六、旗崎

洋行がんちゃん

 旗崎には、名物男が一人いる。その人のことを通称「洋行がんちゃん」という、皆にそう呼ばれるからには、海外移民の経験をした人だろう。一般的にいって海外移住は明治の終わり頃から大戦直前まで行なわれている。
 がんちゃんは地下室を持っていて、そこを仕事場としていた。この方式はアメリカではよくみられる家の建て方である。アメリカの生活様式を御井町に持ち込んだのだろう。彼は発明の才能があり、揚水用風車、かまどを三ツ集めた型式の吸い上げかまど、滑車を組み合わせた石の移動用機械などをつくり、はてはバイクの部品を集めて自分で組み立てたりしては、人々を驚かせたという。

宮崎パン屋

 宮崎為次という人が人家もまばらだった深道(神道)でパン屋をしていた。大正から太平洋戦争中頃までのことである。
 もちの木の下にあった宮崎さんの店の跡を今でも「パン屋」と呼んでいるが″カタパン″が印象深かったそうである。餅やぜんざい等も売っていたが、飴湯を作って桶に入れて、毎日夕方四時になると車力で工兵隊の「酒保」(軍隊の中で日用雑貨を売る所)に納めに行った。深道にはこの他、代官屋敷跡といわれている場所がある。今は平田商店になっている。
 また猪田さんという人が「宮崎パン屋」の裏に花火工場を持っていたが、二・三回火事を出して死傷者を出すという事件もあった。

風呂

 「三軒もやい」といって、三軒が共同で一軒の風呂のある家に、もらい湯に行っていた。それも毎日入りに行ったというから、現代感覚では、プライバシーや衛生上の問題などがあって仲々考えられないことであるが、今のように各家庭ごとに風呂を沸かすという生活習慣ではなかった。

井戸

 井戸の歴史は古いが農村に井戸が使われはじめたのは、明治中期以降のことといわれている。大多数の農村においては、ほとんど飲料その他、日常の水を泉、川、湖沼に求めたのである。水桶を担ぎ、あるいは頭に載せて、直接水場に水を汲みにいくか、又は傾斜を利用し樋{かけい}や水路を設け、水を屋内や屋敷前に導いて用いていたのである。

井戸

井 戸

  御井の町は山麓にあり、他の村や町よりも水の利用については多少とも楽だったであろうと思われる。実際御井町では、どこを掘ってもおいしい水が豊富に湧き出ていたようだ。昔の面影の残っている人家の庭の隅などに大きな水がめがころがされていたり、逆さに立ててあるのをよく見かける。日常生活と水は切り離して考えることはできない。
 山水に頼る人、井戸水を使う人など、誰もが水をため置くのに、この水がめを必要としたのである。また当時は井戸は少なく、安養寺の井戸は周囲の五、六軒で使っていたし、井戸の、「二軒もやい」はざらにあったようだ。

旗崎のお潮井汲み

 五月から十一月頃まで、毎朝お潮井汲みをするのは子供の仕事であった。しかし旗崎の場含は、大人の一日の仕事としてやっていたようである。十軒位が組を作って、朝七時頃になると朝妻の清水まで手桶を持ってお潮井汲みに行った。水を杉の葉で神棚さんにまくやり方は、他の町内と同じである。

戦前のある農家の一日

きうり

特産物"府中きうり"
「目で見る久留米の歴史」

 (二、三反の田畑を持っている百姓)午前三時―起床。 嫁さんは赤んぼうを背負って、前夜準備した野菜をリヤカーに積み、五穀神社近くの青果市場へ引いていく。
 午前四時半―一帰宅。朝食。午前七時―一畑仕事。正午―一畑から帰る。風呂の水かえ。洗濯。 じっちゃんは昼寝。
 午後二時―一再び畑へ。 作物はかた粕大根、みのわせ大根、りそう大根(たくあん用)大根は各種、多量に作ったが、芯が黒くなる病気がはやって人参へ転換した。 府中ぎゅうり(大型、太さ十センチ、長さ三、四十センチ)地面にはわせて作る。しかし現在は全く見当らない。裸麦を南瓜の風よけに植えた。他に深ねぎなど。
 午後六時―一翌朝市場へ出す野菜の準備。「手取り」といって、洗った野菜を藁で束ねる。野菜の洗い場は朝妻の清水、岩井川、南筑高校の裏の大谷川、馬場医院前の川が、代表的な所であった。野菜洗いのついでにおしめの洗濯もした。
 午後九時 タ食。
 午後十時 風呂。四時間睡眠である。しかし雨が降ると、五時半まで寝られて大変うれしかった。でもじっちゃんの「はよ、おきらんの」という言葉をうらめしく聞きながら起きる。

招魂さんの大演習

 軍国時代を象徴する行事のひとつである。毎年十月二十日に実施された。三井郡全域の小学生が全員参加し、小学四年以上は木銃をかつぎ素足で参加した。女子も同様素足であった。級長は青旗を持ち先頭に立った。花火も打ち上げられ、帰りには昆布とするめをもらって帰った。今も、山川や御井の婦人会のお世話で毎年十月二十日には招魂さんで秋の大祭と称して往時を偲ぶ行事が行なわれていて、一日中賑わっている。

豊田清次郎先生

豊田先生

豊田先生

 御井小学校創立百周年記念誌掲載の歴代職員という欄に、豊田清次郎先生の名がみえる。明治三十一年四月二十六日から、大正十五年三月三十一日まで、実に二十八年間在職された先生である。長寿会の取材にあたって、この豊田先生の名が口にのぼらなかった地域はまずなかったといってよい。
豊田先生は、良山中学校前の永田さんの敷地内の借家に住んでいた。奥さんと二人の息子さんの四人暮しであった。とにかく一風変った個性的な先生で、それだけに強烈な印象を残した。まずその風貌であるが、話を総合すると、小柄な体で鼻下に髭をたくわえ、後鉢巻姿で黒色の詰襟服を着た、古武士の風格のあった先生ということになる。
 受け持ちは低学年が主で、体操の歩調練習には特に力を入れたようである。体操の時間は一列に並ばせ「気をつけ!」「番号!」からはじまり行進をする。「オイッチニ!」「オイッチニ!」「ダル右!」「ダル右!」と毎日朝礼が済むと、一年生はそのまま運動場の一隅に円陣を作り、行進の練習をする。号令をかけている最中に、間違えた者がみつかると、直ちに駈け寄り、自分の右手を生徒の左肩にのせ、後鉢巻をしめて汗だくになりながら、「ダル右!」「ダル右!」と、号令をかけながら正しくできるまで、肩を押さえていた。肩に重圧がかかると小さな体が大きく左右に揺れ動く。女生徒の中には泣き出す者もいた。二、三周行進してきちんと出来た者は、その列から出る事ができて、自由に遊んでよかった。そうでない者はいつまでも続けねばならず、一人抜け、二人抜けして、段々円陣が小さくなると、悲しく泣きたい気持ちになった。

郵便局看板

郵便局看板

 豊田先生が情熱を注いだのが習字であった。特に楷書に優れ、「追分郵便局」の看板の字や、御井小学校前にある祗 園さん入口の鳥居の字は、豊田先生の筆になるといわれている。隈山にもあるそうだが確かめられていない。大筆に水をたっぷりつけ、黒板に「トンと打って、スー。トンと打って、スー」といいながら、筆の運びを教えている姿が、教え子のお年寄りの脳裏にこびりついていて離れないようだ。
 豊田清次郎先生は準教員だったという話であるが、教育の荒廃が叫ばれる今日この頃、軍国調のにおいも多少はするものの、先生が教育一途に取り組まれた姿勢は、心を打つものがある。

秀吉の旗竿石

秀吉の旗竿石

秀吉の旗竿石

 秀吉は膨大な軍事力を持て余した挙句、朝鮮半島出兵を試みた。「(一五九二年四月)文禄の役」 その拠点として唐津の名護屋に城を急造した。その城内に、秀吉の紋所の千成瓢箪の軍旗を二本立てていたといわれる旗竿石があった。当時は兵や馬がこの旗の下をくぐって続々と出陣して行ったことだろう。その二個の石の内の一つが、現在、旗崎の倉田家の庭のつくばいになっている。大変大きな石で、持ち運びも容易ではなかったと思われるのに、何らかの理由で昔、城の外へ運び出されたのであろう。幾人の手を渡ってきたであろうか。誰が愛でたであろうか。由緒深げに、今安住の地を倉田さんの許に見い出し、座っている。 石は畳半帖程の大きさで、真ん中に二十センチ位の穴がある。その穴には浅く段が彫られているが、これは日と月とを表わしているという言い伝えである。「秀吉の旗竿石」御井町にあり、というお話である。

祇園さんの大座

神道

神道(深道)

 いつの頃からかすたれていったが、戦後しばらくは、どこの町内でも大座が組織されていた。今も、古いしきたりを残している高良山地区の様子は前に記したが。祗園さんには神田があって、毎年三俵から四俵の米が穫れていたので、それを座の資金にしていた。祗園さんの注連縄作りなども座元の仕事として盛んに行なわれていた。

久大線の開通

 明治四十三年(一九一〇)以来、久留米商工会議所は久留米・大分間の鉄道敷設運動を続けていた。なかなか実現できずにいたが、ようやく大正九年十二月、大分側から着工。しかし久留米まではその槌音が容易に響いてこない。久留米・吉井間が開通したのが、

久大線御井駅

久大線御井駅

昭和三年(一九二八)十二月二十四日であった。しかも遅れて着工した久留米側からの工事であった。 そして九年三月日田まで、同年十一月に大分までが全線開通した。久大線の開通とバスの発達によって経営の危機に陥った筑後軌道は、久大線開通のその日に、まず電車の「御井線」(千本杉、御井町間)と軌道の「草野線」(樺目、草野間)を廃止し翌昭和四年三月二十五日には、ついに久留米・日田間の全線と、東久留米・国分間の支線も廃止して会社を解散し、市内電車もその姿を消したのである。(『久留米市史』より) 御井町では、久大線建設の折、旗崎池の東側を削って、池を大きくすると同時に、久大線用の盛土を採った。その際、縄文、弥生時代のものと思われる土器類が大量に出たという。 今でこそ、遺跡発掘などで出土したものは大切に複元して資料として保管される時代になったが、当時は、捨ておかれたままであったという。

人力車

 的場のおばあちゃんが嫁いで来た頃(大正十二年)は、人力車の全盛期で「立場」(人力車の営業所)の土間で火を焚いて客待ちをしていた。車夫が常時三、四人は待機していた。当時の御井町は、三井郡では大きい町で、立場も繁盛していた。的場さんのおばあちゃんも、年一回の里帰りの時、山本村まで人力車で帰ったが、この時の事は嬉しい思い出として忘れることができない。

人力車

人力車

また当時は立場の人力車を利用する人もあれば、人力車と車夫共、自家用に持っている人もいた。伊藤医院の先代、伊藤五郎氏も、大阪相撲の力士を雇いいれていた。体の大きい車夫は、先生の用事で呼ばれると、大きい垣根をホイとまたいで、車を引いて仕事をしていたとのことである。
 永福寺にも車夫を置いて自家用の人力車があった。
 明治四十三年三月に久留米を訪れる観光客のために定められた人力車の料金一覧表から、いくつか拾ってみると、九鉄停車場(現西鉄久留米駅)から御井町兵舎まで二十銭、高良山まで一里半、二十三銭、善導寺までは、三里で四十五銭であった。広手の的場食堂に隣り合わせてあった立場は、御井町の古きよき時代の象徴である。
 ここで「すたれゆく人力車の悲哀」と題された当時の新聞記事を紹介しよう。
  「すたれゆく人力車の悲哀」文明に遅れて走る人力車、この人力車が久留米に現在(昭和八年五月)百十九台残っている。『ゲイシャ』『イシャ』と共に、久留米市で多い三シャの一つと指折られてゐた此の『人カシャ』が、一番多かった頃は大正八・九年ごろ欧州大戦の終わった好況時代で、その頃には六百台を越えており、毛脛二本が資本のまんぢう笠。

恵比寿座

恵比寿座

車夫も腹かけをふくらまし悦に入ってゐたものであるが、今ではいはずもがな、あのガソリンのいやな匂ひを残して走る街の横道者自動車のため青息吐息の有様である。現在の百十九台から新、紺両券番のゲイシャ・ガール専用のリキシャ三十二台を除けば、あとに残るは七十九台で、この七十九台が久留米市内の日吉町、今町、恵比須座横、片原町国道、両替町、桜町、縄手、通り町、駅横内、本町二、本町五の十二の停立場にちらばっている有様で、殆んど乗る人もないので、車屋さん達は時代の憂鬱を解消するため、また心の鬱を解消するため、講談本を読んで日を送ってゐる有様である。 (九州日報、昭和八・五・一七)
御井町や旗崎池の畔にあった立場の名は、もうこのころになると登場していない。やはり大正八、九年を全盛にして、我が御井町の人力車も次第に姿を消していったと思われる。

高良山神幸

御神幸

昭和十六年四月高良大社
御神幸(平木嘉穂氏提供)

おみゆきのコース 高良大社―一広手一―上町―一旗崎池―一南筑校―一朝妻、お仮屋(一泊)―一矢取交叉点―一広手―一大社。
旗崎池から南筑校に抜ける道は、神道、あるいは深道とも言われ、昼なお恐しい道で周辺に家も少なく、女子は通れぬ位、寂しい所であった。また櫨も多く植えられており、すすきの原という感じのところであった。神道の名がついているので、この道が高良山と深いつながりを持っていることが判る。

神輿  おみゆきの御輿は三体ある。住吉宮、玉垂宮、八幡宮の神を象徴する三体で、この御輿を担ぐのは主に高良山地区の人々(同志会)であった。このことから御井町の中でも、字、高良山の地域の人々の高良大社との深いつながりを知ることができる。白馬が御幣を鞍に乗せ、太鼓・鏡・風流・稚児の行列が続いた。三年に一度、お仮屋に一泊するコースを取り、あとは簡単に祭りを行なった。 しかし盛大な高良大社の御神幸も、昭和十六年四月に千五百年祭を、大がかりにやったのを頂点に、次第に衰退し、特に終戦後は、急速に衰え、昭和二十二、三年頃に一度実施し、昭和三十六年にもう一度やったのを最後にとだえてしまって今日にいたっている。

馬宿

馬宿

府中・馬のいる風景
高良山山内図より

 府中の馬宿は有名である。江戸時代の古地図にも、「馬次」という表現で、△のマークがついている。現在、上町にある吉田コーポがいわゆる「馬宿」のあった所で、東西に向いた藁ぶきの屋根の馬小屋があり、四、五頭の馬を繋ぐことができた。


 表に枝ぶりのよい松が一本あり、それに馬を繋いでいた。鬼門角に当る所であろう。
 肥後の馬市というのがこのあたりでは有名で、馬市の後に馬喰に引かれて五頭から十頭の馬が府中の街道筋を通ったものだった。そんな馬喰や馬車引き達の休憩所が「馬宿」だ。

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