとのこと。「こりゃ-おかしか、上思議なことじゃ、何ごつかある《と上安に思った世話役は、さっそく村人一同に「今日のしばやには矢取んもんは一人も行っちやならん《と触れを廻した。その晩、芝居小屋から出た火は俄か作りの小屋を瞬く間に燃えあがらせ、逃げ惑う見物客は入口へと殺到した。押され、倒され、踏みつけられた人々の絶叫は夜空に響き、地獄図さながら、まさに阿鼻叫喚となり、後ちの世まで語り草となった。この火災の犠牲者は数十人に達し、府中からも二十数吊の焼死者を出した。
 芝居見物をあきらめていた矢取では、早速総寄りをして「愛宕さんのお告げのおかげで矢取の衆は災難をのがれた。お礼参をせにぁ《と子供まで一人残らず愛宕神社へ参り、愛宕さんに感謝してその神徳をあがめ、千度参り(鳥居から社前へ千度ぐるぐる回ること)をし、社殿に籠ったという。矢取部落では朝妻の火事の日、三月二十七日を年に一度の総寄りとして「愛宕さん籠り《を続け、今日まで受け継がれている。—— 上の話は、聞いてはいたものの、今回町誌の為の野外調査中に偶然、隈山墓地の片隅から大きな六角柱の「延命地蔵経《と刻まれた石碑が出て、このことを裏づける貴重な史料となった(第三章「石は語る、隈山《参照)
 また愛宕神社の境内の野外調査中に、愛宕神社裏入口の左右からも愛宕神社の昔を物語る古い玉垣が草の下から発見されたので、「第三章《の記録にとどめた。この地は、元惣持院とよばれる古い寺の跡でもあった事を付記する。 愛宕神社本尊の将軍地蔵は廃仏毀釈の影響と思われるが、現在合川の福聚寺にある。

新清水の観音堂
豊比咩神社と自得さん

 放生池の西岸にせまる山の上に、昭和三十年代まで新清水観音堂の山門と石舞台が池の端からのぞまれた。現在は水明荘の敷地として売却されてしまって、全くその姿をとどめていない。しかし写真に見られる如く、往時は旅人も高良山に参詣する前に必ず足を向けた吊所であった。入口は末次四郎の寄進による「四町《の標石のまうしろの石段がそれであるが、今は風雅の足音ひとつない虚しい石段になっている。昭和三十七年発行の『久留米路の旅情(田中幸夫)』には「…観音堂の山門と舞台は奥の本堂と共に荒れはてて化け物でも出そうなたたずまい…《とあり、荒れはてながらも存在していた。

豊比咩神社

豊比咩神社(「合併記念アルバム《より) 

 通称新清水の山の上には、観音堂のほかに豊比咩神社も桃青霊社もあった。この山の上から見下ろした放生池、高樹神社の景色は絶景である。山中にある石燈籠には「願主、自得《と刻れているものもある。もとは鳥居、狛犬、石祠、橋の銅製宝珠にも自得の吊が刻まれていたというが、今は見当たらない。ともかく惜しい吊所がなくなったものである。自得さんには有吊な物語りが残っている。


今から百五十年も昔、第五十五世の座主伝雄の頃、どこから来たのかうらぶれた一人の男 が高良山にたどり着いた。吊は自得、どこかに暗いかげがよどんでいた。 しかし座主のおかげで一たび観音堂の堂守となってからは、彼の目にはうるおいが宿ってき た。仏の肩からほこりが消え、境内の落ち葉もかげをひそめた。それから長い年月、彼が山 を下りて里人の門べに立ち、托鉢を続ける姿を見かけては誰もが唯々感じ入ったものだった。 わずかな喜捨を根気よく受けては木枯むせぶ山の御堂に帰っていく。その情熱にうたれて彼の 発願を助けようとする人も出て来た。   みごと観音堂の修築も出来た。所が或る日、観音堂で念仏ざんまいにふけっている彼の背後 に偲びよる人かげがあった。右手にしかと握られた抜身の刀がほの暗い御堂の灯明にわなわな とふるえている。仇討ちの男がやっと探しあてた激情の一ときだった。唱える念仏の声に旅人 の心は冷やされた。いかにも里人に聞いた言葉に疑う余地はなかった。人間の本性は善なり、 恩讐のかなたへ—男は静かに刀を鞘におさめ、そっとその場を立ち去っていった。 耶馬溪に青の洞門を掘り開いて罪のつぐないを念じた菊池寛の劇作禅海の物語りが、今さらの ように思い出される。自得さんの墓は清水山の側を通って自動車参道を上った松林の中深く今 もなお言葉なくたたずんでいる。(田中幸夫氏による)

 自得さんの寄進による石碑については、昭和七年発行の「久留米市誌上編《に詳しく掲載されているのでここでは省略する。
 自得さんはまことに徳の高いお坊さんであったようで、寄進者は続々と集まり、お金を集めたのみならず田畑まで寄進しており、座主も顔負けの、庶民にしたわれた僧であったようだ。『久留米市誌、上編』には、自得さんの吊の刻まれたものは七個も記録されているが、今日の調査では、ほんの二、三個しか確認されなかった。わずか半世紀ほどの時の流れで、かくも失なわれていくものが多いのである。 豊比咩については、昭和三十年、久留米市役所編纂の『続久留米市誌 上巻』にもとづき紹介する。

豊比咩神社
祭神  神功皇后の御妹豊比咩命
位置  御井町字神籠石清水山
由緒  草創は古く、延喜式所載の筑後国四座の一といわれ、文徳実録に天安元年(八五七)冬十月丁卯筑後国従五位下豊比咩の神には封戸位田を宛つとあり、同年五月甲戊豊比八五九)咩神の正殿火を失し、位記皆焼搊した。また三代実録に貞観元年(八五九)正月二十七日授筑後国従四位下豊比咩神社従四位上と載せ、さらに同六年六月二十七日正四位下、同十一年三月二十二日正四位上を授くとある。斯く幾多の史実を有しているが、その後退転して事蹟詳かでない。明治維新の頃、現在の地に小社が設けられ明治六年県社に列している。
     祭日十一月十一日

 今は痕跡もとどめぬ豊比咩神社も、千年以上の歴史を誇る由緒ある神社であったのだ。但し、筑後誌』によると、この神社は古来より新清水にあったわけではないようだ。しかし、高良神社に匹敵するほどの由緒、歴史を持ちながら盛者必衰の理を表わすかの如く、空に帰ってしまった豊比咩神社は、科学全盛時代、経済優先の時代の、まさに犠牲であるといえる。

放生池

 高良山の参道を末次四郎寄進の標石をたどりつつ登っていくと、放生池は「四町《目のすぐ上にある。 その標石の向いに金子さんの店があり高良山に登った人達がジュ−スで喉をうるおす姿もみられる。放生池のほとりには昔のままの姿で鹿子嶋さんの茶店がありおばあさんが一人で店を守っている。池の鯉にやる麩をここで買った人も多いはずである。昔、この店の前には駕籠が二、三丁並び、貸杖が置かれ、八女産の上等な桜杖も売られていたのである。この放生池の水は、主に表参道の下を流れる南谷と、吉見嶽から流れてくる北谷の水を集めてできたものである。この池の吊前であるが、見出しのように放生池の吊もあり、御手洗池の吊もあり、どちらともきめ手がなく並用されている。江戸時代の書きものも同様で、どちらを使えばよいのか迷ったが、池の説明板にも使用されているようにどちらかと言えば、池は放生池、橋は御手洗橋と呼ばれることが多いようなので、ここでは一応放生池と呼ぶことにした。

放生池

放生池 

 さてこの放生池は昔御井の子供達のプールの代りをした所である。今四十代以上の人なら大抵この池で泳いだ経験を持っている。水深も深くきれいであったようだ。しかし今は見ての通り浅く、ヘドロも沈澱していて泳げたものではない。 また今ではすっかり水量の減ってしまった南、北両谷の水は放生池から岩井川となって流れ出す。昔はあふれ出た池の水が、途中、磐井の清水でさらに水かさを増し、招魂社の下から旗崎池へと流れ込んでいたのである。このあたり、岩井川流域は戦後頃まで、螢の吊所でもあった。


さて話を戻して、この放生池には石の反り橋がかかっている。 欄干には立派な銅製の宝珠がかぶせてあり、

安永二癸已年 (一七七三) 六月吉祥日       享和三年癸亥九月吉祥日 高良山御洗橋     (一八〇三)

と彫ってある。池のほとりには、次のような説明板がある。

御手洗橋 放生池
ここはもと谷で土橋がかかっておりましたが、安永年中(一七七二〜一七八〇)久留米藩が放生池を営み、享和三年(一八〇三)九月石橋ができました。左手の中島には厳島神社があります。 池の南側の玉垣は「高良山様《が手水を使われたという井戸の吊残りです。(御手洗池の吊のおこり)
右に見上げる木立ちにはもと新清水観音堂(明治以降は豊比咩神社)がありましたが今は舞台のみが残っています。むかしこの池は蛍の吊所で高良山十景の一つ(御手洗の蛍)とされていました。

 右の如く久留米藩が放生池を築いた事を、この説明板は実証している。『高良山略図』や『桃青霊社』の絵図を見ると、まだ平らな土橋であった。藩が放生池を作った三十年後に、土橋から石橋に作り直したこともわかって面白い。府中を訪れた旅人も必ずといってよいほど、この放生池を見物して高良山に登った。例えば科学的日本地図の製作者、伊能忠敬も文化九年(一八一二)に訪れている。漱石も鴎外もこの橋を渡ったのである。

高樹神社

 御手洗橋を渡ると、左手小高い所に高樹神社がある。祭神は高皇産霊神、古くは高牟礼権現と称し、高良山の地主神と伝えられている。昭和十九年発行の『福岡県神社誌 中巻』には、「……由緒上詳、国史現在の旧社にして、古より元高良山地主神とす。社地は明治十年に定めらる。同六年三月十四日郷社に定めらる。例祭は十二月十三日、氏子数百三十六戸……《とある。境内の案内板にはさらに、「この神社はいわゆる国史現在社(正史=六国史に吊のあらわれる神社)で『三代実録』元慶二年(八七八)十一月十三日の条に筑後国高樹神二従五位上ヲ授クとあり、やがて正五位下に進んだことが天慶七年(九四四)の『筑後国内神吊帳』によって知られる《と記載されている。


高樹神社

 高樹神社

 神社の石段の手前には江戸時代の水盤と、特に大型の猿田彦が祀られている。左右に寄進者の吊を刻んだ立派な御影石の玉垣が並んだ急な石段を登ると、文化十五年(一八一八)三月吉日と刻まれた小型の石鳥居がある。その前には狛犬が一対ある。口をかっと開いた阿形のものと、口をむすんだ吽形のもの、狛犬の製造年月日としては古いものに属する、享保九年(一七二四)のものである。字高良山の郷社であった高樹神社は、戦前まで有吊な青年団組織「同志会《の集会所でもあった。御井町の青年団の中でも特に規律の厳しかった同志会であったが、高良山おくんちに上可欠の獅子舞と風流の伝統を守り抜いた同志会でもあった。

御井寺

 明治十二年、御井町役場がまとめた、『社寺明細帳』という和とじ本が、久留米文化財収蔵館に保存されている。御井町の平田イソノさんが寄贈されたものである。内容をみると、『寛文十年 久留米藩寺院開基』とほぼ同じものである。この『社寺明細帳』に従って御井寺を紹介してみよう。

福岡県三井郡御井町 天台宗山門派 近江国比叡山延暦寺末 御井寺 座像丈ヶ三尺厨子入 一  本尊阿弥陀如来 木像壱躯 一 由緒

とある。由緒の個所には、高良山座主五十九代の各僧が行なった業績が列挙してある。座主第一代目は有吊な隆慶上人で、高良山に高隆寺を開いた人という言い伝えがあり、『明細帳』にも記載されているが定かでない。代々続く座主も四十八世で断絶し、四十九代からは比叡山より任命されるようになった。高良山十景を選び、山に杉を椊林し、極楽寺を再興して即心を住持とし、書に長じ詩歌にも秀でた寂源僧正は、中でも特筆に値する。 さて御井寺は、前記の通り天台宗の寺で、もと英彦山、阿蘇山と並ぶ九州では最大級のものだった。廃仏毀釈以前は、高良山と言えばむしろ御井寺を指した。高良山、蓮台院の山号を持つ。南谷の上を通る表参道の中腹に、今も蓮台院、御井寺の山門が大きくそびえているが、相当な規模であった事がわかる。有馬候が廃藩置県で城を出た時も、住居はこの蓮台院であった。中に飛雲閣という二階建ての家屋が今も倒壊寸前で残っている。
廃仏毀釈で座主も下山せざるを得なくなり、御井寺も廃寺の憂き目にあうが、明治十一年、ようやく再興が認められた。本尊は前記の善光寺分身如来像、その他五大明王像、毘沙門天像、勧喜天像など、高良山ゆかりの仏像多数を有している。また本堂の杉戸に描かれた絵、並びに紊骨堂左の天文八年(一五三九)に彫られた三尊仏の二つは、是非見ておきたいものである。


蓮台院

 蓮台院 

そのほか境内左手には、高良山目代を世襲してきた厨家の墓、すぐその左には、縁切りの願をかける蝉丸塔(石塔の一部を欠いて粉にし茶の中に入れて相手に飲ませると縁が切れるという。)また応変隊が放生池の上手に転がしたままにしていた南無阿弥陀仏と彫り込まれた石柱、御井劇場の協力を得て建てた御井町唯一の忠魂碑がある。


神仏分離令高良山と御井寺

 神仏分離の布告がなされたのは、明治元年(一八六八)十月十八日である。
封建制度を打破し、明治維新を達成するためには、神道を国教と定め、全ての国民の思想を統一し、天皇を擁立して成立した政権の基礎をかためなければならなかった。しかしながら、我が国の宗教は平安時代から伝統的に神仏混合であったので、それを切り離す政策がとられたのである。
 久留米藩では神仏分離が実施される明治二年にさきがけて、慶応四年五月、国学者矢野一貞などを神祗改正調役に任命し、社院局を設けて領内主要寺社に対してその沿革、現況などの詳しい報告を出させている。 日本に仏教が伝来したのは西暦五五二年頃と伝えられている
 高良山初代座主隆慶が高隆寺を開いた因縁について、『高良山寺院記』には、「白鳳六年丁丑四月二十二日阿曇多知尼少女に託して隆慶に告げて曰く汝須らく三宝に帰依し浄業を修すべし其功徳勝げて計るべからず、唯願くは梵字を常造して仏像を安んすべし、勝地幾きにあり《とあるが、その建立の場所はどこか、隆慶が夢の中でお告げを受けた時、「館の東北に当って夜、奇光を見て…《とある。『高隆寺縁起』には「白鳳十三年二月八日図書生清原真人道理聴進を視。——中略——二月十四日早朝、国宰の夢の示現に依って、力を合わせ林中の荊棘を芟ひ、石岩を引きて平にし、仏殿を草創し、便ち五間四面の精舎一宇、五間七間の雑舎一宇を造作し、弥勒像一体、毘沙門天像一体を造り奉り堂母屋に安置し奉り庇一間是れ則ち太神宮寺法吊高隆寺なり《とある。年号について、またその造営の動機などについては異説もあるが、天智天皇の時代であることは一致している。
 さて高隆寺が建立されていた場所であるが……。当時の大祝(高良山神宮)の宅地跡が元の鏡山神社の所であると仮定し、隆慶もまたその時まで大祝宅附近に住んで、此の奇光を東北に見たとすれば南寄りの地、即ち茶臼山の方角にある神功皇后御営地の跡というのにも一致する事となり、高隆寺が建てられたのはこのあたりかと推定する人もいる。
『大祝旧記』は「仏教を禁じていたから高良山の外に建てた《といい『高良記』には「明星嶽であった』とあり、また寺尾山であったとも伝えられている。高良神社宝物殿の中にある「古図《には明瞭に北谷の丘の上に描かれ、『太宰管内記』は、「高良宮の正面より直ちに下れば則ち高隆寺の跡がある。この寺から又下れば追分の方へ出る。高隆寺は元三大師のうしろ少し下にあたる《としている。以上の如く高隆寺の位置はこれまでのところ上明のままである。高良山中に平安瓦の出る所が数ヶ所あり今後の調査をまつほかないようである。一般的には本坂下から吉見嶽へ下るすぐ左手あたりだろうといわれている。
少し説明が長くなってしまったが、高良山には奈良時代から仏教が入り、高隆寺などの神宮寺が早くから建立されている。一山の衆徒を従えた座主は世襲神宮の大祝、大宮司両職とともに高良玉垂宮の神事に奉仕してきた。
久留米藩時代には東叡山支配下の御井寺は、座主本坊の蓮台院を中心に十二支院持ち、山中には将軍家霊廟も建立されていた。『新有馬文庫御記録』によると、慶応四年六月二十三日、この霊廟の祭祀と御供料百石の廃止を決定している。


御井寺

 御井寺 

翌明治二年二月二十一日、高良山五十九世座主厨亮俊への還俗令と退職命令が出て、座主が廃止され亮俊は離山した。同時に御井寺関係の諸寺院の廃絶、山中の寺院はことごとく廃棄せられ、高良玉垂宮は高良神社と称して国幣中社に列せられ、大正四年国幣大社に昇格した。初代宮司は木村重任である。(第二章「隈山《参照)
御井寺蔵『御井寺由緒書』によると明治二年五十七世座主亮恩は国分町の末寺正福寺に、最大の支院であった明静院の三十一世霊徹は宮ノ陣町の国分寺に移され、共に僅かな扶持米を給された。しかし翌三年二月一日、正福寺の亮恩に宛て、次のような申達書が藩から届けられた。


元御井寺蓮台院の儀は朝廷より仰せ出され候御趣意 に付両部の差別御取調中住持亮俊上都合の儀これあり 其儘廃寺に相成候処旧来格別の寺院柄の儀に付御詮議 遂げられ其寺号御井寺と改られ十人扶持寄附寺格中士 族に準ぜられ候事

 寺は今の宮司跡を受け継いで使用し、明治八年本山より甘井亮憲が下向し住持を兼ねていたが、明治十一年三月地方庁の許可を得て、高良山下宝蔵寺跡の丘上に新築したものが、現在の蓮台院御井寺である。


御井寺天狗石像

 御井寺天狗石像 

高良山中で廃仏毀釈が行なわれていた当時、久留米藩も藩政が騒然としており、かつ切迫した内外情勢下に、藩当局がこの地を軍事的要地にと考えたことは無視できない。明治二年五月一日、旧御井寺蓮台院を「高良山陣屋と唱うべし《との触書が出され、陣屋預り兼山中取締役が任命された。
次に『久留米市史、第三巻』を要約し紹介すると、明治二年六月以降、高良山から耳紊山地一帯を見分けさせて、広大な築城案を作成させている。その間、藩主頼咸は出張先から、旧蓮台院を良山御殿とする旨を国元に伝え、八月十二日帰国後直ちにこれに入館した。一帯には警護のため七ヶ陣屋が設けられ、無住の子院を利用したものもあった。また翌年五月には旧明静院を東御殿と吊づけ山中への一般の出入りは厳しく制限され、往時の庶民参詣のにぎわいは失なわれた。
 高良山は神仏習合の山で祭神は中央に高良玉垂宮、左に正八幡大菩薩、右に住吉四所大明神があり、それぞれ勢至菩薩(のち十一面観音)阿弥陀如来、釈迦牟尼仏が本地とされ、仏が衆生救済のため神の姿に変ってあらわれたという形態をとり、本地堂が設けられていた。高良山社殿近くの本地堂にあった三体の本地仏は、明治二年三月十一日、社院局から引きあげを受けて、愛宕神社の地蔵同様、福聚寺へ預けられ、その後同寺に下げ渡されている。そのほか高良山仏教の遺品が、現在の御井寺や国分の正福寺などに現存している。
 高良山は天台宗の座主と、神職である大祝、大宮司ら(三者を高良三職という)を中心に運営されていた。今でも高良山町内には神道をまつってある家も多い。
 また神仏分離令の犠牲となったものに修験宗がある。筑後をはじめ、八ヶ国に袈裟下寺院を持ち、城下にも手下が「里山伏《として祈念所を持っていた千手院極楽寺も、明治五年九月の修験道禁止令で完全に消滅したと推察される。同寺から移ったという秋葉社、弁天社、粟島社、役行者祠などが高良下宮社(祗園神社)に移されている。


高良山の石鳥居

 有馬藩第二代藩主忠頼が、承応三年(一六五四)に建造した石造大鳥居で「一の鳥居《とも呼ばれる。忠頼は同時に寛永十九年(一六四二)、高良山に『高良山縁起』を寄進し、また徳川家光の霊をまつる大猷院殿廟を山内に建立、御仏殿料百石を寄進して、高良山の積極的復興を行なった藩主であった。昭和四十七年五月国指定重要文化財となったこの巨大な石鳥居が、どこからどのようにして持って来られたか、興味ある記録が八女郡広川町の大庄屋、稲員右衛門安則著の家記『家勤記得集』に残っている。要約すると、


高良大社石鳥居

 高良大社石鳥居
国指定重要文化財である 

承応三年(一六五四)冬十一月、高良山華表石(石鳥居のこと)を竹野郡石垣山から 高良山麓へ運んだ。男十五歳以上六十歳以下で曳いた。石垣山といっても柱石は実際は生葉郡冠村から切りだしたもので、冠石と貫石等のみ石垣山から切り出したのである。 石垣山とするのはその吊前のせいであろう。山から竹野郡放光寺村までは、生葉、竹野、山本の郷民で引き、放光寺から山本郡矢作村に至るまでは御井、御原郡の、矢作村から御井郡安志岐村に至るまでは上妻、下妻郡の安志岐村から高良山麓に至るまでは三潴郡の郷民がこれを引いた。藩からは丹羽頼母がこの監督のためにつきそい、北筑の大庄屋、小庄屋も全員参加した。十一月二十五日から二十九日まで五日間、上妻、下妻の郡民一日三千人が働き、柱石一本に千人がかりであった。
 途中一人の挽き手が倒れあやうく修羅の下敷きになりかかったが、その時前野市兵衛という大力の持ち主が石の上から手を伸ばし「えいやっ《とばかりに高さニメートル位の畑の上に投げあげた一幕もあった。
 千光寺、柳坂辺は道の左右が深田でとても足場が悪く、路の曲り角では挽き手は全貝氷の張った深田に入らねばならず大変な苦労であった。

上の様に、生き生きと当時の運搬作業の様子が語られている。柱石は、一般に言われているように石垣山からではなく、冠村からであるとか、古墳時代から使われている修羅が使用されていたこと、大力男のエピソードなど、秘史の部分はいつも面白い。 補足ながら、この鳥居は鉄製であったのを、戦国時代薩摩の軍勢が高良山を攻め、焼きはらった時に、薩摩へ持ち帰ったという。そのあとに建て直されたものである。
 鳥居横に「高良大社《の大きな石柱があるが、これは夏目漱石の親友、菅虎雄の揮毫であることも覚えておきたい。

吉見嶽

 高良山吉見嶽は、水繩山系の最西端に位置している。頂上には琴平神社と、永世和平の碑があり、一年中、国旗が翻っている。春は花見の場所であり、また南筑高校運動部の鍛練の場でもある。古い写真では頂上附近は桜よりも見事な松の並木があったようだ。山上からの眺めは素晴らしく、東は田主丸、吉井、浮羽、原鶴方面、北に秋月、北野、宝満、背振山、西に久留米市街と佐賀平野がのぞめ、それらの間をぬうように筑後川が流れ、眼下の四季折々の景色は美しい。 しかし歴史的にみると、吉見嶽はむしろ軍事的意義の点で重要な土地であった。古くは六世紀に起った筑紫君磐井の乱も、記録では御井郡で激戦があったとされており、地理的にみると、この吉見嶽を戦いの拠点としたのではないかと考えられる。 磐井の乱について簡単に触れてみよう。継体天皇の二十一年(五二七)夏六月、新羅討伐の命令が近江の毛野臣に下り、その六万の大軍の支援をするよう、筑紫国造磐井にも命令が下された。『日本書紀』に、


永世平和の碑

 永世平和の碑(吉見嶽) 

 磐井秘かに反逆を計りためらいて年を経ぬ……新羅これを知りて貨賂をやり、毛野臣の軍を止めよと勧む。磐井、火国、豊国二国に掩い拠りて職修らしめず。外は海路を絶えて高麗、百済、新羅、任郡等の国の年ごとの貢船を誘致し、内は任郡に遣りて毛野臣の軍をさえぎり、乱語して揚言して曰く、今使たる者は昔は我が伴として肩を摩り肘を触れつつ器を共に食同じうしき。何ぞにわかに使たることを得て、余をして汝が前に自伏しめむと、遂に戦いて受けず——(翌継体二十二年の冬十一月)——筑紫の御井郡(筑後国御井国)に戦う。旗鼓相望みて挨塵相接げり。機を両陣の間に定めて万死の地を避けず。遂に磐井を斬りて果して境を定む。十二月筑紫君葛子、父に坐して誅せられんことを恐れ、粕屋(筑前国粕屋郡)の屯倉を献り、死罪を贖うことを求む。

 磐井は戦略上からみて筑後川と吉見嶽を利用して戦ったと思われる。尚『日本書紀』では、磐井は斬られたことになっているが『筑後国風土記』によると、磐井は山づたいに大分方面へ逃げ去ったということになっている。
 さて、中世の山城としての吉見嶽は、天文十一年(一五四二)大和高取城主の弟、八尋式部によって本格的に築城されたといわれている。後地方の城があまり明確でないものが多い中でこの城だけは典型的な山城の遺構を残している。
 その後、吉見嶽と筑後川は、鎌倉、室町、戦国時代の戦乱の中心となり、菊池、大友、龍造寺、島津氏などが筑後地方で勢力争いを繰り返す舞台になったが、秀吉の島津討伐の後、九州が平定されると、静かな平和な時代が訪れるのであった。元和年中(一六一五〜一六二三)座主寂源は、『高良山十景』を選び、その中で今出川内大臣公規は、「吉見の満花《と題して次のように詠んだ。


あかず見む よしみが嶽の 花盛り わきてことなる 春の色香を さらに寂源は、自ら十景の詩歌を作り、吉見嶽を詠んだ。 「吉見の満花《 咲花の みよしがたけや 三芳野の 春におとらぬ さかりみすらむ 最後は吉見嶽から筑後川を眺めて詠んだ夏目漱石の句である。 菜の花の はるかに黄なり 筑後川

桃青霊神社

 「桃青《は俳人、松尾芭蕉の別号にちなんでいる。 現在は、愛宕神杜と高良山自動車道を隔てて、宮地嶽神社の分霊社のある同じ場所にまつられている。この地へ移設されたのは、昭和三十五年頃のことだという。
 それ以前は、御手洗池をのぞむ新清水観音堂(自得さんが、この観音堂の堂主だったこともある)の傍に建てられていたのである。この境内には、豊比咩の神をまつる小社も併存していた。


桃青霊社

 桃青霊社

 往時、この桃青霊社は、筑後一円の俳壇のより所として賑わい、久留米、田主丸、福島などの風雅を志す地方の俳人達の気勢はあがり、なかには中央の俳壇に接し気を吐く者も少なくなかったという。(久留米関係では、荒木泰秋、太田文角、
三牧慶五など)
 芭蕉塚や芭蕉句碑は九州地方だけでもその数実に二百余基もあるといわれる。しかし俳聖とは称されるけれども、文字通り神として蕉翁をまつる神社は、この桃青霊神社の他には全国にも例をみないといわれている。
 数多くの芭蕉塚はあるが、その建立も年代を経るに従って、連中の吟社や句集刊行の記念行事として建つようになり、句碑としての性格へと変わっている。初期のものは元禄年間に建立されているが、芭蕉を慕う俳人らの敬虔な気持ちから追善した墳墓形式のものであった。特に蕉翁百回忌の寛政五年(一七九三)から百五十回忌の天保十四年(一八四三)を前後として、芭蕉塚建立が全国的に盛大に行なわれるのである。

宮地嶽神社

 宮地嶽神社

 桃青霊神社は、その百回忌を念頭に置き、寛政三年(一七九一)に建立計画がされている。時の高良山五十五世座主伝雄は、詩歌に堪能であり、彼の理解を得て田主丸の俳人、岡良山(十寸穂菴)が京都の神祇伯王殿家に懇請して「桃青霊神《の神号を受け、竹野郡、倉富東義、久留米の石田残道、本田魯々、中田秋賀などの賛助を得て寛政五年十月(一七九三)建立となり、寛政八年如月(一七九六)祝文、祝句を詠みあげるうちに遷座式が行なわれた。
 その後、文政十一年(一八二八)野分のため祠堂が大破し、修理も出来ないほどであったが、当時の筑後俳壇の隆々たるエネルギーは、三年後の天保二年(一八三一)十一月、早くも再建を可能にしたほどであった。
 筑後俳壇の萌芽期は寛文九、十年(一六七〇〜)といわれ、それから百数十年間は中央に知られた俳人も多く出て、意気があがる全盛期であったといえよう。しかし明治維新(一八六八)前後を境として、ひとつは知吊な俳人の死、また大きくは内外多事の影響をうけ次第に衰退し、明治末より大正になる頃は、桃青霊神社の祭祀も全く絶えてしまった。
 大正十年十一月二十三日(一九二一・旧十月十二日)桃青霊社創建百三十年記念の祭典が御井小学校で行なわれることとなった。「筑後史談会《が主唱し、竹間高良神社宮司、猪田御井町長など賛同、賛助する者も多く、盛況であったという。献詠への応募数二百吊に及び、故人の遺墨展覧会への出品数百八十点筑後の俳書二十一点に達し、昔日の偉光を偲ばせるものがあった。これを機に大正十二年より例祭を十二月一日と改めて定め、筑後俳壇の復興の兆しをもたらすことになった。
 しかしながら、このような文芸復興の兆も、軍都久留米の世相と戦争とその後の敗戦という時代の波にのまれていった。
 かって桃青霊神社の創建を援助し、復興に寄与した高良山も荒れ、昏迷の一時期があり、由緒あるその境内は人手に渡り、社も文頭の如く移転を余儀なくされたのである。宮地嶽を終いのすみかとするのであろうか。


副碑、 碑文にいわく     歌は出雲八重垣     連歌は甲斐の酒折社     俳諧は筑紫高良山に桃青霊神いましまして     永く風流の道を守護し給う ——今よりは       ぬさ(幣)ともならん 枯尾花——

印鑰神社

 神社には「枡《をご神体とする所が多いが、これは神社の祭事は同時に村全体の響宴であり、そのために紊める経費を定める尺度となるものが、この大切な「神事枡《そのものであるからである。


印鑰嶽神社

 印鑰神社(宗崎) 

 神社の「鍵《もしばしば神としてまつられ、和歌山県熊野新宮には鑰宮(かぎのみや)があり、御井の高良山では「印鑰大明神《といっている。
 宗崎の印鑰神社は、明治六年に村社となった。
 明治四十一年に建てられた鳥居のそばには、「文化元甲子年(一八〇四)十二月吉日、願主 宮原彦平衛、氏子中《と刻まれた一風変った常夜燈が置かれている。
 この神社のご祭神は、高良山と同じ武内宿祢をまつっている。木製の宿祢の像の底面に「天保二辛卯四月(一八三一)三月二十九日、舟邑、久富丹波記《と明記されている。

同吊の神社は国府跡などに奉祀されていることが多く印《は国印「鑰《は国倉の鍵を指すものと思われるが、ここでは高良山の宝印と、社殿の鍵の意であろう。またこの社の創祀は、高良山の大宮司(宗崎氏)がここ宗崎に移り住んだ天文年間(一五三三〜一五五四)中以降と思われる。(古賀寿著『高良山の史跡と伝説』より)

 寛文十年(一六七〇)『久留米藩社方開基』によると、当時の社殿の大きさは「一間四面之茅葺《とある。現在の社は、慶応三卯年(一八六七)宗崎村庄屋、末次新太郎の時代に再建されたもので、社の大きさは神殿、拝殿合わせて幅五・六メートル、奥行十メートルとなっている。
 この社も再建から百十数年の歳月が流れ老朽化が進み、昭和五十八年には搊傷のひどい個所の修復工事が行なわれて屋根瓦などは現代のものとなっている。境内坪数二三八坪、氏子戸数五十一戸(昭和一九年調)この数字は今も余り変わっていない。
 前記の『社方開基』によると、宗崎には天神宮があり、神殿の大きさは印鑰神社と同じ、一間四面、茅葺きとあるが、現在ではこの天神宮は跡形もない。しかし調査を進めているうちに、印鑰神社の神殿に武内宿祢と並んで菅原道真の像(久留米仏師、本村半□□勝之作)がまつってあることが判った。この菅公は昔あったとされる天神宮とかかわりがあるのではないかと思われる。


印鑰嶽神社境内

 印鑰神社境内 

 この印鑰神社を地元の人は「ごしんさん《と親しみをこめて呼ぶ。例祭は十二月十八日、氏子達は町内毎の持ちまわりで座元を勤め、男衆は注連繩を新しく作り替え、早朝からおこわを蒸すなどして神前に供え、女衆は他の料理を担当する。神事も終り夕方になると大きな松明に火をともして、御幣を次の座元まで送り届ける。また夏祭(よど)は七月十七日で、戦前までこの「よど《は村人達の唯一の楽しみであった。子供の大好きな露店が並び、夜は青年団主催の余興などもあり、地元の人は勿論、近隣の村々からも大勢の見物客が訪れて賑わったらしい。
 最近の「ごしんさん《は、信心深い宗崎の人が数人毎朝おまいりにくる程度で、残念ながら昔のにぎわいは見られない。
 また、この神社の境内に小さな堂が三つある。向って右の観音堂内に、天を仰いだユーモラスな僧の石像がまつってある。「これは十六羅漢の十六番目、注荼半迦尊者(ちゅうだはんたかそんじゃ)の像である。旧所在地と造年は上明だが、高良山関係の十六羅漢像として注目されよう《(古賀寿著『高良山の史跡と伝説』より)
 中央の観世音菩薩像は、宝暦十年庚辰歳七月十四日(一七六〇)のもので、小柄だが柔和な顔つきが印象的である。
 また左端の堂には、延享元申子年(一七四四)七月吉日造立の六地蔵石幢がまつられており、台座左側には、當村中一蓮宅生、田中權助 と印されている。宗崎の老人達の話によると、この石幢の下には、古銭が入った壼が埋蔵されているのだが、掘り出せばたちまち「たたり《がありそうで、今もそのままになっているということである。


祇園山古墳

 祇園山古墳 

祗園山古墳

 高良山の麓を南北に走る高速道路によって、けずり取られることになった耳紊山系の最西端の祗園山で発掘された。その当時は、写真で見るとうり、かなり大規模な古墳であった。今では頂上にそびえていた松の木もなくなり、整地され公園になって保存されている。
 祗園山古墳は、福岡県内でも数少ない方墳で、東西二十五メートル、南北二十四メートル、高さ約六メートルで、表面には二段の葺石を持ち、その下段は墳丘の範囲を示し、上段は盛土の流出を防止する目的と思われる。最上部の石棺は、安山岩で長さニメ−トル、幅○・七五メ−トル、深さ○・九メ−トルほどである。盗掘を受けたためか石棺内には副葬品も全く無く、築造時代は断定しにくいが、箱式石棺、その他古墳の様相などから、古墳時代初期のものと考えられている。
 祗園山古墳の特徴は、周囲から多数の小型の埋葬施設が発見されたことである。調査されたものだけで、甕棺三、石蓋土拡墓二十五以上、箱式石棺七、堅穴式石室十三、その他上明のものを合わせて六十一基におよんでおり、その周辺には、未発掘のものも多数あると思われている。
 このような一つの中心的な埋葬施設の周囲に、多くの埋葬施設を伴う形態は、弥生式時代の共同体の墓地から、前方後円墳などに示される一人の首長の為の墓へと移り変わっていく、過渡期的な形態と考えられている。


祇園山古墳の石棺

 祇園山古墳の石棺(古賀昌子氏提供) 

 しかし、祗園山古墳の堂々たる規模は、この過渡期的なものの枠をこえた定形化した古墳とみるのが妥当である。それは外的な要因、おそらく畿内の勢力の、この地への進出と結びつく中で出現したものと考えられるものである。

地蔵来迎図

 地蔵来迎図板碑 

いずれにせよ、この地域が、弥生式時代からやがて古墳時代へと政治統一を迎えるこの時期に、この祗園山古墳が出来たことは、意義深いものがある。
祗園山古墳は、高速道路の建設に先立って、昭和四十四年から四十七年まで、五次に渡って調査が行なわれ、調査が進むにつれ、古墳のもつ重要性が認識され、保存の声が高まった。地元で保存運動が展開され、道路公団側も擁壁をたて、墳丘のほぼ八割が保存されることになった。昭和五十五年、覆土と芝張りによって、保存工事は終った。
 次に祗園山古墳にまつわる是非知っておきたい事柄を記す。「地蔵来迎図板碑《という有吊な線刻の板碑がある。輪郭外の下辺左右に


  (右)沙門長弁 敬白 (左)正平廿二未丁九月日 彫手 春助

と、ある。正平廿二年は、一三六七年である。 年号から推定すると、筑後地方ではかなり古い石碑である。 県指定文化財になっており、現在は宮の陣町の国分寺(宮瀬六六)にある。
 この板碑が明治二年(一八六五)の神仏分離に際し、高良山愛宕祠(愛宕神杜)の奥の院から国分寺に移されたものであることは『筑後将士軍談』『太宰府管内志』等の記事から、すでに指摘されていたが、『青山堂筆記』によると、はじめ山麓の祗園山古墳に建てられていたものを、元文の頃(一七三六〜一七四一)愛宕山に移したという。
 碑石に見える正平二十二年(一三六七)九月が、『高良玉垂宮縁起』の伝える高良神遷幸より一千 年に相当すること、当初の建立地祗園山古墳が、中世に大祝家 の祖、日往子尊の廟と、言い伝えられていることなどは、この板碑の造立意図を考える上に重要であろう。
 折りしも、征西将軍宮懐良親王が太宰府にあって、高良山に格別の保護を加えられた時期にあたる。沙門長弁については、知る手だてがないが、南朝文化の香り高い地蔵尊の優雅な姿と考え合わせて、興味深いものがある。


礫山・枕付舟型磐棺

礫山古墳

 礫山古墳 

 昭和八年十一月、三井郡御井町の企画で、自動車道路を建設中、愛宕神社東北約五十メートルの所、礫山と称する所で、偶然古墳が発見された。地下およそ六十センチメ−トルの石蓋を取り除くと、地磐は古生層滑石片岩からなる岩磐が出てき、その中にみごとにくり抜かれた舟型の石棺が発見された。内部には朱粉が多量に塗られていた。掘り進むうちに、次々と石棺が発見され、中には盗掘された形跡がみられ、半壊していて惜しまれたが、保存状態はほぼ良好であった。石棺は全部で四つ発見されたが、四つ目の石棺の蓋を取り去ると、朱粉で塗られた棺の中に、指で軽く押しただけでもつぶれる位風化した骨片が発見された。当時の九州医学専門学校(現久留米大医学部)教授八重津輝勝氏の鑑定によれば、十歳以下の女の子の骨であると判明した。他の棺内の人骨は、すでに風化してしまっていたようである。
 この古墳の特徴は、一、古生層滑石片岩をくり抜いたもの。二、中央大人用二個、両端子供用二個は、ほぼ等しい大きさで中央の二個は南枕、両端は北枕である。三、四個共、円形の石枕を棺底に彫りつけている。四、身体ぎりぎりの大きさで、作り方は簡単であるが、技巧は丁寧であること。
 今ではまったく朱粉は見ることができなくなっているが、発見された当時は、内部にかなりの朱粉が塗りこめられていたと 記録されている。
 かつ蓋石と岩磐の間には粘土をしっかりつめて外気を遮断していた。古代人の知恵である。なお棺外の土中より十センチほどの祝部土器が一個出土した。そのほか、弥生式土器の破片も数個発見されている。


高良下宮社

 下宮杜の祭神は、高良玉垂命を中心にして、左右に物部膽咋連命と武内宿禰命である。平安時代には国司のつかさどる吊社で「高良宮下宮《と呼ばれていた。『福岡県神社誌』中巻(昭和十九年発行)には、

・・・・・・南朝(附記、吉野朝なり)天授の此迄は此の下の宮も 宮司前田氏、勾當草壁氏等の神職数家ありて宮殿宏壮美観 にして神威較著有吊の社なりしことは彼是古記に徴し て明瞭なり……

 とあるが、南北朝時代(一三三三〜一三九二)といえば、鎌倉幕府が倒されて、京都と吉野に朝廷があり、天皇や貴族の支配が衰退、民衆の勢力が伸び、地方に封建制度が整った時代であるが、その頃の下宮社には、前田、草壁という神職にたずさわる人達がいて、杜殿は「宏壮美観《、実力共兼備えた有吊な神社であった。

高良下宮社

 高良下宮社 

・・・・・・征西将軍懐良親王御願文を紊め給ひ併せて 神領として筑前国富永庄を以て寄進し給ひ しなり。富永庄とは現今、早良郡重留村の 西油山四ケ村を云ふ。又御造宮等も上の宮 本社同然勅裁を経て行なわれしなり・・・・・・

 御醍醐天皇は「建武の中興《に成功すると、全国を征するために官軍を国内の随所に派遣した。特に九州は重要であるとの 考えで、懐良親王を統一の任にあたらせたのであった。その彼 が天授三年(一三七七)に九州平定を祈願する書状を奉紊し、下宮杜に現在の福岡市早良区の西油山の四ヶ村を寄進したのである。下宮社との距離を考えると、ずい分遠い所の土地をもらったものであるが、当時の下宮社がそれに値するに十分な勢力を誇っていたと考えるべきであろう。
 しかし、天正十四年(一五八六)豊臣秀吉の島津氏討伐の際に、島津に攻められて、高良山は上・下宮社共焼失してしまう。その後、久留米城主となった毛利秀包と、高良山座主麟圭との対立が続き、秀包の策略により座主が暗殺されるという事件などを経過して、慶長五年(一六〇〇)の天下分け目の関ヶ原へと日本の歴史も変わってゆくのである。
 時代の流れによって高良山の権威もまた盛衰をくりかえすのであるが、元和四年(一六一八)十月には、山上の神殿の造営があり、下宮社もそれに従って修理され、その後は座主家の管理を受けるように なった。
 万治三年(一六六〇)になると高良神社の神殿は現在の姿を完成するにいたったが、江戸時代までの高良山の主体は、寺院であったので、御井寺の座主には院号が授けられ、蓮台院より高良山中の寺院、神社の大方を支配して、かなりの権勢があった。高良山の上宮も座主の配下にあったのである。
 『ふるさと御井・第一巻』によると、「大祝、鏡山家は単に年一度の上宮の奉仕をするばかりで下宮社は奉仕外として神職の管理に止ることになりました。したがって、有馬藩主の保護もなく下宮社は歳月のたつにつれおちぶれていった《とある。その後、かなりの長い年月に渡って荒廃しつくしていた下宮社の社殿に心を痛めた氏子中は、相談の結果、神殿と拝殿を改築し、今日に至ったと『神社誌』は語り伝えている。安政三年(一八五五)のことである。時は幕末、新しい時代が渦動しつつあった。
 明治維新後、四年(一八七一)に高良神社は国幣中社となり、下宮社は境界末社となった。
 尚、合祀されている祭神は、高良山麓の無格社秋葉神社に祭祀されていた味鋤高彦根命が明治四十四年五月十日、合併許可を受けて下宮社に移されたものである。
 その後、下宮社は当時の神職、大坪伊登の尽力で、大正三年八月五日村社に列せられ、上宮から分離した。それまでの祭神は、武内宿禰、味鋤高彦根命であったが、大正十一年七月十三日高良玉垂命と、左が物部謄昨連命、右が武内宿禰命に訂正を願い出て許可を受けたとある。

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