十、その他

御井町 久留米合併

 御井町御井小学校校門のなだらかな坂を上ると右手に「御井町久留米市合併記念」と刻まれた記念碑が建っている。久留米市への合併は、昭和十八年十月一日、今から四十二年前のことである。明治の初め、この御井地区は、御井郡府中町と宗崎村、出目村の三ヶ町村からなっていた。明治五年の戸籍編成の時、御井郡を数ヶ町村ごとに、全三十九戸籍区に区分し府中町、宗崎村、出目村の三ヶ町村は第二十九戸籍区になった。明治九年十月四日、筑後地方で推進した町村合併の時、この三ヶ町村が合併して「三井郡御井町」の誕生となったが、これは一戸籍区がそのまま一町村になった例の一つである。明治十一年頃の御井町は戸数四九九戸、人口二三三二人で有力町に属し、明治十七年の、区町村会法l全面改正の際も御井町は一町一役場となり、これは高良内村とともに数少ない例である。明治二十二年の町村制施行による全国的な町村合併が行なわれたときも、御井町は他の町村と合併せず、昭和十八年久留米市と合併するまで一町のみであった。昭和三十一年に発行された合併記念誌、『御井』からその経過を引用すると次のようになる。

  久留米市との合併問題については、既に伊藤五郎町長の時代に取り上げられていたが、当時は町全体の空気が一致せず時期尚早という事で立消えとなった。 しかし、今回は合併気運が日ごとにたかまり、町当局では全町民の意見を無記名投票により合併の賛否を問うたが、その九割八分まで合併に賛成した。

と地元御井町町議会は報告している。
 御井町も明治から昭和十八年頃にかけて大きく変遷する。
   明治維新となって世態は一変し「神仏分離令」により高良山の堂塔も、ことごとく壊わされて国幣中杜、高良神社と改称され、明治九年町制をしいて御井町となり、高良山の影響下で発展した町も、高良山の衰退で、しだいに往年の繁栄にかげりをみせていった。しかし、明治三十八年に電灯がともり、四十年工兵第十八大隊の設置、大正十年には南筑中学校開校、更に昭和三年久大線開通に続いて、五年には上水道浄水池の完成と持設電話が架設され、人口も次第に増加した。上海事変(昭和七年)、日中戦争(昭和十二年)が起り、時局の変化を反映し、高良神社への参拝者も多くなり、多少商業化も進み経済的にも安定していたことが六十九年間一町のみで存続できた理由ではなかろうか。
話題を合併当時に戻してみると、昭和十五年は建国二六〇〇年に当るというので、久留米市は、その記念事業の一環として、三井郡宮の陣村、合川村、山川村、高良内村、上津荒木村、御井町と、三潴郡の荒木村、安武村、大善寺町の九ケ町村合併を考えていた。七月、九代石僑徳次郎市長時代町村合併の調査を始めた。

合併促進目標は

(一) 九ヶ町村をなるべく一斉に合併すること。 (二) 兵営その他の軍施設所在地を市に包括した大軍部都市を建設すること。 (三) 合併地域の農産資源開発や増産を図り、殊に工業用水として筑後川お よび支流の活用を考え、将来大工場誘致による産業振興に力を注ぐこと。 (四) 既存の交通.経済・文化の増進を図り、その恩恵を分かつこと。 (五) 住民の共同福利施設経営の合理化を図り、「住みよい都市」を建設のこと。

しかし三潴郡のほうでは大善寺、安竹村、荒木村に三潴村を加えた四ヵ町村合併の話も数年前からもちあがっており、農村同志という魅力も断ちきれすにいたので、久留米市への合併には気乗りうすで、停滞気味であった。三井郡六ケ町村も久留米が考えているようには熱心ではなかつたが、その中で 御井町のみは積極的に他市町村の合併調査を行ない、野村米次町長をはじめ町会でも審議を進めていた。

合併記念碑

御井町・久留米市合併記念碑

 昭和十六年五月三十一日付の福岡日日新聞では、「御井町合併は快速調」報道され、九州日報も同日.合併問題結着に驀進、九月早々実現か」と報じているが、細部の問題はそう容易にかたづくものではなかった。御井町側の各地の調査では、一般的に市一の合併は税負担が軽減されることや、開発による利点のあることは判ったが、合併に際して有利な条件を持ち出し、市側に実行してもらおうという希望もあり、福岡の箱崎町の調査の例や旧鳥飼村、長門石方面の視察をして研究をした。また一方では若い青年達で作っていた十七日会(有馬頼寧農林大臣の後援団体)などでも御井町を久留米と合併させてこれからどのように発展させるかということについて話し合われた。

 他の市町村の合併の実情を調査研究してみると、双方の立場の違いと、弱小町村のエゴや被害者意識が浮彫りにされていることがわかる。幸い久留市はそれまでの合併町村との条件に誠意を持つて対応していたので交渉は順調に進んだ。
最近発刊された『久留米市史・第三巻』に記録されている、御井町合併の経過を拾いあげてみると、御井町合併交渉担当の第二班は途中市会議員の改選(昭和十七年)で、メンバーの変更も一部あったが、双方の条件を積極的につめていき、交渉を重ねた結果、ようやく努力がみのり、昭和一七年十一月四日意見の一致に到達した。十五日仮契約を取り交わし、翌十八年五月十日に申請手つづきをとり、八月三日、県告示により十一月一日付けで御井町を久留米市に編入することが正式に決定した。同時に予定されていた他の八ケ町村の合併は、すべて戦後に持ちこされて実現することになる。御井町合併条件は、次のとおりであった。(原文のまま)

一、御井町役場は改築の上そのまま存置し、永久に久留米市役所出張所とし必要なる 吏員を常置し、その取扱い事務は法規の許す範囲に於て取扱ひ、住民に不便を感ぜしめざること。

二、御井国民学校は従前通り高等科を併置すること。

三、御井町奨学資金は、別途管理を以て御井町地区に於ける国民学校奨学資金として児童奨学施設の資に充つること。

四、御井町収入役以下吏員全部市吏員に任用し、給料は町支給現額を下らざること。傭人亦同じ。尚、合併後五ヶ年間は勤続せしむること。御井町在職年数は、に於ける勤続年数に通算し吏員にありては、久留米市有給吏員退隠料、退職給与金、死亡給与金及び遺族扶助料条例を、傭人に在りては、久留米市使丁其の他一時給与金規定を適用すること。

五、御井町合川村組合伝染病院事業は、久留米市に於て継承し、伝染病院、火葬場は適当なる修理改造を施し現在のまま存置すること。

六、御井町費を以て補助しつつある各種団体等に対しては、市に於て市の率により補助すること。但し市の団体に統合せらるべきものは此の限にあらず。

七、御井高良山簡易委託林は、合併後も旧御井町の区域内の住民に於て従前の通り運営すること。

八、御井町中央部に、青果共同集荷場を建設すること。

九、 御井町に於いて市街地建築物法の適用を受ける場合は、これを除外せらるるよう、市に於て尽力すること

十 、 高良山、旗崎、宗崎方面に上水道の給水施設(消火栓共)は、出来得る限り速やかに実現すること。

十一、御井町に於ける下部組織は現在のままとし、特別な場合を除く外、各種団体集会の如は元地区内に於て行ふものとすること。

十二、御井町出張所に市内電話を架設すること。

十三、紀元二千六百年記念事業として御井町に於て計画せる土木事業は、市に於て継承完成すること。但し、現下の時局に鑑み、市財政の許す範囲に於て、一方面宛遂次頭書の順位に依り 完成すること。

以下道路新設六項、排水工事四項省略、道路拡張五項、舗装工事二項、排水工事四項省略

と、『市史』には省略されているが、我々御井町民としては、具体的にはどのような条件がなされていたかは知りたいところである。追記して一九五六年発行の『御井』より記述すると次のとうりである。

(一)、道路新設
1、 横町線、横町永福寺前より南へ湯屋の前を源正寺北側に突き当たり、左折東へ県道に 至る。
2、 町裏線 水道浄水池より二本木堀の上を経て、五十二部隊前日出原に出て芋綛榎木畑を通し馬場先に至る
3、 山の手線岩井川水道路より加輪、出目、西井河を経て長畑道路に接続す。
4、 宗崎新線大学稲荷前より、宗崎道路に接続す。
5、 士官学校線山の手線より南進長畑墓地東側を経て一本松の西側を通り若衆塚に出て高良内に至る。
6、林道自動車道路鷲尾附近より寛路を奥院に至り野山道に出て別所から御共水を通り
 
    北井河安在地に至る。
(二) 道路拡張
1、 清水道路ノ一 厨前より出目を経て麓に至る。
2、 麓道路ノニ 高良下宮社前より五十二部隊作業場に至る。
3、 山ノ下道路ノニ 愛宕下より広重に至る。
4、 宗崎道路ノ内 土居内西へ府県道高良山線に至る。
5、 府県道久留米高良山線 瀬戸坂より池の端迄。
(三)補装工事
1、 府県道久留米高良山線千本杉分岐点より広手迄の三六〇間 字麓矢取十字路より      上の丁水道路迄の六〇〇間 暗渠長サニ十間
4、 新設宗崎道路に沿ひ巾員二尺 深二尺の側溝を設置す
右(二)中5及(三)のー・2並(四)中2は何れも府県道なるに付之が実現に付ては市に於て 極力努力すること

と、なっているが、実情はどうであったろうか。その間戦禍は激化の一途をたどり、窮乏生活の中で合併条件を 考えるゆとりも関心もなかったのではないだろうか。今日の時世からみると 決して十分意をつくした条件ではないが、当時としては満足できる条件だったのかもしれない。 合併後の経過は歴史が証明する通りである。

久留米市との合併条件は、後ひとつ続くのである。

十四、住宅建設紀元二千六百年記念事業として御井町に於て計画せる住宅建設は、争速に市が実現を期すること。

以上が御井町と久留米市とが相互に持ち出した合併条件であるが、永い将来の御井町像をよくつかんでいることは確かである。さらに御井町希望条件として、次の六項が久留米市へ出されている。

一、高良神社自動車参道を美化し、文化施設を施すこと。
二、久留米市観光協会の事業として、高良山耳納連山の新コースを計画実現せらるるよう、市に於て尽力すること
三、高良神社境内を神域化し、惟神道場を建設せらるるよう、之が実現に対し市に於て尽力すること。
四、御井町電話は、市内普通区域となすことに双方努力すること。
五、御井町出張所内に、農会出張所を併置すること。
六、高良山登山バス市営を以て優先的に計画運営をなすこと。

また、昭和十七年十一月十五日には仮契約書のJには御井町合併による解散金は、二万六千五百円とす などの項目があったり、合併記念行事「自治功労者慰霊祭」が昭和十八年九月二十日永福寺において挙行されている。 九月二十七日には、国幣大社高良神社以下四神杜に合併報告のため、野村町長、役場吏員、合併委員、

各神社総代参列の下に、それぞれ「奉告祭」が執行されている。 なお、昭和十八年十一月には、御井町合併に伴う増員選挙が行われ、松延磯次、大坪卯一郎両氏が当選した。 久留米市は、御井町の合併によって、面積は二十八.八十五平方キロメートル、戸数一万九百四十一戸、人口九万九七六二人となった。 隣村の高良内、合川、山川が久留米市へ合併するのは、九年後の昭和二十六年四月であった。

農林水産省

野菜試験場久留米支場

軍都久留米周辺にあった杉大な軍の施設は、終戦後一部を住宅とし、大部分は教育関係の施設となり、かっての軍都は、学園都市へと一変する。御井町におかれていた工兵第十八大隊兵営跡は、 久留米大学商学部であり、南隣する広大な練兵場跡は、現在野菜試験場久留米支場である。
 昭和二十二年久留米や九州各県の要望で練兵場跡に農林省九州農業試験場が新設された。 当時我が国の国立農業試験場は、北海道(札幌) 東北(盛岡 関東(鴻ノ巣) 東海(津) 中国(姫路) 四国(善通寺) 九州(羽犬塚) 北陸の八ケ所、園芸部は東北(津軽) 東海近畿(興津)の二ヶ所にあった。
 創設当初は、工兵隊作業場に応急の建物及び宿舎を設けて、国立園芸試験場九州支場として発足し、 昭和二十五年四月、試験研究機関の整備統合により、九州農業試験場園芸部となった。
 はじめは疏菜二研究室で出発し、昭和二十四年に種苗検査室、昭和二十六年に園芸病害虫分至、
さらに農林省佐賀農事改良実験所春日試験場(百合)を統合し、花卉育種研究室、昭和二十七年度には 果樹研究室を設けた。
  昭和三十六年、園芸試験場久留米支場となり、今日に至っている。

野菜試験場久留米支場の概要

野菜試験場

 野菜試験場久留米支場 

現在新しく育成された「とよのか」(農林十五号・昭和五十八年)は大果、整一、美味、芳香の点で特にすぐれ、高品質、多収品種として普及し、八百屋の店先に「とよのか」ばかり並ぶほどの普及率という。
久留米工兵隊の跡碑

 久留米工兵隊跡碑

最後に野菜試験場と商大の間の道を野中方面に行くと、左手の試験場敷地内に大きなコンクリートの壁がある。
町の年寄りはこれは戦時中、落下傘部隊が降下の練習をする台だと言っていたが、野菜試験場で聞いたところによると、
工兵隊の登はん用の施設であったらしい。このほか試験場の小山の中には、赤レンガ造りの中国風の城門や、
防空壕、地下壕、たこつぼがいたるところに掘ってあったらしい。これらは工兵隊の演習場であったことを物語るものである。
またここは、終戦時まで「肉弾三勇士の像」が建てられていたが、とりこわされて、その跡地に「耕心園碑」と 「久留米工兵隊之跡碑」が建てられた。

新時代の到来

 一九八五年の日本の自動車の生産台数は一二二七万台で、今や米国をぬき世界第一の生産国である。我が国で自動車が走りはじめたのは、明治三十年代であった。自動車の出現が、人間の生活様式を大きく変えたことはいうまでもない。

久留米工兵隊の跡碑

 ダットサン

 久留米においては、明治四十四、五年頃つちやたび店と志まやたび店が自動車を購入しているが、当時九州には他に一台もなかったので、久留米での第一号は九州でも第一号の価値ある車であった。両社はこれらの車を宣伝カーとして使用し、自動車による九州一周の宣伝旅行を行った。はじめて自動車を見る各地では「馬のない馬車」と大変な人気であった。つちやたびの宣伝カーはさらに海を越えて当時の朝鮮まで足をのばした。高価な自動車ではあったが、高い広告費も大きな宣伝効果をおさめている。志まやたびの車は、米国製のスチユードベーカーであった。燃料は行く先々の町の薬屋で瓶詰めの揮発油を購入したらしい。 大正七年になると、久留米の自動車台数は、七台になった。その他の諸車代数は、人力車一七〇、自転車一三八一台、荷車二〇一四台、牛車二七台、荷車九八台である。 御井町では昭和十二年伊藤不二男氏が国産のダットサン一号を千九百円で購入した。ダットサン一号車は二年間大事に乗られ、千二百円で売られた。昭和十二年の千円といえば、家一軒が建つ金額である。当時近郷で自動車を所有している人は、伊藤氏の他にはいなかった。現代のように自動車が我がもの顔で所狭しと走っている時代と異なり、高価な品物であったことは確かである。 伊藤氏の話では、当時は今のように自動車学校があるわけでもなく、免許証は県庁へ出かけていって、簡単な手信号ができれば合格して、その場ですぐ手渡されたということである。
 昭和五年十二月の郡内校長視察会の『町勢一覧』によると、御井町の「交通、通信、運搬」の項に次のような調査資料がある。「県道六、鉄道一、町道五四、自動車二、郵便局一、ポストニ、電話三〇、自転車三九六、馬車五、農業用荷車一八八、荷車四五、人力車三。」昭和五年(一九三〇)当時の御井町の人口は二九〇二名、戸数五二七戸、一戸平均五・五人である。 余談ではあるが、『町勢』には時計の保有数の調査があった。当時、時計は貴重品であったとみえて、細かく調べられている。「柱時計三八五、懐中時計一七六、腕時計二八八、置時計二〇八、計五二二」また、新聞、雑誌購読数もある。「新聞一六一、雑誌一一〇」新聞が三・三軒に一紙、雑誌は五軒に一誌。文化的度合を当時の全国平均からみるとどうであったであろう。 話をもとに戻すことにしよう。

ダットサン

 ダットサン1号車
(講談社「歴史と記録の大百科」より)

 自動車以前の代表的な乗物、人力車について触れておかなければならない。 人力車は、筑前国鞍手郡出身の和泉要助が明治二年(一八六九)に発明したものである。そして要助が翌三年三月に高山幸助、鈴木徳三郎と三人共同で東京都の許可を得て開業したのが人力車営業の始めである。人力車はいかにも道路の狭いわが国の考案らしい簡易乗物である。それだけに、人力車はものすごい早さで各地へと普及し、明治五年(一八七二)には早くも久留米に姿をあらわしている。同年八月二十八日の三潴県布告の人力車規則によると、人力車税は免許料五十銭、月々の税金十銭となっている。 当時の最新流行の乗物、人力車の車夫は得意顔で道路を威勢良く走りまわっていたことであろう。その人力車は、昭和二年(一九二七)久留米市内バスが走るまで全盛を誇るのであるが、時代が移ると共に乗合自動車に客をとられてしまい、最高の時は六百台もあったが、昭和八年ごろには百台余りになり、まさに「廃れゆく人力車」になっていった。 筑後軌道が廃止され、御井町ヘバスが運行されてきたのは、昭和三年十二月で、連絡自動車株式会社が京町に設立され、筑後軌道の自動車営業権を譲り受け、市内循環線が開通し久留米より御井町、国分、日田間など、諸線の乗合自動車が営業をはじめた。 昭和四年五月二十一日付の九州日報に「乗合自動車の定期券発売」という次のような記事がある。

 久留米市内循環及久留米より御井町、国分、日田間の乗合自動車株式会社では、二十日より左の如き料金により学生、職工、通勤などの定期乗車券を発売することになった。

 荷馬車も路線自動車の増加とトラックの影響で激減していった。このようにして人、馬による乗り物は衰退の一途をたどったのである。 自動車についていえば、明治二十二、三年頃東京で舶来自転車が流行したことが歴史年表に記されている。当時の自転車は木製の三輪車であった。久留米に自転車が輸入されてきたのは明治二十七年(一八九四)のことである。同三十八年には篠山町山本常寛、京町林田守浩ら同志八人が、共同で貯金をして外国製のストマークを購入し「輪友会」という自転車愛好クラブを作っていた。当時は自転車といえども誰でもが持てるというものではなかった。
 一部の旧藩士、あるいは商店主が利用する程度で、一種の賛沢品であった。明治三十三年久留米市の自転車保有台数は、わずか十三台。その前々年には久留米で自転車店が開業している。 明治四十年当時、英国ハンバー会社製の輸入自転車インペリアル号は、一台百四十円もする高価な品であった。この頃の自転車店は修理部を設け、エナメル塗装なども行なっている。 御井町では高良山の藤崎氏(木屋)がかなり早くから自転車を持っていた。明治十八年生れの御船市作さん(故人)が木屋に勤めていたころ、その自転車に乗っていた。
 その後彼が徴兵されて四十八連隊に入隊すると、連隊には「白いニッケル色」の自転車が一台あったが、それに乗れるのは御船さんだけだったということである。自転車は連隊から旅団司令部までの連絡用のものだった。連絡当番は兵役勤務が二年以上のものと決っていたが、御船さんは初年兵の時から大層重宝がられて班長さんでも乗れなかった「白いニッケル色」の自転車に乗ってさっそうと走っていたので、みんながふりむいてみていたそうである。

 明治新政府が考えた近代事業の一つに、全国的通信網の整備があった。江戸時代の飛脚制度に代って切手を貼って差し出す新式郵便制度が明治四年(一八七一)三月一日から、東京、大阪間およびその沿線に実施された。九州の郵便路線は明治四年十二月、長崎街道沿線に郵便取扱所が開設されたことにはじまる。
 御井町では明治六年(一八七三)に府中郵便取扱所が開かれた。『久留米人物誌』によると、のちに町長をする厨良秀がその初代所長に就任したと記されている。現在の御井町郵便局は、現局長の祖父にあたる末次久五郎氏が府中郵便受取所の主任であった時に「受取所」を「局」に昇格させるために尽力をし、明治三十八年に成功、「郵便局設置」となったのである。久五郎氏はその功績が報われて、初代局長となった。
 「七四〇四六」という数字は、御井町郵便局の県下における「局番号」である。上二桁の「七四」は福岡県の番号、下二桁は開局した順番を示すのである。現在福岡県に約七百局からの郵便局があるなかで、「四六番」は相当早い開局番号である。
 電信電話事務取扱いも明治四十三年には開始された。昭和五年、御井町局区内に特設電話が架設され、四十三名の加入者を得て交換事務を開始した。
当時電話番号を決めるのは加入者が小学校に集って、くじ引きで当った人から好きな番号を取ったということである。ダイヤル式にかわるのは昭和二十八年四月から、電話が御井局から久留米局へ切り替えられたときからである。

 我が国は明治維新によって封建的な鎖国制度が解かれると、西欧の文明が急速に全土を覆いつくしはじめた。「廃藩置県」が実施されると文字どうり各藩の関所は取りはずされ、全国の交通は自由になった。人や物資の往来は繁くなり、交通・輸送・通信の手段も便利になる一方であった。そしてついには現代のような状況へと発展していくなどとは、当時の人々は考えだにしなかったであろう。

御井小学校

御井小学校旧図書館

 御井小学校旧図書館

小学校は高良大社への参道、一の大鳥居の前という、まさしく歴史の町にふさわしい場所に位置している。正門に向って右側、花壇の前にある大きな石碑は、大正十一年十二月に建てられた消防議会記念碑である。ところで「消防議会」とは耳慣れない言葉だが、およそ次のように『久留米市誌・中巻』には説明されている。

消防議会記念碑

 もともと、各地方では火災を防いだり、人命や財産を守ったりするために、自発的に消防組というものがつくられ、無報酬でその仕事が行なわれてきた。久留米市でも明治の中頃から、そのような組織が作られて多少の公費も出されるようになったが、金額は少なく、消防事業の進歩発展を計るのはむずかしかった。そこで、この事業を後援する機関の必要を感じていた。そういう中で大正六年の末頃、北海道で設けられた消防議会の例にならってつくられることになったのが、この久留米の消防議会である。
 その内容は、消防事業の発達、警火思想の普及、組員の功労表彰、組員やその遺族の弔慰などであった。そのために基本金を募り、約八千円を得て大正七年、久留米消防議会は発足した。翌八年には、基本金は二万二千円となり、十三年に同会は財団法人組織にまでなっている。このような時勢の中で、御井町でも消防議会がつくられることになった。この記念碑は、会の創立者名、基本金寄附者名と当時の消防組員名とを記したものである。
 正門を入って短い坂道を運動場にむかって登っていくと、右側のつつじの植え込みの中にも数基の石碑が並んでいる。まず昭和二十七年に運動場の拡張を記念して建てられた碑がある。 次は昭和十八年、御井町が久留米市と合併したことを記念して建てられたものである。石に刻まれた四十名の合併委員の名を読んでいくと、町内で合併議案が可決されるまでになされた数々のやりとりが聞こえてくるようである。

 三番目には、昭和六年から十四年にかけての教育事業費寄附者を記した石碑がたっている。金額は様々だが、児童たちの教育環境を整えるために多くの人達の誠意が寄せられている。中には洋画やラジオ、サイレン、欝登棒、騰写器などの現物寄附もある。しかしながら現在に至るまで御井小学校を支えてきたのは、このような石碑に刻まれた人々の善意はいうにおよばず、形にあらわれないさらに多くの人達の子供を思う気持であろう。
 それからまた数歩進むと、大きなむくの木の根元に「本陣井戸の跡」が残されている。そのそばに「昭和三十一年三月、寄贈・在ブラジル、池田甲木・池田甚吉・中里タマ」とだけ記された四角い石が埋め込まれている。池田甲木氏は明治三十一年生れで、同三十七年から四十三年まで御井尋常小学校、御井尋常高等小学校に在籍している。しかしこれら三名の人達が、どのような事情で何を寄贈して石に刻まれたのか、今は知るすべもない。時の流れがすべてを風化させてしまったのである。

中里タマの石

「在ブラジル 池田甲木、池田甚吾、中里タマ」の石

ところで、御井小学校はその昔御井町が府中とよばれていた時代に、大名行列の際、大名や侍たちが泊る「本陣」あるいは、「御茶屋」と呼ばれる格式ある宿泊所であった。駅の制度が廃止されると同時に必要でなくなった「御茶屋」は、元々大きかったので小学校として復活することになった。当初入口に校門がなかったのてあろうか。近くに住む永田正助氏が快く校門を寄附してくれたのである。その門柱は三年ほど前まで、休養室の裏の雑草の中に永い間、雨風にさらされて横たわっていたが、「郷土の歴史を大切にする」御井校にそぐわないということで、現在の場所に再建されたといういきさつがある。今、校門を入ってすぐ左手に立っている二本の石柱こそ、御井小学校の最初の正門の柱である。
この永田正助氏の長男、正登氏から御井小学校へ寄贈されたものに奉安殿がある。奉安殿というのは、戦争中、天皇の写真(「御真影」という)をまつった建物である。敗戦と同時に壊わされて失くなってしまったが、今の給食室のあたりに弘法山を背にして威風堂々たる奉安殿の写真が、同家のアルバムに残っている。 永田氏の業績で忘れられないものの一つに、いわゆる有明海の「永田開き」がある。

永田開き

篤志家であった永田正助氏の長男として明治十七年に生れた正登氏は、母方は真木和泉守の子菊四郎(慶応元年二月、馬関にて暗殺さる享年二十三歳)の二女であった。正登氏は明善中学校を卒業し、若くして政治を志し、農事振興策に関心を持っていたが、食糧問題の解決策は耕地の拡張以外にないと、一切の公職を投げうって、有明海干拓事業に乗りだした。場所は山門郡大和村中島である。
着工は大正二年五月、以来十年の歳月と当地のお金で五十余万円の私財を投じ、千数百間(約ニキロメートル)の潮止め堤防造成工事の完成をみた。結果は新耕地面六十一町歩余り、米の収穫高は年間千五百石といわれ、のちに農林省より模範干拓地として推奨されるに至った。

御井尋常高等小学校

御井尋常高等小学校

 御井小学校(昭和61年1月)

昭和五年の資料、、郡内校長視察会』によって御井小学校の当時のようすをかいまみることにしよう


町勢など 「往時徳川時代筑後三駅、府中駅ノ有リシ 虞ニシテ當時金融活発ニシテ町民ノ生計 豊ナリシガ、現今ハ其ノ面影モナク、只      三等市街ニシテ他二発展スベキ饒地モナ ク、町内一般豊カナラズ」

このころ、御井町の主要な産物は久留米緋と米であったが、その二品目は、御井町全体の年産額二十三万円余りの半分以上をしめていた。全戸数五二七戸、人口二九〇二人、このうち、御井小の児童数は尋常科女子一八三、男子一八七、計(一〜六年)三七〇及び高等科女子三〇、男子二五、計(一〜二年)五五人。総合計四二五人が学んでいた。これに対し村費歳出額およそ二万のうち、小学校費として八四九二円(四二・六パーセント)があてられていたのである。

校訓

なにごともまじめにせよ 至 誠        礼儀   ぎょうぎよくせよ           自治   じぶんのことはじぶんでせよ           勤倹   しごとをはりこみ、ものをしまつせよ           勇気   げんきよくせよ

職務筬

一、健全なる精神は健全なる身体に宿る。 我等は常に自己身体の健全を図り快活なる心情を以て児童に接触せん 一、愛なき人生は暗黒なり汗なき社会は堕落なり、 我等は常に満腔の愛と畢生の努力とを以て児童教育のために没頭せん 一、児童は我等の鏡なり、 我等は常に自己の人格完成に努め以て児童の活模範たらん 一、児童は我等の生命なり、 我等は常に慰籍と悦楽とをここに求め以て自己の全部を
児童のために捧げん 一、社会は日に新にして又日に日に新なり、 我等は常に向上の一路を辿り修養を重ねん

本校教育の方法

(知育、徳育、体育、美育)

知育の綱領 一、単なる理解に止らず体験を通しての認得に努むること 一、児童の人格個性を尊重し分能的指導に努むること 一、環境を整理し学習活動を旺盛ならしむること 一、児童の心理発達に留意し生活に即したる指導をなすこと 一、児童の自由を尊重し自主的学習に導くと共に反覆練習につとむること 知育施設 教授細目 教授指導案 教材研究 教授時間割と学習経済 特別指導 作業指導 学用品の統一修学旅行 学校園 校外教授 学級文庫 図書館記念講話 掲示教育 学芸会 展覧会 成績考査学習検閲 季節講話休暇生活の指導 徳育綱領 一、道徳的知見、純潔なる情操陶冶をなすと共に強固なる 意志の修練につとむること 一、児童の個性を尊重し自律的に行動せしむること 一、環境を整理して行為の反省をなさしめ道徳的識見を涵養すること 一、教師先づ修養の本義に立ち其模範を示し善良なる感化を与へること 一、特に共同自治の精神を涵養し社会的訓練になれしむること 徳育施設 訓練要目 校訓 朝会 記念講話 神社参拝 訓話 神仏礼拝の実行 戦病死者軍人墓参儀式及会合 慶弔慰問 送迎 自治会 作業 貯金日 善行表彰 児童役員(学団長 学級長 監生 給仕児童) 遠足旅行 運動会 会食 賞罰 諸検閲 個性調査 体育綱領 一、体育に関する理解を得しめ興味を以て保健上の実践につとめしむ 一、児童各自の身体の性質を自覚せしめ合理的に 自愛自強につとめしむること 一、身体の養護につとむると共に適當なる鍛練を施し 堅忍持久の精神を陶冶すること 一、環境を児童体育に便し常に適當なる運動の習慣を養うこと 一、生理的理解を与へ衛生思想を養うこと 体育施設 運動会 遠足旅行 競技会 体育デー 衛生教育身体検査 清潔法 弁当温め 衛生デー トラホーム治療 作業 姿勢矯生頭卦駆除 蛔虫駆除 便所清潔 美育綱領 一、自然美人情美に対する観照態度を涵養し生活感情の純化をはかること 一、美的施設を適當にし環境による審美的情操の陶冶につとむること 一、美的教材に対して其主命沈潜し没入の境地を味得せしむること 一、教師は美に対する理解を有し児童の芸術的情操を助成すること 美育施設 学芸会 展覧会 音楽会 装飾 学校園 遠足旅行  生花 盆栽 絵画 魚禽飼育

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