五、中ノ丁東・西

営林署と入会山

 高良山も山侍が守る山から、明治維新後は営林署の役人が任命されてくるようになった。百塔{ももと}(高良山地区、現水明荘あたり)にできた営林署に松尾さんという技官一家が引っ越してきた。
営林署の官舎は「山方」、技官は町の人から「山方{やまかた}さん」と呼ばれ、ツメ襟の制服に脚半を巻き、腰にはサーベルをさげて、ピンとはね上ったカイゼル髭は威厳があって子供心に恐ろしげに見えたものだった。中央から出張してきた役人達には、府中南構口の近くにあった宿屋「大坂屋」が常宿となった。そして府中から助手が一人雇われていた。
高良山に入って薪を採るのは、切捨て御免の山侍が監視していた頃も仲々大変な事だったけれど、営林署の役人が来ると、なお更厄介なことになった。山で薪を採るには皆「山札」という四、五センチ角の木製の許可証を持っていなければならなかった。「山札」を持っていても山道から一間以上は立ち入ってはならないと決められていて道具も鋸、鎌などを持っていると罰せられた。枯木はよいが木を切ってまで薪を採ることは禁じられていたので人々は高い所にひっかかっている枯枝を落す為に、竹の先端に二叉になった「ぐみ」の枝をくくりつけた「かっざお」(掻き竿)を使った。「ぐみ」の二叉になった枝は裂けにくかったからである。
しかし府中やその周辺の人達も役人の言いなりばかりにはなっていなかった。「ジンガマ」(小型の鎌)がそれ用に堂々と売られていて、秘かに懐に忍ばせて、役人の目を盗んでは山に分け入り薪を集めていたということである。そして、「かっ竿」を使っての薪集めは専ら「子供中」の仕事だった。以上のように地域住民が特定の山林、原野などを共同で利用することを「入会{いりあい}」という。 「入会権」は主にその地域にあり、住民はそこの木、柴、草など一定のとり決めのもとで採集することができる。以下「入会」について

山間の地方では、今日でも残存している慣行である。入会地の採集で 多いのは、田畑の肥料としての草、柴など、牛馬飼料としての秣・燃 料としての薪、ほだ、落葉などである。また木の実、蕨などの食料の ほか、家作、土木作業の用材の採集などもあった。入会には、一村だ けの場合、村の中の特定の組だけの場合のほか、数ヶ村による入会の 場合もあった。生産力の上昇、消費生活の向上などにともなって、入 会の利用が高まると利権者相互の利害が対立したり、村と村との入会 慣習をめぐる対立が激化し、紛争化することも多かった。 ことに村民が平等に利用権をもつのではなく、本百姓・水呑百姓など 階層によって利用権益が異なっていたりすると、入会紛争は一層複雑 なものとなる事が多い。    (「山漁村生活史辞典より」)

 また次に記載する資料は、木崎秀夫氏(中ノ丁・西)所有の古文書「山林法度」である。これは山の管理をする上での法律であるが、高良山には江戸時代、寛文九年(一六六九)六月二十五日と延宝五年(一六七七)正月十六日付の法度が定められたが現存せず左記のものだけが残っている。木崎家は代々高良山の管理をしてきた家柄である。


山 林 法 度 (政 所 代) 元禄三年十二月五日 普門院、厨彦右衛門、同勘右衛門、秋山瀬兵衛、発令の山林法度條には、 一、従先年重々被ロロロ被仰出候得共、頃日に到而先法漸く令忘却、隈 にこり木落葉を掻候儀言語道断之事 一、近来千手山、愛宕山、鷲尾に而木葉を掻取候事以之外不宜思召候、 毘沙門谷より西表に而諸百姓木の葉掻候は御定之三貫三百匁之過料 可被仰付事 一、縦雖為近林御預置之山無其届して竹木伐荒候者於有之者追放可被仰 付候事 元禄三年 午 十一月五日普 門 院 厨彦右エ門 同勘左エ門 秋山瀬兵衛

山 林 法 度 之 條 一、山中竹木之法度 採薪之掟 右件々先制之通 堅可相守候旨 御入 院之砌より被仰渡候得共却而次第に猥に成行候に付 以外不宣思召 候 先制之趣に相背者有之候者 則古格之通之過料金全宥免不可有 候事 附 一、近林預り山之中に而無拠要々有之に付木を伐可申候はば其届申達極 印を申請木数之注進書付可差出候 若極印無之木持運候はば可為越 度事 一、衆徒中之下男採薪之義 近来先制二相背猥に罷成候 若無拠用意之 訳有之生木を採申儀有之候はば其坊之下男本坊江来り其段相届 役 人より板札を借り持山に入帰次第板札為相戻 向後板札持参無之生 木一本二而茂伐取候はば見付次第古格之通過料可令出之 犬神前御 供所并祭礼会場大師講等之薪之儀も右可為同然右之外者 板礼一向 に不可借渡事 (一七一一) 正徳元辛卯歳 普 門 院   十一月二十八日 厨 彦右衛門 小 林 団 治 長谷川八郎兵衛

うさぎ狩

 春になると野兎がしばしば竹の子の芽を食べにきた。解禁になると禁猟区である山に若者達が入って兎狩リがはじまった。子供達も兎狩りを楽しみにしていたものだ。捕獲用の道具はテニス用のネットである。まず兎道を知る事が大切で、その為には、はじめに犬に追わせて、兎道を覚えなくてはならない。兎の習性は犬に追われるとまず上に向って逃げ、その後、横に走る。若者達は犬の鳴き声をたどって兎道を確認するのである。見当がついたら先まわりしてネットを張って待ち、また下から犬に追わせるのである。足音もたてずに走ってきた兎はネットに気づかず足を引っかけて捕えられる。犬は大分遅れて走ってくるがネットを発見して飛びこす。
また「うっづめ」方式で兎を針金で捕まえる場合もあった。この方式はおもに小烏を獲る時に使ったものであるが、空中に跳ね上げるようにするのがコツで、足が地面につくとあばれて針金を切られることがあった。

兎肉の料理法

 醤油味の炊き込み御飯。刺身。(薬味は唐辛子、ニラの小口切)

たぶ

たぶ

たぶ

 杉の枝を曲げて半円形とし、内に網を張ったもの。御井公民館裏の溝(昔は水のきれいな小川であった)には小魚や貝が沢山いた。どじょうすくいの要領で"たぶ"を土手の方へ押し込み足で踏んで追い込むと、小えび、はや、どじよう小鮒などがよく入った。




吹き矢

吹き矢

吹き矢

 節の長い大名竹という竹がある。直径四、五センチで一節抜くと約一メートルにもなる。節を上手にくり抜いて筒を作る。矢は、バドミントンの羽根位の大きさに葉書をじょうご型に巻く。その先端の固く巻いた方に蓄音器の針をつけると出来上り。射程の限度は十メートル、百舌鳥なども捕れた。ところで当時は、小鳥にしても魚にしてもとったものを食べるというよりは、捕獲する事そのものが楽しみであり、遊びであった訳で、飽きることなく日暮れ近くまで野山や川で遊んだ。




大谷川

 この川は府中の川の中では、一番大きな川である。五メートル程の谷を作って、山あいから発し商家の裏手を、住宅の合い間をぬって流れている。特に下町の、「石口谷{いしぐったん}」と呼ばれるあたりは、子供の遊び場としては最高に面白いところだった。
川には、川がに、どんこ(魚)、ほうそう貝(貝がなまって「げえ」といった。いわゆる川になである)などの魚貝類が住んでいた。堰の岩肌にびっしりくっついているほうそう貝{げ}を、手を刀のようにしてずうっとこすり落とすようにしてとった。ひとつひとつとる場合は、砂地を這っていった跡を見つけて採る。ほうそう貝{げ}の食べ方は、甘辛く味付けをして、口の中でいきおいよく吸い出して食べる。揚子で刺し、ねじりながら回して抜き出して食べてもよい。

大谷川

 大谷川

貝の中に子が入っていると、ガリガリといって食べにくいのもあったりした。
このほうそう貝には面白い言い伝えがある。戦争が始まる前になると必ず高良大社の二本の楠の大木にほうそう貝げが登るというのである。先の第二次世界大戦の時に、実際にたくさん登ったそうである。地震の時の鯰のように、ほうそう貝が楠の木に登るという話は、近くに川があるわけでもないのに不思議ではあるが面白い。
大谷川の「石口谷」は、今は石で入り口がふさがれていて、わからないが、人が寝泊りできる程の大きな洞穴が自然にできていた。奥からはこんこんと冷い水が湧き出ていた。親に叱られたりして家を出て来た子供達が近所の畑の作物を食べながら、その「石口谷」の中でひと月も生活をしていたなどというのものんびりした良き時代を思わせる。
最後にゴミと川との関係であるが、以前は今のようにゴミをトラックで回収するわけでもなかったのでどのようにしていたかというと、「石口谷」の周辺の人達は、橋のたもとに投げ捨てていた。そしてそのゴミの山ができる頃になると都合よく大雨が降って、すべてきれいに洗い流してくれた。ゴミは堤に流れこんで沈澱して、肥沃な堆肥となったのである。旗崎池の場合、水を落とすと、近くの農家から争うようにして堤の中に入って推積した泥を取りに来た。切り取って持ち帰って、畑にまくのである。化学肥料全盛時代の今では考えられないような話である

玉座の跡

 第十二、第十八両師団参加による秋季特別大演習は、明治四十四年十一月十一日から十四日まで久留米市を中心として肥前・筑後平野で行なわれた。明治天皇は、十一月十五日午後三時、御井町の工兵第十八大隊作業場の大宴会場に臨席された。

大宴会場

大宴会場(鶴久次郎氏提供
「明治四十年。特別大演習写真帳」より

 当時の記録誌から原文のまま紹介すると、その様子が次のように記されている。 大宴会場に臨席あらせられ竜顔殊に麗はしく玉盞を挙げさせ給い議員に宴を賜うた。此の日賜宴の光栄に浴した者は伏見宮、東伏見両殿下を始め大臣元帥親任官勅任官演習参加の将校陪観の内外将校並に本県在郷の将校県在職の高等官等約四千人で実に曠古の盛宴であった。数分毎に打揚ぐる煙火の響と其間奏楽と共鳴して洋々和気場中に溢る。斯くて三時三十分宴会所を御発車久留米大本営に着御あらせられた。
となっている。文中には聞きなれない言葉がたくさん出てくるが、五十歳以上の人には懐しく感じられることであろう。

宴会場跡

宴会場跡

 昔は玉座跡は、大きな楠の木がまわりをとり囲んで、参道に玉砂利が敷かれその両側の桜並木は御井町の人々の憩いの場として終戦まであったのである。また、玉座の石碑の周りには植え込みがなされていた。今は道路に削りとられて三方に住宅が建ち並び、昔の面影を見ることはできない。 これも時代の流れというものだろうか……。
今は、矢取に向うバス通りの道路脇に「大宴会場之跡」と刻まれた御影石が忘れられたように立っている。
この賜宴には、当時愛宕山一帯でたくさん採れていた松茸を御馳走として三貫目も寄進したそうである。

府中の特産物・櫨

 筑後の櫨は、青木繁や北原白秋も歌ったように、この地方には欠かせないものである。もちろん、御井町も櫨は特産品であった。農家の重要な副産物として大抵どの家でも植えていたし、写真も残っているので、櫨のある風景は今でも偲ぶことができる。
  御井町の櫨は青柳安五郎さんが一手に買い集めていた。仲買人がいて、その年の実の成り具含をみて、一本いくらで買いとった。この方法は今でも柿や銀杏の木一本いくらというやり方で売買するやり方と同様である。
  櫨の実は冬の寒い時期にちぎったものである。手拭いでふうづつみ(頬かむり)をしてあごの下でしばり、「かぎんちょ」で枝を引き寄せてちぎった。この「かぎんちょ」の先端の部分は、ぐみの木の叉が裂けないといって、よく使われていた。相当長い竹のはしごをかけ、倒れないように三方から縄でひっぱって固定し、その上に登って「かぎんちょ」で引っぱりちぎったのである。竹ばしごの高さは、木よりも高かったそうである。ちぎった実は、木のまわりに敷いたござの上にどんどん落とす。
  櫨の木は道路に沿って植えるのではなく、枝が繁る分だけ、手前にひっこめて植えた。当然枝の下は陽当りが悪くなるので、畑は日陰でも育つ、らっきよう、みょうがなどを植えた。
  現在の商大前あたりの道路は、戦前は道幅としては軍事的な意味あいもあって、たいそう広く作られていた。
  その道の両側に大きな櫨の木が並んでいた。櫨の採集時期になると前記の光景がみられるのであった。また、櫨の木と木の間に竹竿を渡して大根が干してあった風景は、もう昔の風物で当時の御井町を覚えている人もだんだん少なくなってしまった。

櫨ちぎり

 櫨ちぎり(柳坂)

  木蝋は漆、櫨、ヤマウルシ、天竺桂などより採るが、なかんずく櫨は、その代表で あって、その裁培、採蝋、製蝋の諸過程は、ほとんど日本及び中国固有の産業とな っていて、古来農家の重要な副業となっていた。櫨からとった木蝋は、蝋燭の原料 に用いられたが、その他織物の仕上げ用、家具類の艶付用、医療用、洗濯用、石鹸 原料、飛行機塗料、靴墨原料として用いられてきた。昭和十七年(一九四二)の数 字では、全国に一万三三九町の耕地に裁培されていたとあり、他に八十一万本の作 付があったが、うち五百十五町は福岡県に作られ、百町以上の作付があるのは佐賀 ・愛媛・鹿児島・大分の四県にすぎない。この五県の合計は、全体の八十四パーセ ントを占め、残りの大部分も九州、四国に集っている。ちなみに全国の木蝋生産量 の動向を図でみると次のようである。

■全国生蝋生産量■
生産年 生産量(千斤) 作付面積
明治32年
(1899)
22,190
(およそ13.300トン

大正元年
(1912)
11,064
(およそ6,650トン)

大正11年
(1922)
9,803
(およそ5,880トン)
10,431町歩
昭和5〜10年
(1930〜1935)

およそ5,500町歩
昭和17年
(1942)

13,399町歩
*生産高・作付面積共に減少傾向にある。特に、昭和初期に入ると激減する。

櫨より木蝋をとるのは、十七世紀半ば頃琉球、薩摩経由九州、中国、四国の西部に広まったとされている。その地の農民の重要な現金収入の道となっていた。櫨の実より蝋を搾るには、俵のまま水に漬け一夜おき、翌朝とりあげ、よく水を切り、連架(からさお)で操り返し打って、実を房から落し、碓に入れ、ついて細粉とし、竹篩でふるったものを搾り器にかけるのである。明治三十五年(一九〇二)以後、櫨裁培、木蝋生産の減少した原因は、生蝋価格の下落によるものである。明治三十五年以前は百斤につき十五〜十六円であったものが、その後、時には四十円前後まで高騰したが、四十四年(一九一一)には九円に下落している。それは中国産生蝋の輸入が激増したのによる。それ以後、石油ランプ、電燈の普及がいちじるしく、燈火用の和ローソクの消費は激減し、あわせてパラフイン・ワックスの生産増加により、燈用以外の用途も減少した為、今日の状態を呈するに至ったのである。久留米藩領内での櫨蝋の生産高について、藩政末年の状況は次のようである。
櫨実収穫高 九六〇万斤
木蝋生産高 一九二〇〇丸(一丸は八○斤入)
(内 明細)
蝋燭製造用四〇〇丸
大阪出荷高六五五九丸
長崎出荷高 一七一八丸
(『久留米商工史』より)

池ん端(いけんはた)の名人の話

 放生池のたもと(池ん端と呼ばれる)に今でも小さな茶店があるが、池の鯉に与える麩を買った人も多いことと思う。その茶店の隣が田中さんという、もう亡くなっているが、小動物を獲ることにかけては名人だった人が住んでいた。生業は、木の根の彫刻師であった。戦争の前後に活躍し、御井町の人気者であった。空気銃や鉄砲を使って魚や小動物を獲ることにかけては並々ならぬ腕前を発揮するのである。

まむし

 まむしは田中さんが捕る最高の獲物である。まむしを呼び寄せるのに、笛を吹いたそうである。赤まむしが特に田中さんからねらわれた。見つけると火ばさみでつかみ、魚を入れるテゴ(ビク)に入れた。黒焼きにして粉にひいて売っていたが、当時は肋膜が多かったから、精力剤として体力をなくした人が、よく飲んだという。高価だったが佐賀あたりからも買いに来る人が多かったという。御井町のまむしの名所は、高良山の北谷、良山中学校のした赤坂池の谷、打越の三角堤の三ケ所である。生き血も精力剤として飲まれた。

ほととぎす

 ほととぎすの黒焼きというのもあった。女性の血の道の薬といわれ、産後の肥立ちが良いようにと、ほととぎすを捕まえ、これも黒焼きにして粉末を飲んだという。ほととぎすは、櫨の木によくとまるところから、櫨の木に芋虫を置き、魚の釣り針を芋虫につけておくと、それを飲み込んだほととぎすが、まるで魚のようにかかるというわけである。田中さんは何本も仕かけて回っていたそうである。キョキョキョキョと鳴くほととぎすも昔は黒焼き、現代は自然破壊による危機と、御難続きであろう。

もぐら

 もぐらの黒焼きは心臓病の妙薬といわれていた。もぐらは必ず同じ道を通るという習性を持つ動物で、もぐらばさみという罠で捕った。地面すれすれを掘るもぐらと、「掘もぐら」と呼ばれ、三十センチ下あたりを掘るもぐらの二種類いる。田中さんの他にも、もぐらを焼くのが上手な人もいたそうである。

すっぽん

 御井町には大分の安心院{あじむ}や、矢部川のようにたくさんいたわけではないようだが、旗崎の堤の底にたまった泥が堆肥として貴重だった頃、水を落として近所の農家が競って堤の底の泥を切り取る際、ビー玉位の小さな白い卵がたくさんみつかることがあった。夏の暑い陽に照らされて卵が艀化すると、小さなすっぽんがたくさん這い回っていた。昔からすっぽんは精力剤である。すっぽんを箸にかみつかせて、首をギューツと伸ばしたところを包丁ですとんと首を切り落として、血を採って飲むという事が行なわれていた。

石あて

 まむしが牙をといだ石を踏んづけると、足の裏のその部分が固くかたまって痛くなった。今でいうところの魚の目のようなもので、その固くなった患部を「石あて」といった。まむしが石で牙をとぐというのも、うす気味悪い話である。

ギュッタ

ギュッタ

子供の遊びとその道具

ぎゅった 今でいうパチンコ(ゴム銃)のことである。ぎゅったというのはゴムのことである。「ぎゅったまた」の叉の木は、紅葉の木が強かった。ゴムは医者の聴診器の生ゴムが強くて威力があった。今のパチンコはゴムが弱く、昔のにくらべてひ弱である。また小石をはさむところは、みの虫の皮を開いて使った。上等なのには、鹿の皮の切れ端を使ったりした。

ねんがら打ち

ねんがら打ち

腕の力の強い子供は、パチンコの威カを増すのに自転車のチューブを切って使ったりした。

ねんがら打ち 木の枝を四・五十センチに切って先を尖がらせて、地面に力いっぱい投げつけて刺すと同時に、相手の木にあてて倒した方が勝ちという遊びである。勿論木の先を削ってとがらせたのは、有名な「肥後の守」であった。
蝉取り網 細竹をまるく曲げて輪にして、棒竹の先にくくりつけて、粘りの強い女郎蜘蛛の巣の糸(ねばねばしている)をたんねんに巻きつけて網を作り、蝉をくっつけて捕っていた。 今ではさしずめナイロン製の補虫網である。

蝉取り網

蝉取り網

御井町役場

 今は祗園さんの境内に近代的な建物となって名称も「久留米市役所御井支所」と変わり、御井公民館と併置されているが、昭和五十四年七月までは御井小学校の校門の横に、木造二階建ての「役場」があった。それは戦後に建て変えられたもので、それ以前の役場は、昭和三年まで伊藤医院として使用されていた家屋を、そのまゝ利用していた。

旧御井町役場

旧御井町役場(合併記念誌「御井」より)

旧役場の横には井戸があり、そこには動物の死骸が持ち込まれ投げ込まれた。また昔は首吊り自殺が多く、この附近で一番多かったのは隈山であったが、高良山中でもよく発見されたという。そして必ず死体は役場の井戸端に持ちこまれ検査されるので、側を通る人に気味悪がられたものだった。ある日三メートルもある大蛇が捕えられてきたので皆で見に行った。 戦時中は御井町から出征する兵士はこの役場前で、御井校の児童や多勢の町内の人々の盛大な見送りを受けて、戦場へ出かけていった。





田の虫取り

 農薬がまだ普及していなかった頃には、稲の害虫は手でとる他、方法はなかった。しかし稲の葉を一枚一枚めくって虫をとることはとても一軒の農家でできることではない。そこで人海戦術で虫や虫の卵をとることになる。昔の学校は、今と違い地域とは不可分の間柄であった。虫とりなら子供でもできる。そこで御井小学校の全児童が、校区の田んぼへ先生に引率されて出て行ったのである。その日は手ごろな竹の棒を持って校庭に集合する。

田の虫取り

田の虫取り

まず整列する前に竹を使ったゲームをした。相手の竹をへし折った方が勝ちというゲームで折られた者はまた走って竹を切りに行き、息せききって戻ってきた頃には整列の号令がかかる。附設高校の前あたり、打越という所は、湿地帯の面影が今も残っているが、そこの田んぼはぬかるんで膝のところまで土の中にもぐり込んで、子供達はいやがった。そこに田んぼを持っていた農家もさぞかし大変だったろう。しかし打越でできた米の味が一番おいしかったというから、うまくできた話である。さて虫取りの作業だが、受け持ちの場所が決まると、持参の竹の棒を地面に水平にし、伸びはじめた稲をなぎたおすようにしてねかせる。そして葉の裏をよく調べる。「つまぐろよこばい」の卵がびっしりうみつけられている葉があると、それを葉ごとむしりとるのである。とにかく子供の小さな手で作業したのである。先生も田んぼに入った。昔は先生も子供達も地域の人達も運命共同体だったのである。蛇足ではあるが、今はそれぞれに豊かになりはしたが、人間として大切なものが失われてしまったような気がする。農家では学校の労働奉仕に感謝してお礼をした。それは学校で必要な紙などを購入して提供していたということである。

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