七、宗崎

宗崎の地主

 明治初期に宗崎の土地の大部分を所有していた、いわゆる地主と呼ばれる人達は、柘植善吾を中心にした吉村、草野、元田、平塚の五名であった。若くして歴史の過渡期を担う第一人者と、藩内ではその実力を認められていた彼らが、晩年どのような理由で宗崎に引きこもったかという過程をたどってゆけば、当時の中央の政権のありようにまで言及しなければならないであろうが、ここでは名誉町長として御井町の発展に尽力した「柘植善吾」に関して取材した事とあわせて資料よりまとめることにした。
柘植善吾は天保十三年(一八四二)久留米藩士の子として、日吉町に生まれた。文久三年(一八六三)英語研究の為、長崎に遊学、その後藩命により慶応三年(一八六七)二十五歳で米国ボストンヘ渡った。海外へ出ることがまだ許されていない時代であったにも拘らずチョンマゲを切り、着なれない洋服を身につけて、期待と不安を胸に密航したのである。しかしながら、帰国後の柘植青年に対する明治維新後の国内の混乱の中今だ動揺のおさまらない藩内の人々の理解は必ずしも十分ではなかった。幕末から明治にかけて、歴史が移り変わってゆく狭間の苦しみを日本全国のどの藩においても迎えていた。久留米藩においても同様で、いくつかの歴史的事件が起こっている。
さて、善吾は明治四年、明善堂に併置された英学所(日新館、後に洋学校と称した)の校長、翌五年に大善寺に設立された三潴県立宮本中学校(洋学校とも英語学校ともいわれた)の校長に任命された。
前段が長くなったが、その柘植善吾が、日吉町から御井町宗崎へ移って来たのは、宮本洋学校が廃止された明治七年であった。(日吉町の柘植家の敷地であった所は、現在日吉小学校となっている)

宗崎の全景

宗崎の全景

 その後二十年間は東京・福井等で要職についたが、明治三十二年再び宗崎に帰って、農地を耕し、村民を指導したのである。財布の中から適宜五銭抜いて貯える「五銭抜き」をすすめ、これからは農家も経済力をつけなければいけないと説いた。宗崎ではかなり長くこれが続けられたが、この話をしてくれた高田治吉さんが十六、七歳の頃中止されて、貯えたお金は各家庭に分配されたということである。米国で民主的な政治、近代の経済と農業を垣間見てきた柘植善吾が、三代目町長時代(明治三十五年三月就任)、御井町においてその実力を発揮し、町政に反映させたであろうことは、容易に想像できることである。
また柘植と志を同じくし、宗崎に移り住み、後進の指導にあたった地主達の内、元田家には、立教大学々長を務めた元田作之進がいる。彼も若い頃から秀才の誉高く、弱冠十六歳で山川小学校の教師となる。その後大阪へ出、米国に留学し、帰国後、立教大学々長として教育界にたずさわった。

宗崎の講

 高良山地区においても今なお講の集まりが実施されていることに触れたが、ここ宗崎における講には、次のようなものがあった。

一、お観音講
毎月十七日に行なわれ、講元といって講の世話をするのは「取った者回し」といって、前回のくじで当った者が世話をした。
二、社日祭りの講
一人が二銭五厘五毛出しをして講を形成していた。
三、きたしゃん講
これは全く私的な講で、神仏とは無関係で、金融を目的としたものであった。
講の道具

講の道具

―― 講 ――

 講とは、もともと仏教の経典を講説することで、講経の集会(法会)の呼び名として用いられてきたが、やがてそうした集会に関係する仲間をさすようになり、ひいては同じ信仰にむすばれる人々の集まりを広くいうことに転じた。さらには単に、同志の団体を意味するに過ぎない程、広い意味を持つこともある。
 こうした講の行事では、信仰中心の参詣祈願が第一となった。しかし、毎年全員が参詣することは無理なので、講員が輪番で代表として参詣し、その費用は全員の負担とし、講金といって、一定の割当額を均等に出し合い、社寺への納金と旅費を支弁し、護符を頒け合う仕組みをとる。こうした代参制度は、信仰心を満たすばかりでなく、旅に出て世間を知る絶好の機会であったので、広く普及した。
 代参人の出発や帰村の際には、「講の集まり」が行なわれ、一緒に飲食した。また時にはこれらの講で、信仰する神仏の分霊を勧請して小祠や石碑を建てたり、あるいは神像、神号をうけて直接の信仰対象とすることもあった。そして代参人の帰村の際にそれらを祭り、あるいは別の縁日にその祭祀を行なった。

頼母子講

 頼母子講の通帳

中には代参制が廃絶して、これら小祠の祭祀が講の中心行事として残ったものもあった。
 代参制では、参詣祈願の費用を共同で負担することが大きな問題となった。そこに講日ごとの拠出金や積立金の仕組みができ、あるいは仲間仕事で費用を生み出したり、時には講田を共有して、その収益で費用をまかなうことも行なわれた。そして永年の間に講金の余剰積立がたまると、それを仲間に貸し出すことも広く行なわれ、さらには当初から金融互助を目的に講の集まりを利用して無尽を創設することもあった。もともと代参費拠出の形は頼母子(無尽)の仕組みと似ているので、こうした共済的な仕事が添加しやすかったのである。
 こうした代参講は単に信仰だけでなく、親睦、共済娯楽旅行など他の働きをも兼ね、近世以降、一般民衆の社会生活にかなり大きな役割を演じてきたのである。
  以上講の原形をみてきたが、講は御井町でも盛んに行なわれていた事が実証された。しかし時代が変わってしまったので、代参人が御井町から金比羅さんや伊勢神宮に参ったということを証明する話も聞かれなかったし、記録も発見できなかった。唯一、高良山地区で、「英彦山詣で」の代参人が毎年出ていたことを確認することができた。

宗崎子供中

 明治のはじめ頃から、高良山には「同志会」上町には「厚同会」という若者組があったが、同じような子供だけの組織も各地区であった。それを「子供中」という。 宗崎の「子供中」は、そこに居住する男児六歳から十四歳までの全員で構成し、その頭{かしら}は年長の高等科二年全員があたり、次のような規則があった。

一、あいさつの励行
朝、目上の人に対して「おはようございます」仕事をしている人に「お精が出ようなさんの」という具合に、村中の子供が年長の人に必ずあいさっすることを習わしとしていた。
一、仕事の励行
 遊ばずに家事の手伝いをする。薪取り、畑仕事、草切り、縄ないなど、農村で田畑の多かった宗崎では、次のような事まで「子供中」で決めていた。

「無断で田畑に入らない」 「果実を盗んではならない」 「手伝いができない時は勉強する」

 日曜日などは、早朝(午前六時頃)、氏神様の境内清掃のため、各自竹ぼうきを持って集まり、そうじが終わったら、みんなで陣取りなどをして遊んだ。 また毎月一回、「寄会{よりえ}」があり、夜、ごしんさんの拝殿に集合し、ろうそくの明りの下、頭{かしら}を正面に高等一年から六年生と年長の順に円く座り、宗崎子供中の規則が守られているかを確かめ、違反者には体罰が与えられた。

帳祝い

 毎年二月十一日に行なわれていた行事である。大福帳の新しいものを氏神に供え、あるいは神社にまいった帰りに新しい帳面を買い求めてくる。
この行事は正月行事の一つで、主に商家がやるのだが、農家でも掛帳とか、今でいう家計簿のような用途の帳面が必要だったのである。
この日、子供達は近所の家を一軒ずつ回って、米や小銭などもらえるものなら何でも集めてまわった。もちろん「子供中」の組織でやる。食事を作るのは六年生の家が当番になるのがならわしだった。「焚き物{もん}」を山から拾ってきて、ご飯を炊いてもらい、にぎりめしか混ぜご飯を作ってもらうと、子供達はわざと「うまか、うまか」と、ことさら大声で言って食べなくてはならないという面白い風習があった。

お潮井取リ

高良山三井戸

高良山三井戸

 御井は文字どうり三つの井戸がある事からこの地名がついたといわれている。三つの井戸とは、高良大社本坂下のきてえご(北井河)、現在は高速道路の下に埋まってしまい跡かたもない出目のにしんご(西井河)、高良山宮司邸前にあったおおいご(大井河)である。他に岩井川、朝妻のお潮井場等、清水の湧き出る所がいたるところにあった。
宗崎のお潮井取りは、六月一日から約六ヶ月間、毎日行なわれた。早朝まだ暗いうちからお潮い桶を持ち、大学稲荷を経て、神龍石の横に沿った山道を通って、昼なお暗き「めくら落し」を左手に宮司邸前に出て、高良山道を登りつめ、本坂下につく。それより左に坂を少し下った所に「北井河{きていご}」がある。この清水を桶に吸んで高良神社に参拝する。お潮井を杉の葉枝でふりかけながら、本殿の周囲に祀られた幾つかのお宮に参拝して山をおりる。宗崎の氏神さまに参った後、村は上組と下組、夫々二十軒余りに分かれていて、各家々の表口に杉の枝でお水をふって回った。
このお潮井取りは、二軒一組で受け持ち、小学生なら上級生、または大人の二人連れで行く。各軒先へのお潮い配りは、子供の 役目である。そして当番は二十日に一回ぐらいの割で回ってきた。
お潮井汲みには、家内安全、無病息災の願いがこめられている。

お正月の行事

 「ほけんぎよう」は、正月七日の早暁、各戸の家の前で竹、ワラ等を燃やし、その火で餅を焼いて食べた。
「もぐら打ち」は、正月十四日の朝、小竹の先にワラを束ね、そこを縄でかたく巻いて作ったもので、庭先を「十四日のもぐらえし」と唱えながら力いっぱい竹が折れるまで打った。 「さぎっちよ」は、正月十五日夕方、宗崎の入口の十字路(藤崎さんの横)で各戸から集めた、しめ飾り、門松、ワラ、猛宗竹などを高く積み上げて燃やし、餅をやいて食べた。この薪類は、子供中が大八車やリヤカーで集めてまわった。
ある程度焼けた猛宗竹を割って先を輪にして「盗人番{ぬすどんばん}」と呼ばれるものを大人が作ってくれた。これを門口に立てておくと、ドロボーが入らないという言い伝えがあった。

水神さん祭り

 五月五日、久留米の水天宮の祭りの日に宗崎でも水神祭りをした。村の有志の人達が午前中にワラで中央をふくらませたツトを作り、その中に水と塩を入れ、外側に、生魚二匹をニツ切りにしてツトに刺し、木で作った「かつお」と一緒に竹に結びつけ、氏神さんの上の堤にこれをたて、祭りをした。
午後は村中の人が集会所に集まり、各家から持ち寄った季節の料理を肴に酒をくみかわした。この時、子供中はそばにある「印輪神社」の拝殿に集まり、大人の料理を分けてもらって皆で回して食べた。

水神祭の飾り

水神祭の飾り(宗崎)

よど

 七月十七日は印鑰{いんにやく}神社(ごしんさん)の夏祭りである。今では昔の話になってしまったが、以前境内では青年団の主催する浪花節や、村の芸達者が日頃の腕や、喉を発揮する余興が行なわれ、一年中でいちばん楽しい晩であった。
祭の前日「丁切」を堤で洗い、石段のすぐ上にたてるのが子供中の仕事であった。「ボンボリ」の紙を新しく張り替えて、それに御神燈と墨で書く。これはいつも中村英雄先生に頼んでいた。丁切にあかりをともし、村の要所には、ボンボリをともし、それらを見張り、巡回するのも子供中でやった。
青年団は、余興を準備すると共に子供中がたてた丁切よりも一段と豪華な丁切を組み立てるのに大忙がしだった。夜店もいくつか並んだが、玉ころがしとスルメのカバ焼きが忘れられない。時にはアイスキャンデ屋さんの鐘が鳴りひびくこともあった。

丁切り

丁切り(岡芳松氏提供)


このよどの余興見物には、高良内や御井町の人達も足を運んで、ずいぶんにぎやかだったという。
祭の翌日は青年団の「てんぷら揚げ」という行事があって、祭で出た饅頭にころもをつけて揚げたもの、といもの天ぷらを作ってサービスしてくれた。子供達は、青年団の揚げてくれた天ぷらをもらって食べるのが楽しみで、みんなお宮に集まってきた。
また、「十六出し」といって、盆の十六日にいろんな食物を十六種類だし合ってみんなで食べる習わしがあリ、この日も子供達は組費で買った菓子などを平等に分けてもらって食べた。

 印鑰神社(ごしんさん)の座は、十二月十八日である。座は組単位で引き継がれ、次の年にはまた隣の組へと移行してゆく。 座の当日、男衆は朝からおこわを蒸し、神棚に供え、神事の準備に忙がしい。女衆は料理づくりを担当する。
次に昭和五十九年度の印鑰さんの座元交代の様子を描写してみよう。
午後三時、最初に高良山下宮社(祗園さん)の宮司の祝詞があげられ、宮総代出席のもと、座元が交代する。現在は宗崎の五十世帯で座を形成し、伝統行事を守っている。

たいまつ

たいまつ(昭和60年12月)


この年は残念ながら見られなかったが座元の交代の時は、両方の家で松明{たいまつ}が作られる。長くして(写真参照)おかないと持つ人が熱いので、ニメートル位の長さにしておく。先端の直径は約五十センチ、中心は竹で、其の間に松、杉などよく燃え、かつ火持ちがよいものをつっこんで束ね、割リ竹でしめつける。この松明も当日男衆が朝から作った。火の勢いが強いのでバケツの水をかけながら歩いた。
旧座元側は神主が中心となって、座元、宮総代他数人がかたまって「ワッショイ!ワッショイ!」と、威勢よくかけ声をかけながら松明{たいまつ}を運ぶ。
迎える新座元は、玄関で「迎え火」を焚き、やはり松明に火をつけて、組内の者だけで出迎えに歩きだす。中間点で合流すると全員がかけ声を「おうっ〃」と威勢よくあげ、一団となって「わっしょい!わっしょい!」と、新座元の家へ向かう。
火は玄関先で燃やしてしまう。松明は、歩く距離、あるいは時間に合わせ、家が遠くて時間がかかるような場合は、大きく作った。当時はわら屋根の時代で、火は非常にこわいので、家がくっついているような狭い道は避け、大きな道を選んで走った。そして一同が座敷に会すると、お謡いがはじまる。
この座元をつとめる家は、一年間御幣を守り、その組の人達はごしんさんの清掃を受けもつのである

印鑰神社

印鑰神社

大学稲荷のふいご祭り

 旧の十二月八日、久留米市内はいうにおよばず、三潴、田川、と広範囲にわたって、鍛冶屋さんが集まってきた。今でも盛んに行なわれている。 昔、鍛冶屋はふいごの弁を狐の皮で作った。それでお稲荷さんと縁ができたのかどうかは判らないが、昔は鍛冶屋さん、今は鉄工所関係のおまいりが多い。 四本の竹を四方に立てて、しめなわを張り割木を井げたに組んで、その中で火を焚く。神主がお供えのろうそくで点火するのである。古くなった赤い鳥居もこわして燃やした。供養の意味もあるであろう。日暮れが近まると、境内では参詣の人々に餅やみかんがまかれた。

のうせんぎょう

 大寒の頃、大学稲荷で「のうせんぎよう」というお祭が行なわれていた。境内の山 中のしだの繁みの間に、赤飯のおにぎりやてんぷら、ゆで卵などを置いてまわり、お稲荷さんを信仰している人が願い事をする祭りである。

大学稲荷

大学稲荷


お稲荷さんの白狐を供養するため、たいてい雪の夜などに行なわれ、「のうせんぎょう!のうせんぎょう!」と、大声で叫ぶ声がきこえる。その声でのうせんぎょうの夜だと、子供達にも判るのである。そして次の朝、まだ暗いうちから我先きに御馳走をとりに山に走り「のうせんぎょう引き」をするのであった。大寒の頃だから、食物も腐らなかったのであろう。宗崎の子供達は、おにぎりやてんぷらなどの御馳走を十三部焼の素焼の「こうらなべ」にいれ、焼いてあつくして食べるのが何よりの楽しみだった。
お稲荷さんを信仰して、おまいりに来る人は、町の商売人や水商売の人が多かったという。

もしちゃん鎌

 「九州縦貫高速道路」の開通によって、御井町の歴史と景観は大きく変貌してしまっ た。愛宕山しかり、弘法山しかりである。祗園山は発掘され、出目の天満宮も昔は今の地ではなかった。更に御井町の人々の心と高良山との絆もその為にうすれてしまったと言っても、過言ではないのではなかろうか。
愛宕神社の石段も、高速道路に分断されて見るかげもなくなっている。愛宕神社にまいるには、宗崎の高速道路13トンネルをくぐって、岩不動の前を通り、石段の上に出る。その愛宕山のふもとに、鍛冶屋があった。「もしちゃん鎌」と呼ばれる、小枝等をはらう時に使うなた鎌が作られていた。「もしちゃん」というのは「青木茂吉」の「茂吉ちゃん」がなまってそう呼ばれた愛称である。
「なた鎌」は名人でないと作れないという。彼も、三井郡のみならず、もっと遠方からも買いに来る程の腕前であったが、名人だけに気がむかないと仕事をしない変わり者だった。もしちゃんは、手こぎのふいごを使い、炭火で鉄を打った。農具を主に作っていた。今でも御井町の農家には「もしちゃん鎌」の一本は必ずある筈である。
その鍛冶屋の槌音も今は聞こえない。

もしちゃん鎌

もしちゃん鎌

ほたる狩り

  農薬が全盛だった頃、田畑の生物がすっかり影をひそめてしまっていた時期があったが、今また、古きよき頃の風物が見直されて、人間が手を加えることによって、小さな生物が復活し、四季折々にいくらかは楽しめるようになった。
蛍も昔は初夏の風物であった。宗崎の奥、山裾の清水の湧き出る池あたりで、ほたる狩りをしたものだった。夕闇の中をほのぼのとした光を、つけたり消したりして飛ぶ蛍を、思わず追いかけたり、笹の葉の上に休んだり、草むらの陰に見えかくれする蛍に手をのばした思い出は、誰の心の中にもあることだろう。
竹の先に菜殼を結びつけ、振りまわしながら追いかけて、菜殻にくっついてきた蛍を取った。とった蛍は、めいめい自分達が麦わらで作った蛍かごの中に入れた。麦わら細工の籠を作るのも子供にとって楽しい遊びで、年かさの子が下の子供達に作ってみせて、教えていた。今でこそ、「伝承あそび」と、特別のようにいわれているが、昔は自然の中で、至極ありのままの生活の中で、いろいろな楽しみや生きる術までも、いつの間にか覚えていったのである。

昔のおやつ

ほたる狩り

ほたる狩り

「ふなやき」
「けえもち」
「いりごめ」

昔なつかしい代表的なおやつである。 「ふなやき」は、小麦粉を水でとき、薄く焼きのばした。今ならさしずめ、フライパンでクレープを焼く要領であろう。卵もミルクも入れない素朴な味のおやつだった。中に黒砂糖や味噌等を置いて、くるくると巻いて食べた。
「けえもち」は、そば粉を熱い湯でこねて団子にし、黒砂糖の砂糖じょう油か、黄な粉をまぶして食べた。
冷蔵庫や電子レンジなどのなかった時代であったが、食べ物を粗末にしないようにと生活の知恵はいろいろ考えられていた。 炊いた御飯がねまる(腐る)のを防ぐために、つりこじょうけにふきんを敷き、御飯を入れて風通しのよい縁側や軒下などにつり下げておいた。 そのつりこじょうけのまわりにくっついて、かわいてしまった御飯つぶをためておいて作ったおやつが「いりごめ」である。かわいた御飯を素焼きのこうら鍋で炒ると、今のようにいろんな煎餅やおかき類などなかった時代だから、非常に香ばしくて、おいしかった。御仏飯なども無駄にすると罰があたると、年寄りがそうして子供達に食べさせていたのである。中には、大豆を炒っていれたり、黒砂糖をからめたりした上等な、おこしのようなものもあった。


つりこじょうけ

つりこじょうけ

「こうら鍋」は、当時の家庭では毎日の生活で、大豆やそば粉小麦粉などを使って料理する為によく使われていたが、素焼きなので簡単にわれてしまう。十三部焼きで直径三十センチ位の鍋が一個三銭であった。

子供の小遣い銭かせぎ

 昭和二十五年頃までのことであるが、宗崎の子供達は夏休みには、小遣銭をかせぐために御井町に飴を売リにいっていたということであった。久留米市内の大石という飴屋から一銭につき、四個、三十銭で百二十個仕入れてきて、それを反物を入れる箱にならべて売り歩いた。売り値は二個一銭で倍もうけだった。宗崎の子供のほとんどが、夏休みの内、十日間位はこうして自分で小遣いをかせいでいた。
また、高良山地区でもおくんちなど参拝者が多い時、子供達が手桶やバケツに清水を汲んできて、ひしゃくでおまいりの人々に手を洗わせて小遣いをかせいでいたが、宗崎の子供達も、高良山おくんちは勿論のこと、大学稲荷のお祭りの時にも「手水洗{ちょおつせん}」をかせいでいた。ひとかけ一銭であった。水がなくなると、清水に走っていき水を手桶に満たして、ふたたび石段にならんで、ひしゃくで水を参拝者の手にかけるのであった。ひとかけ一銭の安価ではあったが、一日がんばると一応ポケットにいっぱいのお金がかせげたということである。

共同風呂

  宗崎の共同浴場(もやい風呂)は、氏神さん(印鑰神社)の足許にあたる所にあった。約三十世帯の宗崎の人々が、午後五時頃から十時頃にかけて入浴した。風呂わかしは三十軒で 当番制になっていて、翌日当番になる家族は、最終時間に風呂に入り、入浴がすむと浴槽の掃除をして、かけいの水が浴槽に入るようにしておいた。
風呂は雨が降れば泥水になり、好天がつづいて水不足になると堤の水を担いできて入れなければならなかった。

共同浴場平面図

共同浴場平面図
(岡由松氏提供)

風呂当番になるとその日の昼食後より焚きはじめ、午後五時には沸いているようにしておかねばならない。沸きあがると拍子木をたたいて合図をした。夜の八時から九時頃がいちばん賑わい、それこそ裸のつき合いをしたのである。

村の人気者

ちょんまげじいさん  じいさんの名前は諸富伊之吉といった。明治の初めの頃の戦争にいったということである。額に大きな刀傷があった。子供相手に戦争の話をよくしてくれた。
「おんつか先生の座敷で柔の稽古ばかりさせられた。手のごいをチョイと首に巻きつけられて肩に担がれ、座敷を三べんばかり回るとぐったりする。隅の方にポーンと投げだされ、背中ばドン!とどやされると生きあがる。頭がジーン、ジーンしてのう」
と、同じことばかり繰返していた。じいさんは死ぬまでチョンマゲを結っていた。さかやきはおばあさんに剃ってもらっていた。大正八年頃であったろう。当時七十いくつかになっていたと思われる。近くの山に山桃をちぎりに行って木から落ち、それがもとで亡くなったが、子供好きのやさしいおじいさんだったそうである。

踊りの名人  古賀与三郎さんは、腕のよい畳屋さんで、なかなかの好男子であった。踊りは玄人も顔まけの名人で、「源氏店」などを踊らせるとたいしたものだった。印鑰さんのよど、風呂上りの楽しみ、おこもりの時の座興など人の集まる所で頼まれると陽気に踊ってみせていた。じくら踊りも得意だったというが、また、座頭のまねをして杖をつき、ふんどし姿で三味線をならして踊る姿は、堂に入ったもので大喝采をあびた。
与三郎さんは大変な酒好きで非常に芸達者な人だったが、昭和二十九年頃亡くなっている。

浪花節語り  年に一回、宗崎には盲目の浪花節語りが夫婦でやってきた。名前を関本三郎といって、奥さんが三味線を引いていた。高田治吉さん宅の座敷に、宗崎の浪花節愛好家達が集まって楽しんだ。客から木戸銭をとって公演料としてお金を払ったが、その他にも、「花」といって十五銭、二十銭を紙に包んで投げ銭をして祝儀をはずんだ。

久留米にわか

 大正十年頃、にわかが大いに流行した。御井町でも、にわかを上手に演じる人は沢山いたがその中心になったのは上町の渡辺伊作さんのお兄さんで岩二郎さんであった。また、にわかのセリフまわしを考える人は、高田要吉、金子末松両氏の右に出る者はいなかった。 渡辺さんは兄の岩二郎さんが熱心に稽古しているのを、子供の頃から横でいつも聞いていて、よく覚えている。「南筑中学校」という外題のにわかを、思い出して貰い収録したものを、記録にとどめておきたいと思う。

『二〇加 南筑中学校

          

幕があくと、「にわか」の歌、「ノー工節」のメロデイを借りて、 三味線、太鼓のお囃しにのって流れる。

♪おっちゃんな どけいくノ〜エにわか おっちゃんな どけいくノ〜エ

     
          

おどけた身振り手振りで花道から二人出てくる。

♪おっちゃんなサイサイ 新酒屋ヘ〜 酒はかりにゆくわいな
酒のはかりよはノ〜エ
酒のはかりよはノ〜エエ
酒のサイサイ はかりよの〜
手ぎわのよっさよさ

そして、はじまり、はじまリい。

女「あのくさい、おとっちゃん。朝妻ん清水館のこっちん方に、
営所のごたる、太おか家の建ちょろうが。
ありゃ、一体何じゃろか」。
男「ウン。ありゃ、学校げな」
女「ほお。そんなら御井町にゃ、学校がニツもでくっとたい」
男「んにゃ。ありゃ、中学校げな。佐藤さんちいう大金持が、一人で建てよんさっとげな」
女「そげん金の余っとるなら、うちんごたる貧之人に、 ちっと分けてやりゃよかとに。
そしてその中学校ん名は、なんちゅう学校じゃろか」
男「南中学校げな」
女「その学校は、なんちゅう学校じゃろかち、聞きよりますとたい」
男「その学校の名が南中学校たい」
女「どうしたわからん人じゃろか。あたしゃ、その中学校の名は…」
男「そっじゃけん、南中学校ち、いいよっとに。どうしたわからん奴じゃろか、このお多福!」
女「何んなあ!お多福?わたしがお多福なら、あんたはオタンチンのひょうろく玉たい!」
男「ひようろく玉!こん畜生!もうがまんできねえ」


二人は取っ組み合いをはじめる。
近所の隠居出てきて中に入る。

隠居「こらこら!朝っぱらからまた、けんかばしよる。
あきれた夫婦じゃ。晩になると飯食い早々、おとっちゃん、はよ寝よち、言うとるくせに、
朝、目ばさますと同時にもう、けんかばしよる」
女「そればってん、ご隠居さん。わたしゃ、晩寝るとがいちばん好きじゃもん。そして父ちゃんと…」
隠居「あゝもうよか。そりから先は言わんでもわかっとる。わしが独り者{もん}じゃけんちいうて、
あんまりのろけるもんじゃなか。あっ、下ん方がムズムズする。
それにしても、朝っぱらから何でまた、けんかばしよるとな」

男「それがっさい、ご隠居さん。ようと聞いてやんなさい。朝妻の清水館…」
隠居「ちいと待った。わしゃ、清水館にゃ此頃行きよらんけん。わざわざそげな……」
男「何んば言いよんなさっとね。ご隠居の清水館行きは、知らんもんな、なかたい。
そげな事じゃなか。清水館のこっちん方に、ふうとか家の建ちよろうが」
隠居「ありゃ、佐藤さんの中学校ば、建てよんなさっとたい」

女「ご隠居さん、この人ん話ばっかり聞かんと、私の話も、聞いてちょうだい。
その中学校の名は、なんちゅう学校のち、あたしが聞いとるのに、この人は、なんちゅう学校、
なんちゅう学校、なんべん聞いても同し事ばっかり言うけん、とうとう、けんかになりましたとです」

隠居「はあ、それでわかった。あんたが、学校の名はなんちゅう学校のち、聞きよるとに、
亭主がなんちゅう学校げなち、言いよるとたい。
そいはおかみさん、あんたの亭主の言いよんなさるごと、あの学校はなん中学校、
つまり『南筑中学校』」

子供の歌

 渡辺伊作さんが覚えていた子供の頃の歌を、宗崎の御婦人達に歌って貰い、収録したものである

まりつき歌 @

まりつき歌

まりつき歌

♪高良山の 板敷や どんちんがららん 今日は きょうきょう 明日はだいだい ひだりひだりの お稲荷さーまーよ 絹のふくさと 綾のふくさと 包みあわせて 唐糸でしめて しめたごとくは 誰にわたそか あのや あの人(〇〇さん)に おわたしもうしましよう。 (受け取った人) ないない わたしが うけとりまーしーた

子守唄 A

子守唄

子守歌

(赤子をあやす歌。背負って月を見ながら)

♪お月さまいくつ 十三ななつ 七つで子生んで その子は どうしたか あんぶら買い はってった そのあぶらはどうしたか 犬(イン)がねぶってしもた その犬はどうしたか 太鼓はってしもた その太鼓はどうしたか うちやぶってしもた

遊び歌 一 B

遊び歌

遊び歌

(目かくしした子を真ん中において、手をつないで輪になってまわる。「かごめかごめ」のように)

♪座頭さんえ ざとうさんえ お茶を一服あげましょか まだまーだとおっしゃるなーらば あなたの後は誰{だっ}じゃろか

(子供たちはかがみ込んで、中の目かくしした子が、自分の後の子の名前を言いあてる)

遊び歌 二 C

遊び歌(十方八方)

十方八方

(火鉢を囲み、芋の子などを焼きながら軽く手を「ぐう」にむすんで前に突き出す。「ずいずいずっころばし」のように遊ぶ)

♪じっぽうはっぽう はりまがかやって でんでんぐるまの緒が切れた たのた あぶらやの膏薬{こうやき}や じゅっというて こりひいた

遊び歌 三 D

遊び歌3

とりひきべんぷ

(遊び仲間を分けるのに、並んだ子供達の頭を軽くたたいて歌い終った時に当った子を取る)

♪とりひきべんぷ  とったが勝ちじゃもの はなよしよ

(「花いちもんめ」と同じ目的をもつ歌である) 夕餉の仕度がととのって、「ご飯ばぁい、早{は}よ帰ってこんの」と母親の声がすると、子供達は思い思いの方向へと帰っていく。そんな秋の夕暮、沈む夕日を見ながら……。

からすのかんにょむどん  E

遊び歌3

からすのかんにょむどん

♪からす からす かんにょむどん わがえん家は 焼けよっぞ 早{は}よいって水かけろ 水がなかなら しょんべんかけろ

そしてまた、隣接する部落の子とのけんかも、子供達にとって重大事だったのである。 そんな時に相手を囃して歌う歌。(宗崎の子供)

♪高良内のコービンチョ 氷{こおん}のはって出られん (高良内の子供) ♪宗崎の火箱村 雪隠{せっちん}かてて十三軒

次に掲げる子供の歌は、岡芳松さんと、古賀サツキさんの協力で再現されたものである。

お手玉唄 一 F

遊び歌7

御井寺の鐘の音

♪一、三井寺の鐘の音 澄み渡る夕暮 たつ雁も堅田{かただ}に 声たてて落ちきぬ ひとり立てる から崎の老松 雨か波か さびしげに響くは 二、今もなお身にしむ 粟津野{あわつの}の秋風 いずかたぞ昔の 兼平の石碑 瀬田の夕日 とこしえにさびし 比良の暮雪 いつ見ても美くし 三、月の影さやかに すみ昇る石山 千代かけて偲ぶは 紫のその筆 山田矢ばしり 見え渡る名どころ さして帰る 船の帆も三つ四つ

お手玉唄 二 G

遊び歌8

お手玉唄

♪おひとつおさらい お二つおさらい おみっつおさらい およよのおてしゃん おてしゃんおろして おさらい おはさみおろして おちりんこ  おさらい おおのしろ しろしろおろして おさらい のせて おんばさん呼んでこい おんばさん呼んでこい おんばさんおろして おさらい 小ざい橋 橋こぐれ 橋こぐれ 橋こぐれ おろして おさらい 大きい橋 橋こぐれ おろして おさらい

(「おんばさん 呼んでこい〃」「橋こぐれ〃」は、お手玉の数だけ続けて行う)

御井小学校旧校歌

御井小学校旧校歌 宗崎の岡芳松さんの協力により、旧校歌並びに卒業式の歌、応援歌を収録した。

作者不詳の旧校歌の作詩者は、「真下飛泉」であると言われるが、作曲者は未だ不明である。

御井尋常高等小学校 校歌

記念写真

卒業記念写真

♪一、春のあけぽの 東風吹けば 高良の山の 花薫り 秋の夕暮 雁鳴けば 御井の清水に 月宿る 二、四時の眺めの 優れたる この学舎に 大君の 御詔 かしこみて 誠の道を 学ぶかな 三、いざ諸共に いそしみて 清く気高くおおい出でん 高良の山の いと高く 御井の清水の いと清し

御井尋常高等小学校卒業式の歌

卒業式の歌

卒業式の歌

♪一、君のめぐみ 師のめぐみ 山より高く 海より深し 学びのたまもの 皆もちつれて 帰るもうれしき 親の門 (くりかえし) 忘るなよ 君のめぐみ 忘るなよ 師のめぐみ 二、いにし春秋 早や幾年 蛍を集め み雪積みて 共々励みつ 励まされたる うれしき 思いを永久に (くりかえし) 三、われらはこれより いや深き 学びやの道や よきなり業を つとめ励みて このみめぐみに 報いまつらん 今日よりは ありがたや 君のめぐみ ありがたや 師のめぐみ

御井尋常高等小学校 応援歌 第一号

応援歌

応援歌(1)(2)

♪高良の山に 照り映えて 御井町健児の 名も高く 花の歴史を しのびつつ 熱血あふるる 四百の 我等が血潮 わき返る 起てやいざたて 御井健児 我に高良の まもりあり 韋駄天の意気 しめすかな ふるえふるえ 御井健児 月桂冠は 我にあり 誉れは高し 御井町校 誉れは高し 御井町校

応援歌 第二号 

(「花咲かじいさん」のメロディで)、

♪一、高良さんの神主が おみくじ引いて申すには、 いつも御井校は 勝ち勝ち〃〃。 二、もしも御井校が負けたなら 電信柱に花が咲く 絵に書いたダルマさんが 下駄はいて踊り出す

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