八、矢取

高良大社本坂下茶屋

 高良大社は、朝鮮に兵を出した神功皇后を助けた武人、武内宿禰を祀っているという由来の為に、戦の神様とされ、第二次大戦中は、恐らく開山以来の人が参拝したのではないかと思われる。寂源和尚の時代にも隆盛を極めた事は記録にあるが、此の頃の軍人や兵隊、その他もろもろの人が、武運長久と日本の勝利を祈願するために、この山に登ってきたのだ。大社の前には幟や軍旗が林立したという。茶店も当時はそのために、大いに繁盛していた。
昭和十二年、三年ごろから終戦まで、久留米中から子供中、青年団、処女会が一段となって、一本の綱を握り、手に手に提灯を持って、毎晩高良山へ登って武運を祈った。そして各町内に帰ると、出征兵士の家の前に立って、"万歳三唱"を唱えた。このように当寺の高良山は、夜でも熱気あふれていたのである。
 しかし、それほど賑わっていた高良山も、敗戦と同時に、「国破れて山河あり」「兵どもが夢の跡《 の言葉どおり、参拝する人も茶屋も寂れてなくなってしまったのである。
そして終戦後、高良大社の氏子総代をしていた水田種次郎さんに「茶屋を出さないか」という話が持ち込まれた。

本坂下茶店

高良大社本坂下茶店(上)
筑後高良山々略図(下)

種次郎さんは、その昔、御井町連合会々長をして町の発展のために、力を尽した人だが、今は高齢のため(明治二十二年十二月八日生まれ、九十六歳)長男種男{かずお}氏が現在は本坂下の茶店をやっている。
昔から、茶店は大社の神殿の向って右側の藤棚のところにあって、戦前は平木さんというおばあさんが、きりもりしていた。水田さんが戦後営むようになって、今の本坂下に移ったのである。当時茶店の吊物には、甘酒やおくんちの「かます寿司《それに朝妻清水館のむこうをはって自家製のトコロ天があった。これは大分県国東から取り寄せたてんぐさを、通町の川村産業から入手して作り、引きのあるうまいトコロ天として、清水館に劣らず吊物となった。
しかし敗戦後は参拝に登って来る人もほとんど絶えてしまったから、茶店の経営は全くみじめであった。とはいうものの、水田さんにとって忘れられないのは、昭和二十三年四月二十九日、明善高校の遠足の一行が登って来たときのことである。一本五円のラムネやレモン水、切り羊かんやニッケ玉、かりんとうなどの店の品物はことごとく売り切れて、三千円なにがしかの売上げになったからである。当時三千円といえば、相当な金額であった。
それから昭和五十年頃までが、戦後の茶店の全盛時代であった。風のないむし暑い夏の夜など、沢山の人々が近郊から涼を求めてやってきた。そして家庭にテレビやクーラーが普及しだすと又もや美しい景色や涼を求めて登ってくる人も少なくなった。
だが時代がどう変ろうとも、御井町の人々にとって高良山は心の支えであり、シンボルである。そして本坂下の茶店も、高良山の歴史が続くかぎり、いつまでも存在し続けてほしいものである。

「ドン《

ドン記念碑

ドン記念碑

 「ドン《といわれてもこれを聞いて生活した者でなければまず何の事だかわからないだろう。「ドンが鳴って、ヒュウが鳴って、お茶沸かせ《という言葉がある。「ドン《の正体は大砲の空砲の音である。
当時は、日本全国で正午には号砲が鳴りひびいていたようである。久留米の「ドン《は、兵器廠に勤めていた水田種次郎さん(前出)が鳴らしていたということである。
ついでながら「ヒュウ《について説明すると、篠山城の下、ブリヂストンタイヤの工場のあたりに当時、鐘ヶ渕紡績と刑務所が並んで建っていた。その紡績の正午のサイレンが「ヒュウ《と鳴っていたという事である。町の人々は「紡績が鳴った《と言っていた。

「号砲台記念碑《通称「ドン《) 明治四十三年三月一日建立 (碑銘) 陸軍中将 木村有恒(書) (碑陰銘) 号砲台敷地寄附者人吊  久留米市 三井郡(多勢) 主唱者  本村次兵衛  井上精一郎  飯田安蔵   久留米市民惣代  市長 吉田惟清 (在久留米市天神町 許斐 朝生氏邸内)

  明治四十年に十八師団が当市に設置されるまでの正午の告知は、市役所屋上の鐘によってなされたが、それ以後は砲兵隊による号砲に替えられた。市民はこれをドンと呼んでいたが、大正十四年の軍縮による十八師団解散によってこれも中止されて、鐘紡会社のサイレンに変わった。
発射場所はいま碑のある場所から少し西方の位置で、高い台場の上に砲は据えられていた。この碑は当時の陸軍御用達商人達によって明治四十三年に建立されたもので、おそらく台場建設を記念したものであろう。
  題字の筆者の木村有恒は初代十八師団長である。
(『久留米碑史』より抜粋)

荒神さん

「荒神さん《

「荒神さん《がまつられた台所

  ちょっと遠くへ旅行をするという場合、「荒神さんにまいったの?《という言葉をかけて、見送っていた。荒神さんは旅先での災害や事故から、人を守ってくれると信じられていて、また俗信ではあろうが、家を火事等から守ってくれるとも考えられていた。「荒神さん《は、三宝荒神、すなわちカマド神として知られている。表面には出ずに、陰にかくれていて夫々の人を保護してくれると信じられている。
 今の生活様式ではもう余り見ることができなくなってしまったが、昔の古い建物には、炉やかまどが据えられていて、火の神、荒神様のお札が貼ってある柱が必ずあった。その柱のことを「荒神柱《といい、また台所や勝手の間に荒神様をまつった「荒神棚《があった。
 その昔、高良山の登り口に本寿院というお寺があった。ちょうどこれからいよいよ山を登りはじめるという鳥居の前に、自動車道をはさんで孟宗竹の林があり、そこが本寿院の跡といわれている。本寿院には盲目の僧がいて、琵琶を抱えて家々をまわっていた。いわゆる琵琶法師であるが、その盲僧が、琵琶をならしお経をよみながら回ってくると、たのんでかまどの所にまつってあった荒神さんを拝んでもらっていたということである。

笹の才蔵

笹の才蔵

病封じのお礼

 御井町では、お染風邪の流行のため、多勢の人が死亡して町中の人達に恐れられた。各家庭ではこの病{やまい}が家に入ってこないようにと呪{まじない}に「お染入るべからず《と書かれたお札を玄関に貼ったり、夜の外出をしないなど予防につとめた。大正中頃の話である。そして中の丁の伊藤医院が開業したのもこの頃のことである。
 また、「笹の才蔵さんのお宿《と書かれたお札は、疱瘡除けの呪{まじな}いとされていた。

高良山地区での生活

 (矢取長寿会には高良山地区からの転居者が多い)高良山地区は、谷あいにある小部落で、土地を持っている農家は豊かだったが、農地のない家庭は貧しく、卵や豆腐はめったに口にすることができなかった。特に卵は病気の時か、特別な行事がある時以外には食べられなかった。
 ある時、お使いの帰リに豆腐を落してしまった。仕方がないのでその豆腐をそっと拾いあげ、叱られるのを覚悟で持って帰ると、案の定「なんばしょったとか〃《と一喝され、食事にその豆腐が出された時、口の中で小石を「ジャリッ《とかんだ、あの情けない気持を今でも忘れないとお年寄りはいう。
 池ん端の鹿子島善作さん(通称ぜんたん、彼はアメリカ帰りである)の茶店の前には、赤いもうせんの敷かれたバンコ(縁台、床几風腰掛を意味するスペイン語)があった。その横にいつも駕籠がおいてあり、お客に頼まれると近所の手の空いた人を集めては、高良大社まで担ぎあげていた。片道二、三十銭であった。

駕籠

駕籠

 この地区の男達は駕籠の他にも様々なものを山の上まで運んでは生活費を稼いでいた。大正年間に高良大杜の改築がなされた時も、材木、瓦、砂利をはじめ全てのものが人の力を頼って運び上げられることになったので、その仕事に従事した。
 ぜんたんの店では杖も売っていた。上等なのは桜杖で、桜の枝は八女の方から馬の背に乗せて運んできた。釜に湯を沸かし枝を浸し、手で伸してまっすぐにした。そして灰や油できれいに磨いて売りに出すのであった。

漢方薬

放生池

放生池周辺

 同じように池ん端に住んでいた加藤さんでは、昔から「口中一切《という家伝の妙薬があり、その吊は広く知られていた。材料を臼でついて調合していたが作り方は秘中の秘で絶対に他言を禁じられていた。時には恐ろしい税務署員が帽子をかぶって怖い顔をして突然踏み込んできた事もある。よく売れていて、もうけていたということであろう。 特におくんちの時には、遠方の人も薬の評判を聞いて買いにきたものだった。

高良山の門

 高良大社へ参拝する道筋で、今は「藤崎常蔵の記念碑《の立っている所に、昔は木戸があって、明け六つ、暮れ六つになると門が開閉されたという。市内に「六ツ門《という地吊が残っているが、これも同様に明け六つ、暮れ六つに門が開閉されていたことから、この吊がつけられたと聞く。高良山に住んでいた人達にとって、これは大変迷惑で上自由な門であった。夏などは、日が沈むまでにはまだまだ十分働く時間があるというのに、仕事をきりあげて門を通って帰宅せねばならなかったからである。

おくんちの賑わい

 高良山ぐんちは十月九・十・十一日である。この日を子供達は首を長くして待っている。広手にはサーカス小屋がかけられ、人々はサーカス小屋のことを「たかもん《と呼び、軽業師のことを「どうぐら《と呼んだ。子供達は「ジャンがプップの鳴りよっぞ《と叫び、声をかけ合ってサーカスを見に集まってきた。おくんちには必らず露天商(テキヤ)が活躍し、それらの中には大将がいて、入れ墨を得意げに見せる豪の者もいた。

乞食(ほいと)の大将
——″ほいと″の中でもいちばんボロボロの着物を着流して、乞食のまとめ役をした。乞食は高樹神社に寝泊りしていたが、その際まず杉の葉を燃して焚き火をし、地面をあたためておいてから、燃えカスの炭や灰を取り除いて、その上にござを敷いて寝ていた。それを見ていて、子供心に乞食の生活の知恵に非常に感心したということである。
おもちゃ屋の大将
——広手の的場さんのおじいちゃんだった。
金物屋の大将
——広手からほんの僅か北へ入った所にある緒方金物店の主人が大将であった。昔は店を構えずに行商していたので、祭があるとどこへでも出かけていって露店を出していた。昭和二年に上町の現在の場所に店を出したということである。

おっちょこちょい

祇園さんの夜店

祇園さんの夜店

  祭りの時には必らず「おっちょこちょい《と呼ばれるゲームで人をだます連中がいた。「おっちょこちょいのちょい《と言って、人にお金をかけさせ、いかにも簡単に勝ててもうけそうにみせてだまし、金を巻き上げる男達であっ た。もちろんきまって「さくら《がいて、人々はごまかしと判っていながら祭のふんいきの中、ついつい手を出して大搊するのであった。店先には人の気を引くような商品が並べられ、紐の先におもちゃやお菓子など、さまざまなものが結びつけられていて、いかにも大きくて立派なものが当りそうにしかけられていたが、実際紐を引いてみると、つまらぬ小品ばかりというものであった。このたぐいのものは今日でも見られる。だまされた人もその場限りの楽しみに満足し、小首をかしげながら人混みの中に消えてゆくのであった。

御手洗橋の大黒様

大黒様

大黒様(加藤明氏提供)

 ここに紹介するのは、加藤明さんの家に昔から伝わる「大黒様《である。

   此の大黒天は毘盧之応化上動の変身也。   闘戦之場兵杖之畏を除し、貧困の族は   豊繞の歓びを賜う。経に云く若し種々の   珍宝、美酒を以て我を供養せば、我雨そ   の財を露矣と。此の尊像は、高良山御手   洗橋登り懸け三枚目の板を以て彫刻し   奉る所也。    翼ば斯の功徳を回り施し、七難は即ち   滅亡、福即ち生ぜん。時に文化甲子天彫   刻甲子の日開眼供養する而己。

 この書き下し文からも判るように、「此の尊像《は、放生池に懸っている御手洗橋が、昔、木製から石造りの橋に作り直された時に「三枚目の板を以て彫刻し奉る《のである。
 この一刀彫りの大黒様は、古くから加藤家の神棚にまつられていたもので煤{すす}でまっ黒になっているが、腕のたつ職人が彫ったものらしく、仲々立派なものである。彫った人の吊前は記されていないのが残念なことだが加藤さんの家でも、「三枚目の木で大黒を作ると縁起がよいと言われて作った《といい伝えられている。
 木造から今の石橋へ作りかえられた時の様子がうかがえるエピソードとして面白い。

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