二、府中駅

宿駅としての府中

 国内が平定されると徳川幕府は寛永十二年(一六三五)に「武家諸法度」を制定し、諸大名に対して参勤交代の制度を定めた。これによって各大名が江戸へ上るための参勤交代路が作られ、宿駅が整備された。そして、人や荷物を運ぶ人足、馬の宿駅間の継ぎ立て、宿泊や休憩のための施設が設けられたのである。
 安永六年(一七七七)の『筑後志』や明治二十八年(一八九五)の『久留米小史』には、次の八ヶ所が藩内の宿駅としてあげられている。それらは、羽犬塚、府中、松崎、本郷、吉井、草野、原古賀、上野町である。(「街道地図」参照)
 宿駅にも一般の町村と同様、庄屋・横目という名称の役人と、往還筋の町並みの世話をする町別当がいて、これら双方が宿駅の行政全般をとりしきっていた。
 この支配下に、実際の業務を取り扱う人馬問屋場があって、問屋役といわれる役人がいたのである。彼らには藩から給米が支給され、例えば幕末期に府中宿問屋役の与三郎、賢次郎の二人に、年間白米十三俵が与えられていた。柳勇著『筑後松崎史』には、府中町の宿場に関する次の様な記録が載せられている。府中の宿場を再現する史料がきわめて少ないので重要なものである。
 久留米藩内宿場相互の連絡のため久留米藩六宿の庄屋と町別当等がしばしばひと所に会して数日間にわたり、業務其の他の打ち合わせを行なった事が、松崎宿の別当、井上家の古文書に残されている。次の記録は当時各宿場から集まった庄屋、町別当、及びその随行者数並びに姓名であり、会合に要した費用明細である。

慶応二卯年正月二十八日より二月二日まで天城屋に於て府中、羽犬塚、吉井、上野町(三潴郡)宮地(宮の陣)松崎等六宿会、諸入用調べ帳

府中宿 喜平 与三郎供 壱人
羽犬塚宿周造 博吾供壱人
上野町宿小右衛門 伊助供壱人
宮地宿太三郎 伊助供壱人
松崎宿忠衛門(庄屋)
謙吾(町別当)
源三郎 嘉次郎

吉井宿の儀病気の為出合不出来候

 とあり、次にこの六宿の庄屋、町別当などの会合費明細が述べられているが明細は省略することとして、面白い記載のいくつかをひろってみることにしよう。

正月二十八日より二月二日迄出合諸入用

一、 四匁但ふとん二十枚二夜分古賀屋行き
一、貳拾四匁九右衛門へ但し料理人壱人正月二十八日より 二月三日迄四日一日六匁づつ
一、貳拾四匁つま、まさ(雇女の名なり) 但し、通い人二人右日数四日一日壱人三匁づつ

貸ふとん、食事代、女中さんへの心付けなど、現代と比較してみると面白い。

宿駅の町並み

宿駅の町並み(松崎)

 現代の我々の生活からは全く想像すらできないことだが、徳川幕府の下では、一般の人々のその領内から外への旅行は勿論のこと、他国からの出入りも厳しく制限を受けていたのである。特別な事情のある場合は、その筋に申請して身分、身許をはっきりと証明した上で旅立たねばならなかった。そのような状況下の時代であったから「街道」や「往還」を利用するためには、専ら諸藩の大名、幕府の役人、寺社関係等の公けの人々はともかく庶民は庄屋や寺などから往来手形を発行してもらってはじめて旅行が出来たのであった。
 そしてそれらの人々が往来する街道に「宿駅」が設置されたことは前にも述べたが、その中でも常に宿泊、休憩の備えがなされていたのは、久留米藩内では松崎、府中、羽犬塚の三宿を中心に特定の個所のみであった。これら宿駅の大名等の宿舎は「御茶屋」とよばれこれを管理し、大名、幕府役人等の接待をするのが「御茶屋守」であった。御茶屋守は藩の郡方より支配され、給米を受け世襲を認められたが、麻峠、小脇差を許されるのは公的な場合で、公務旅行の時のみ苗字、帯刀を許された。府中における「御茶屋守」任命について、『石原家記』によると次の通りである。

 明和六年(一七六九)十一月二十八日府中御茶屋成就 役掛 菅谷忠太夫 江上茂十郎 安武久蔵

 これによって御茶屋の成立、並びにその責任者が判明し、今は全く姿をとどめていない「本陣」の存在が実証されるのである。御茶屋は藩主が領内を視察、巡行する際休息する所として設けられ、その土地の有力者の家などがあてられていた。久留米藩では二代目有馬忠頼の頃にはすでに御茶屋が存在していたようで、貞享四年(一六八七)には府中にも設けられていたと史料にはある。その後、参勤交代で街道を通る大名の宿舎、「本陣」となった御茶屋もある。府中の場合はこれである。
 本陣の起源は、足利義満が上落の際、その宿泊施設を「本陣」と称して宿札を掲げて表示したことに始まるといわれている。

往来手形

往来手形(鶴久次郎氏提供)

 本陣は江戸時代には勅使、公家、大名、旗本等か休むための建物であり、「大名宿」ともよばれている。特に広くて門を構え、玄関をつけ、上段の間を有していた。
 本陣のほかに、脇本陣、相本陣、茶屋本陣などがあり、参勤交代の往復にはその役割を発揮したのである。
 なお、本陣、脇本陣などに諸藩の大名達が宿泊する際には事前に連絡し、その身分によって接待の方法も異なるので本陣側では座敷割りや家来達の旅籠の宿割りをするとともに門札を掲げ、一般の宿泊は差し止めになるのであった。


本陣跡 本陣跡

府中本陣跡(御井小学校)

 府中本陣は、古地図によると御井小学校の正門の坂を登りきったところにあり、宿駅の制度が廃止されると、明治六年清水小学校となった。本陣、あるいは茶屋が学校になった例は羽犬塚にもみられるように他にもある。脇本陣は広手にあった薩摩屋と小松屋がそれであったといわれているが、今回の調査では確認できなかった。府中における本陣は全く消滅してしまったのであろうか。御井小学校の本陣跡とされている所をそのつもりで見直してみると、むくの木の下の井戸や、トーテムポールの立つ付近の植込みの中に、土塀の跡があり、木の根が上に並てあったと思われる瓦をしっかりはさみ込んでいるのである。瓦を調べてみると江戸時代のもののようである。


松崎本陣跡  府中の町並み

松崎の本陣跡

府中の町並み

構え口

「構え口」が設けられたあたり
(矢取り)府中の南北構え口は
矢取りと上町にあった。

 次にこれら宿駅には「構口」が設けられていた。 かめぐちとなまって呼ばれる。松崎には現在も完全にとはいかないまでも南北両構口が残されていて、往時を偲ぶことができるが、他の宿駅には全くその形をとどめないので貴重なものである。府中の場合、「南構口」が矢取に「北構口」が上町にあり『ふるさと御井』によると「南構口は大小さまざまの石を間口二間、奥行三間、高さ七尺に積み上げた上に屋根をふせた番所が明治四十三年まで残っていた」とある。しかし「現代の語部」に記したように、同年南北両構口を解体して祇園さんの石垣にそっくり再利用したのである。


石組展開図

松崎の南構口(坊の津街道を府中より松崎宿に入る)石組展開図

南構え口 北構え口

松崎の南構口(上展開図は
向って左側の石塁である)

松崎の北構え口


高良下宮社

高良下宮社
(祇園神社)石垣

 構口には柵門が取りつけられ、状況によって開閉されていたこともあったようだ。更に構口の内側、宿駅の出入口には防御的役割をもつ「枡形」と呼ばれるl字型の部分がある。府中には見られないが、松崎、羽犬塚と日田街道の山辺道、草野にその枡型が残っている。府中に枡型が設けられなかったのは、かなり古くから町としての形態をなして発展してきたので、新たに道筋を作り変えるのが困難だった為ではあるまいか。一方今日、深道遺蹟の発掘など、 御井町付近の古い遺構の調査解明が進んでいるが、これらから推測される古径は、現在の道とはかなり異なっているとされているので、今後の実証が待たれる。

旅籠屋

 諸藩の大名やその家臣達が本陣、脇本陣などで休息、止宿するのに対して、庶民大衆は「旅籠屋」を利用した。もともと木賃宿の発達したもので、本陣、脇本陣ほど大規模なものは少なかったが、五街道のように人の往来の多い所になると、中には間口四間半、奥行二十二間、畳数五十八畳もあったが今の旅館と違って間取りはかなり単純であったようだ。 旅籠賃は宿で食事を支給するため、木賃(燃料費)に食事代と奉仕料が加算されて今日の旅館と余り変らない。そのため、旅行者は食料を携帯する必要がなく便利であったから、旅籠は木賃宿にかわって次第に宿泊者が多くなった。なお旅籠賃は相対といって、宿泊者と旅籠屋との交渉、相談によって決められるものが多かった。客が泊まると旅籠屋では女中が「濯」を出して客の足を洗い、食事を出し風呂に入れ、客が求めれば酒も出し、寝具を貸した。以上我が国における一般的旅籠について触れたが、府中駅の場合、次のような屋号の旅籠が存在していた。

大坂屋

大坂屋(現、矢取 堤氏宅)

大阪屋――府中の南構口のすぐ外に位置していて、元は「角屋」という旅籠屋であった。堤家の過去帳によると、堤源吉(天保七年六月八日生〜大正十年九月十日没)――堤丑太郎――堤虎治(明治三十三年一月二十一日生〜昭和五十六年十月二十日没)――堤昌信と続いている。 虎治さんは、子供の頃いつも構口の石垣に登って遊んだことを昌信さんに話してきかせてくれていたそうである。江戸の末期、源吉さんの時代に屋号を角屋から、「大阪屋」に変えた。元の建物は萱茸きの屋根で、今のタクシーのように街道筋で活躍した駕籠かきが交代や休憩をする所でもあった。「源じいちゃん」がその元締めをしていたということである。 また、大阪屋の当主が講元となって頼母子講が組織されていたことを示す資料が残されているが、当時あのあたりで大阪屋がいかに人の出入りが多くて賑わっていたかがうかがえる。 大阪屋の旅籠としての様子はどうであっただろうか。八畳が五間、六畳が三間あって、忙しい時には高良内から「おねえさん」が六、七人手伝いに来ていた。薪も高良内の杉谷から購入していた。当然のことながら、おくんちの時は、泊りがけでくる客で賑わい、部屋は満員になり、泊らない参拝者も立ち寄ってかます寿司やうどんを食べていった。「三潴あたりからも大勢の人達が草鞋がけでおくんちのお参りにやってきていたことなど、よくおぼえていますよ」と子供の頃の事を現在の当主昌信氏は話してくれた。


大阪屋から現在、矢取の交叉点になっているあたりまで、落花生屋、ひし屋、下駄屋、しょうけ屋、屋台のうどん屋、大道将棋等の露店がずらりと並び、夜はカーバイトのランプがあかあかとついて、三日間にわたって賑わった。そして采配をふるう親分がいて「地割り」をして店を出す場所を決めていたということである。ところが構口の内側はすでに民家が立ち並んでいたので広手まで露店を出す余地がなかった。大阪屋の泊り客の常連には、中央からきた営林署の役人や、富山の薬売りがいて、薬売りは毎年冬の間大阪屋に長期滞在して商売をしていた。薬を入れた行李を黒いふろしきで包み、背中にしょって近郷近在をまわり、古い薬を新しいものに交換していくのである。 当時、貝の入れものに入ったねりぐすりで火鉢の火等でやわらかくして傷口に入れ、赤く熱した火ばしでジュッとつけるあかぎれの膏薬があった。今回の調査で宿場町を実証する史料が御井町にはほとんど残っていないことが判明したが僅かに府中宿の旅籠として「大阪屋」から当時のものが出てきたので次に掲載しておきたい。

「大阪屋」汁椀入れ(写真下参照) (ふた)四十四年御井町矢取角屋十人前 堤商店 十一月 (右)京形 大極上の丸ぶた 黒八拾椀十人前 坪平附本野地 御古打□ 喜之助 (箱の正面)ヒカシクルメ 田中氏 フルヤキノスケ (左) 久留米 柳屋吉蔵 北八 安政二年(一八五五) 卯十二月求之 「大阪屋」 拾人前お膳 (写真上) (右)溜尺玄會席組付 檜入玄百枚 (裏)武橋徳 (左)明治四十二年旧二月十八日買 御井町 角屋 堤丑太郎

拾人前お膳

拾人前お膳



蛭子屋

蛭子屋看板
(久留米市教育委員会蔵)

姪子屋――  矢取の近藤さんの先祖が経営していた。府中の旅籠では唯一、看板が残っていて、下部が二十センチ位切られているが、昔の様子を偲ぶことができる。この木製の看板(木質も仲々しっかりしている)の残されている部分だけでも縦一メートル横四十五センチ位あり、写真(右)のような文字が彫り込んである。宿帳の一冊も残っていない府中の旅籠にあって、この看板は府中街道の名残りをとどめる貴重な資料である。

日田屋

日田屋


日田屋―― お年寄りの間では今もって屋号「日田屋」で通るのは、中ノ丁東の御船青果店である。当時から建て替えられていないので屋根に昔の面影を見ることができる。旅籠から一時うどん屋になり今日に至っている。







米屋

「米屋」「旭屋」「肥前屋」等が
あった広手の風景


米屋―― 古賀家は元、上町に本家があったが、明治二十二年、武三さん(明治四十二年生)の父末吉さんが十六の年に、二反の田畑と共に売却して、「米屋」を買い取りそのまゝ旅籠を引き継いだ。米屋は商人宿で、おくんちの時はもちろんのこと、八女地方の人達が英彦山詣でをする時には必ず府中で一泊していったから、米屋がその常宿になっていた。また、旅芸人が御井劇場で興業している間は長い逗留だったので旭屋と共同で世話をしたということである。一階は飲食店で、二階に八畳が二間、九畳、六畳、四畳がそれぞれ一間あって、おくんちの時は自転車の預り所にもなった。その後、園芸試験場に宮崎から来ていた学生を二、三人置いたりした時期もあったが、筑後軌道が御井町までのびてくると、停留所の待合所になって、切符売場も設置されていた。祇園さんの裏の杉の大木が枯れた時、生木も一本加えて買い取り、家を建て直したこともあったという。その時の大工の棟梁は江頭さんという人だったと、武三さんは昔語りをしてくれた。

旭 屋――  現在は米屋の駐車場となっている。昭和五十三年春頃まで残っていた。入口のガラス戸に旭屋という大きい文字がうっすらと入っていた。中には土間があっていかにも古い旅籠風のあがりがまちがあったので、おぼえている人も多いのではないだろうか。

肥前屋――  広手、御井町バス停横に「肥前屋食堂」という看板がかかっていた。このほか、脇本陣として小松屋、薩摩屋の名が文献にはみられるのであるが、今その所在地は不明である。

木賃宿

 府中の街道筋、矢取から旗崎池まての間に木賃宿があったという話は聞かないし、資料もみつけられなかったが、山川町に終戦後しばらくの間営業していた木賃宿があったというので調査に出かけた。旗崎池から東にのびた山辺道は、昔、日田街道(豊後街道)と呼ばれていたことは前にのべたが、その山辺道の旗崎池と、追分の中間に、相当老朽化していて目立たないので、うっかり見落しそうな建物がある。表には自然木をそのまゝ利用した柱があり、それが木賃宿らしい面影を偲ばせる。
木賃宿は日本の宿屋の原型である。戦国時代末期から江戸時代慶長頃の庶民は、糒や米、梅干や漬物を携えて旅をした。旅人は百姓家を借り、自分で米を炊き、糒を食べるのに湯を沸かす必要があった。そのための燃料である薪の代金を、「木賃」といったのである。宿を貸した百姓は部屋代をとる代りに木賃をとっていたのである。

木賃宿

木賃宿「日本一」(山辺道)

慶長(一五九六〜一六一四)の初期には、木賃 は人四文、馬八文であったが、自分持ちの薪を出せば人は二文、馬は四文であった。木賃の不便さが次第に改善されたのが「旅籠屋」である。宿賃について資料を調べると次の通りである。寛文三年(一六六三)薪柴とともに銭六文、馬は八文とされ、同五年(一六六五)には、はじめて主人と従者の宿賃が区別されて主人は十六文、従者八文、馬一頭十文と定められた。その後も宿賃はたびたび変わっているが、正徳元年(一七一一)以降は、主人三十五文、従者十七文、馬三十五文となった。主人が従者のほぼ倍額であるのはたとえ木賃といえども両者間に身分のへだたりがあるという考えによるものであり、馬が主人と同額なのは、湯をわかす燃料の使用量が多いからであった。「木賃といえども身分のへだたりが……」等とは、現代では全く通用しない、封建社会の当時ならではのことである。

昔の屋号

 府中は坊の津街道の宿駅の中でも当時としては往来の賑やかな所であった。上町の北構口から矢取の南構口に至るメインストリートはいうまでもなく、そのほかにも各々屋号を持つ店が商いをして、繁盛していたにちがいない。今回、御井町の遺蹟、石碑を調査した際に、何度も「府中○○屋」と刻まれた石を見て、何とか往時の家号を追跡してみたいと思ったが、文献も史料も乏しく、なかなかむずかしかった。今も現存して知られている屋号と、神社の玉垣などにみられる府中の屋号を次に掲載する。

大鍋屋

大鍋屋(下町青柳氏宅)

大鍋屋―― 下町ては最も古い三百年の歴史を誇るといわれる青柳家(屋号「大鍋屋」)にも、家系図、古文書等全く残っていないのは残念である。しかしながら、しっくいの白壁となまこ壁の美しいコントラストで中の構造も古風な建物である。「大鍋屋」という屋号のとおり青柳家は昔、岩井の清水の所にあった鍋工場で鉄鍋を製造していたということである。(この鉄鍋製造所と、磐井川鎔鉄所の関係が実証できるといいのだが)そして大正時代に、五十六連隊へ野菜をおさめる仕事に変わった。青柳さんの家には軍隊へ納入する野菜が集まり、大変な忙しさであったようだ。昔はトラックがなかったので馬車で運んだ。北野からも馬車を雇って運んでもらっていたということである。その後、きな粉、寒ざらし粉製造業に転業した。玄関に入ると土間があって、そのすぐ左手に大きな鉄製の鍋があるが、それは大豆を煎るためのものだったそうである。また大豆やもち米を石臼でひいて粉にするには、石油発動機が使われた。きな粉、寒ざらし粉の販売先は市内、基山、佐賀周辺であった。しかし第二次世界大戦後は、原料の入手が困難となり製粉業も廃業せざるを得なくなった。その後しばらく質屋の看板がかかっていたが、それは終戦後はじめたもので、昭和五十三年にそれもやめて今日に至っている。

琴平神社

琴平神社玉垣(吉見嶽)

口 屋――  高良山では山の樹木を伐採して盗む者を見張る監視人を谷の入口に置いていた。これを「口屋」と呼んでいた。こうした口屋は大正初期頃までは、蔓尾谷、後野谷、竹子谷、井堀谷、大谷、一木谷、鷲尾谷(大学稲荷神杜の下)の七ヶ所に置かれていたことが判っている。今日では温石湯入口後方の後野谷に川口家が残っている。
 府中は古くから街道の要所であったから東西南北に旅する人々の往来はもちろんのこと、おくんちの時といわず普段から、筑後一円の信仰心の厚い人達が高良山へ登っていた。人の集まる所にはさまざまな商いが成り立って盛んになり、町も活気を呈するものである。吉見嶽や祇園さんの玉垣などには「鍋屋」「米屋」など、耳馴れた屋号にお目にかかることができた。文政五年(一八二二)十月には、吉見嶽琴平神社建立に際して、府中の商人がこぞって「石」を寄進している。その玉垣によると、「福嶋屋」「虎屋」「田原屋」「薩摩屋」「萬屋」「木綿屋」「和泉屋」「博多屋」「麓屋」等々。「従神代石運騎寄進」とあるから、山北あたりに注文して筑後川を利用し、神代から吉見嶽まで運びあげたのであろう。また、高良山下宮社(祗園さん)にも「柳川屋」「恵比須屋」「豆腐屋」「八百屋」「風呂屋」等の屋号が玉垣に記されている。同じく「下宮社」上段石垣には「安永八年、寄進者和泉屋利右門」と見られる。先の「和泉屋」の先祖の寄進によるものであろう。高良山の車道を走って、愛宕神社の裏門を入ると、高良山十二院の一ツであった惣持院跡があるが、壊されて埋れていた玉垣を掘り起してみると、「府中町星野屋太次郎」と「萬屋市次郎」があり、さらに表にまわって神社の境内の狛犬は、「米屋」「鰯屋」文政元年の寄進であり、玉垣には、「長崎屋」「橋口屋」「八木屋」「新屋」「角屋」「篭屋」など「弘化二己歳(一八四五)十月吉祥日」とある。「米屋」「鍋屋」が見られたことはいうまでもない。

府中宿場の廃止

 松崎、羽犬塚とともに筑後三駅といわれ、古代から九州の主要街道のひとつだった街道の宿場町として、また高良神社の門前町としても栄えてきた府中は、元和七年(一六二一)有馬氏入国後一層の発展をみることとなった。文化九年の記録によると、「府中町の戸数二百五十三軒、町の面積東西に九町余、南北十八町余」となっている。御井小学校となった御茶屋(本陣)も、明治の中期頃解体され、今ではむくの木の下の井戸の跡だけが当時をしのぶことのできる唯一のものとなっている。府中宿場内では街道図にも示されているように、北から南へ旭屋、角屋、肥前屋、米屋、長崎屋、日田屋、蛭子屋、大阪屋(旧角屋)それに位置が判明していないが薩摩屋と小松屋を加えると旅籠が十軒ある。しかし、明治になって宿駅制度が廃止されることになった当時の記録をみると、次のとうりである。

「慶応四辰年八月 御達書同御請御届書控」 今般奉願久留米藩支配所之内筑後国御井郡府中駅 久留米城下江移道替え儀、別紙図面之通御座候  一、府中駅並久留米城下旅籠屋数左之通   府中駅旅籠屋  拾六軒   久留米城下右同 弐拾四軒 (中略) 右之通久留米表より申越候 此段御届申上候以上 三月      久留米藩  民部省御役所

 慶応四年、即ち明治元年、府中町には旅籠が十六軒あって久留米城下には二十四軒とある。これからみてもやはり府中が街道の中心であったということがよくわかる。この主要宿場町が時代の変化をいかに乗り切っていくかということに関して中央からその後、追跡調査が行なわれる。それに対して次のような返事が府中町旅籠屋から藩郡政方へ提出されている。

 今般当駅御廃し仰せ付けられ候えども私中難渋之筋 無く御座候よって御請書差し上げ申し候 以上  明治三午年四月  府中町旅籠屋 常右衛門  文三郎  良 助  卯 吉  庄 作  国次郎  忠 蔵  弥平次  藤 吉  良 吉  庄 八  又 吉  次 吉  卯三郎  冨 吉  庄兵衛  右之通り相違無く御座候 以上 同町庄屋 喜 平 同町別当 滝三郎 郡政方御役所

 このように十六軒の宿屋全てが時代の変化にうまく対応している様子が述べられている。庄屋の喜平とは府中町最後の庄屋末次喜平であろう。次に同年に書かれた文書の中から新しい時代の波をかぶる府中町の姿をみてみよう。

 府中、羽犬塚旅籠屋運上之儀、是迄六歩高差出し候様仰せ渡され候処、旅籠屋之儀兼て耕作一遍に相掛候得ば、手広き家居にも及ばず是迄旅籠屋余力を以て家居取繕畳替等取り荒さざる様に仕居り候処、一昨年来より泊り込み旅人極々相減じ其上御運上は六歩高と申儀極々難渋之儀歎き出し候につき、去年中諸御家中止宿分取調べ候処、僅之泊込にて難渋之儀に御座候間、右御運上御免仰せ付けられ下され候が、且は泊込之人数に応じ年々運上仕候様御座候はば、至当之筋に相成可申、宣御評議仰せ付けられ下され候様申し上げたく存じあげたてまつり候 以上

御付紙  通行相減候儀は相違之無く、難渋尤に相聞候間 当午年より差し許し候事  府中 松崎 宮地  三宿  午二月  山田新之丞様

 『府中駅御伝馬所御用控』によると税金をこれまでどうり納めることは、駅制度が廃止され客が激減した今ではとうてい不可能で、家の修繕にも畳替えにもことかく毎日です。そこで何とか税金の軽減措置を考慮してもらえるようにと、御井郡出張役場の役人に嘆願書を府中を筆頭に松崎、宮地(現、宮ノ陣)の三宿が名を連ねて窮状を訴えているものである。

恐れながら御歎き申上げ覚

御井郡府中町駅郷廃さる可く候間、難渋御座無候段、請書差し上げ候様仰せ渡され畏れ奉り候。然る処府中町の義 数百年来有り来たり候。駅郷廃され候については右駅に相掛り産業等相立ており候者、さし当たり内は難渋の事情も申出で候えども御趣意申し諭し別紙御請書差し上げ申し候。当町の義人高多く御用地等不足つかまつり候所柄に御座候えば人々家族養育取り続ぎ方専一に心がけ、近村へも下作等相談つかまつらせ、不足に及び外に渡世の道も付き兼ね候えば印棒札(天秤棒に対する税)等追い追い願い申し上ぐべく其節はすみやかに仰せ付けられたく願い上げ奉り候。尤も夫と申し猥りに御願い申し上げ候義には御座無くやはりこれまでの手紙をもって御願い申しあぐべく候間、何分ともよろしく仰せ付けられ下され候よう恐れながら御願い申し上げたく存じあげたてまつり候 以上

 明治三午年 四月廿三日  府中町庄屋  喜平  同町別当  滝三郎  山田新之丞様

 山田新之丞は御井郡十郎丸出張役場の御郡奉行である。右の書状によると、表向きには何とかやっていけますからと強がりを言ってはみたものの府中町は産業といってもとりたててこれといったものはない。宿場としては数百年来の歴史を持っており、宿場とそれに関連した仕事をして生計をたてていた人が多かったに違いない。それが突然すべてなくなるのだから、本当は大変なことだった。宿屋はじめ府中の人々が庄屋の門に不平不満を言ってくるが、なんとか庄屋として教えさとしておりますといっている。もともと府中町という所は人高、つまり人口の多い所であるにもかかわらず田畑は不足している土地柄ですから近郊の村々へも下作へ出かけられないだろうかと相談をしている。そのほか食べていく手段も少ないので、なんとか税金の軽減もよろしくお願いしますと本音をはいている。前の書状の「私中難渋の筋なく御座候……」は、どうやら建前であるようである。新しい時代への対応に苦慮する御井町の姿が浮かび上ってくる。

街道と馬の活躍

 「語部」の中で、上町の「馬宿」について若干触れたが、ここではさらに自動車が走る前まで、いかに馬が重要な役割を演じていたかを考えてみよう。
「長寿会」の取材の折、肥後で馬市が催されると、百頭を越す馬が馬喰にひかれて、府中道を北上していったという話を聞いた。馬喰とは、中国の馬の相を見ることに長じていた「伯楽」という人名に由来する、馬の世話をする者のことだが、この馬喰や乗馬(旅人を乗せる馬)、駄馬(荷物を運ぶ馬)の馬方達が、「馬宿」で休憩していったのである。
かいば桶に口をつっこんで秣を食べている馬の姿と、足を組み煙管で一服する馬方達の姿は、戦後まで御井町でもみられたのである。馬宿がいつ姿を消したのか判らないが、古老の話によると、吉田さんの馬宿には、裏手にわら葺きの馬小屋があって、馬が数頭つながれていたという。しかし今となっては馬宿をさぐる資料も全くない。中の丁の福岡銀行の裏に馬市場があった。そこはもと、府中町庄屋末次家の屋敷跡である。ここでは馬の売買や金抜き(去勢)が行なわれ、活気にあふれていた。馬がいれば鍛冶屋がある。
 御井町内でも宗崎愛宕下の青木さん(「現代の語り部」参照)中ノ丁(現・青柳自動車)等、四軒の鍛冶屋があったという。たずなを左右に引っぱり、馬が動けぬようにして、片足をまげさせ、ひづめに焼けた 蹄鉄を押し当て、釘を打ち込む光景を覚えている人も多い。ふいごで真っ赤に焼けた炭やコークスのにおい、金床とハンマーのひびきは子供を夢中にさせるのに十分だった。

馬の鞍

馬の鞍(上部)

 左の写真は、馬の鞍の一部分であるが、そこについている彫金部分をよく見ると、御幣をかついだ猿の姿がユーモラスに彫金されている。民俗学的に馬を調べてみると、馬は農家にとって貴重な資産であったから、その保護には大変気をつかったに違いない。信仰の力、あるいは呪術の力で、馬を守る努力がなされたのである。
厩祈祷師なるものが馬のいる家を巡回したのはそのせいである。馬の守護には馬頭観音、駒形様、ハマヤドンなど種々の神仏が信仰された。山の神や道祖神との関係も深く、山神祭に馬を引き出す地方や、藁馬を供える所も多い。猿や河童とのつながりも古く厩の守り札に「猿の駒引図」が多いし、中世の絵巻には厩に猿をつないである図柄もある。また河童駒引きの伝説も各地にみられ、駒引銭という呪銭も作られている。
 この意味で写真を見ると、馬の安全を祈って、飼い主がこの鞍を馬につけた気持も伝わってくる。この鞍の類は、筑後一円で広く使われていたはずで、馬の民俗を証明するものとしては興味深い。


神事に馬が関係することも多く、祭りの行列に神馬の加わる例は少なくない。高良神社は五十年毎に大祭を行なうが、昭和十六年四月に大祭を行なっている。その時の十六ミリのフィルムには、馬が多数参加している様子が残っている。馬は神の乗物と考えられており、主に月毛、葦毛の駒が選ばれたらしい。高良山の古記録『高良玉垂宮神秘書同紙背』にも、面白い話が載っている。馬の前で強く柏手を打つ、馬が驚いていななき、馬の向いた方向に恵比寿をまつるという、絵馬の風習も興味をひかれる。ともあれ馬は、信仰の面でも重要な地位を占めていた。


 高良山、愛宕神社にも石像の馬がまつってあるのにお気づきであろうか。露出した大きな岩を利用して、その上に小型の農耕馬の像が、玉垣に囲まれて立っている。その素朴さが何ともいえない。愛宕神杜そのものにも、牛馬安全の祈願をする風習があるようで、高良山愛宕神社もその例外ではないことがわかる。次に、高良神杜にも立派な二頭の馬の銅像が本殿の前に据えられていたことは今は想像もできないが、戦前の写真には残っている。おそらく戦時中に供出させられ、鉄砲や大砲の弾にでもなったのであろうが、残念なことである。表参道の「馬蹄石」も忘れてはならない。この種のくぼみは緑泥片岩にはよくできるものだ。

高良神社

戦前の高良神社(『久留米めぐり』より)

一種の特性であろう。同種のもので比較すると面白いのは、大鳥居の基礎に使用されているのがやはりこれで、こちらは直径の小さなくぼみが無数についている。また下弓削の白楽神社の石段にも、中規模の穴がきれいにいくつもついている。表参道の「馬蹄石」は、形 も大きいので、江戸時代から有名で、玉垣まて作られているから、相当の力の入れようである。「語部」にも書いたが、子供達はお参リの途中、足が早くなりますようにと、その中に足を入れ、またどういうわけか、この穴にたまった水はいぼをとるのに効き目があるということで、汲みに行く人もいたという。

馬蹄石

馬蹄石(高良山参道)

 廃藩置県後、明治になり有馬公が蓮台院飛雲閣にお入りになり、毎日馬でお城まで通勤するようになると、「馬蹄石」は「有馬ん殿さんの馬の足跡」と言われるようになり、伝説がどのようにして出来てくるのか、その過程がわかるようで面白い。 さて以上のように、御井町において、馬が人間の生活に深く関わっていた事に触れたが、次に、街道で活躍した馬の様子はどうであったか、江戸時代までさかのぼってみよう。街道の主要な箇所に宿駅を置く制度を定めて旅行、通信、運送業務が円滑にいくように便宜がはかられた。 宿駅から宿駅へと人と馬が一組になって交替しながら移動して、仕事を続けていくことを、「人馬の継ぎ立て」と呼んだ。幕府によって統一された賃金の規定があり、それによって人馬の継ぎ立てが行なわれるのである。
 つまり公儀役人は、一定数の人足と馬は無賃、諸大名やその家来は、「御定賃銭」といい、定価で支払われた。しかしそのほかの一般の人の場合は「相対賃銭」といい、時価であった。だが通常、相対賃銭は御定賃銭の二倍とされていた。久留米藩の御定賃銭については、記録によると次のようである。

本駄賃――本馬とも称し、一駄に四十貫(百五十キロ) をつけて一里(約四キロメートル)につき 三十二文 半駄賃――軽尻ともいい、普通旅人が乗るが、五貫ま では荷をつけてもよい。乗らなければ二十 貫まで荷をつける。一里につき二十四文 人足賃――五貫まで運ぶ。一里につき十六文 (『久留米市史』)より

 正徳六年(一七一六)御郡方より各宿へ以上のように申し渡されており、文化年間中(一八〇四〜一八一八)も変動はなかった。また近代までは、陸上輸送の多くは馬の背に依存していたし公共、民営を問わず、中世以後輸送は駄馬(荷物運送用馬)の用途が広がった。山の多い我が国にとって、ことに馬の輸送面における利用価値は、高まっていった。一方、農馬はむしろ肥料を採取するのも大きな役割のひとつだったが、もちろん駄用にも供せられた。このように利用範囲が広まると、産馬(馬を飼育し、ふやすこと)や馬市場も発達し、成立してくるようになる。筑後地方は肥後熊本に依存することになる。明治初年以来、日本の馬類はおおよそ百五十万頭前後を保持してきたが、明治二十四年には百万頭ほどになった。このあたりから、人と貨物の輸送、農耕、肥料は急速に馬に頼らなくなっていく。それから後のことはもう語る必要もあるまい。科学が自然を支配していった過程を目撃して育ったのだから。

馬の頭数

馬の頭数(農林省統計)

神代の渡し

 坊の津街道を往来する際、府中宿と松崎宿の間には「神代の渡し」を利用する筑後川越えがあった。参勤交代やその他で、諸藩の大名達が筑後川を渡って府中へ入り、府中を離れていったが、中でも島津、立花藩の藩主が川を渡る時には、藩の御船手から船頭一名、有馬家定紋のある上着をつけた「水主」(船頭)六名が派遣され、晴雨にかかわらず屋根のない「川平田船」(底が浅く平たい船)に、駕籠をそのまま乗せて大名を渡した。その他随行する人々や、荷物については助船を出させ、御井郡鳥巣村(現・北野町)や竹野郡恵利村(現・田主丸町)の船庄屋の指揮で運んだ。しかし、その他の藩に対しては、ずいぶん待遇を落したという記録が残っている。また神代の渡しの船賃は、武士階級以上は渡し料が無賃であるばかりでなく、大名の通行ともなれば近村から助船を出させるというお定めであった。武士以外、町人やその他の人々の渡し賃は相対賃銭(馬の項参照)で、川が穏やかで水位が安定している時も、増水している時も一人荷物とも十五文、馬一匹三十文であった。

神代浮橋の跡

神代浮橋之跡
(『目で見る久留米の歴史』)より

渡しの業務にたずさわる者には藩命により、近郊の村の毎年の年貢の石高に応じて、一定額を渡し賃として授けられ、これを渡し船や渡し守(船頭)の家の修繕費にあてた。神代の渡しに使用した船は、長さ五間五寸(約九メートル)胴幅六尺五寸(約一・九メートル)水主(船頭)一人乗りであった。当時から筑後川はたびたび洪水に見舞われるので、神代の渡しでは水量が定水より一丈(約三メートル)増加すると通船止めとなり、増水が一尺(約三〇センチメートル)引くと、通船明け(解除)となった。「神代の渡し」が薩摩街道(別名坊の津街道)の要所であることは先に述べたが、神代橋のたもとに「史蹟・神代浮橋之跡」の石碑が立っていた。碑文には

文永十一年(一二七四)蒙古軍来襲せし時神代良忠方便を以て日隅薩肥筑諸軍の渡河を容易ならしめし所なり

と刻んである。これについて、現在はないが昭和三年福岡県によって立てられていた標示板には次のように記されていた。

今の神代浮橋の跡

今の「神代の浮橋の跡」の石碑

三井郡神代の渡 高良玉垂宮古文書に博多津に去る文永十一年(一二七四)蒙古軍襲来の時肥後、薩摩、日向、大隅の諸軍勢が馳せ参じる際、筑後川神代浮橋は、水量増加の為くずれて難沚の折柄、神代良忠の働きで諸軍勢がたやすく打渡ることの出来て蒙古を退治し得たるは、偏に高良玉垂宮の神助であるとて感状が渡っておる。さらば此の地は我が国難に際しての史蹟地たること明なり

昭和三年三月 福岡県

現在の筑後川と神代橋

現在の筑後川と神代橋(山川町)


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