四、下町

屋号

 昔の、下町は商家が軒をならべた町並みで、御井町のみならず高良内、山川、下弓削その他近隣の村々からも人々が買物に集った。どんな商店があったか屋号とともにできるだけ調べてみると次のようになる。

下町

下町

年中行事

餅つき

餅つき

餅つき

 正月前の大事な仕事の一ツである餅つきは、二十九日は日が悪いので避けて日柄のよい日を選んで行なわれた。戦前、戦後の人手不足の時代には、「つこつこさん」と呼ばれる餅つき専門の人が回ってきていた。これは青年団がやっていたが、車力に「くど」や「うす」を積み、お釜を担いで町内を回った。家々ではあらかじめ洗っておいた餅米を出す。鏡もち、雑煮用小もち、おやつ用のかき餅をついてもらった。このかき餅用には、じゅる飴(水飴)又はきざらを混ぜ、そのほか、大豆などを入れることもある。又粟を使ってあわ餅を作ったりもした。この地方では餅は丸餅である。

年越しそば

 下町には商店が多い。商家の大晦日は掛け取りで日が暮れ、年越そばを食べるのは年もあけた午前一、二時頃であった。正月は旧暦でやり、新暦の正月を祝うようになったのは昭和七年頃からである。御井町でも昭和十四、五年頃まではそばを自作している家も多く、収獲したそばは高良内の水車小屋で粉にひいてもらい、そばがらをやると、ひき賃からその分を値引きしてくれた。当時は年越そばも自家でそば粉をこね、めん棒で伸ばして切り、ゆがいて作った。またそば粉で作る「けえもち」というのがある。そば粉にぬるま湯を入れ、次に熱湯でこねたのを、黒砂糖じょう油で食べる。これを「けえもち」と呼んで、主食やおやつとしてよく食べていた。

正月

福笑い

福笑い([日本大歳時記より])

 正月は年神様を迎えまつる年中行事の最初に行なう祭りである。元旦の朝は、まだ暗い内から井戸や泉へ若水を汲みに行く。途中で人に逢っても口をきかない昔からの習わしで、これは物忌みの気持ちを示すものである。桶、ひしゃく、手拭いなども新しい物を用意しておき、汲む時は洗い米などを水神にあげ、「福汲む、徳汲む、よろずの宝、今ぞ汲みとる」などと唱えながら汲む例もある。汲んできた若水で御福茶{おふくちゃ}などといってお茶を沸かしたり、また雑煮を作るのにもこの水を使った。 若水迎えから神々への供物に至る一連の仕事は、一家の主人が自ら行なうのが建て前で、それは祭などの神供{じんく}を男が料理するのと同じく、正月が年神のまつりであることを示している。こうして正月の三が日は女が家事から解放される時でもあった。


正月の子供の遊び

正月の子の供遊び

  年始の挨拶も分家から本家へ、子方から親方へ、つまり地位や年齢の下の者から上に向って祝福の言葉を述べ、その時、年玉を与えるというのは、本家の者や親方が年神様の代役を果しているということを表わす。今のようにお年玉は子供が貰うものになってしまうと、お年玉本来の意味は全く失われてしまう。御井町の人々の正月の暮しは次のようなものであった。大晦日は皆が風呂に入り、清新な気分で元旦の朝を家族で迎える。着物や下着、下駄、手拭いなど新しいものをおろした。ことに真新しい物を身につけた子供達には心はずむうれしい日であった。家族揃って氏神さまへお参りするのも元旦の朝のならわしであった。当時学校では元旦の儀式があり、子供達は学校へ行く。なかには紋付、袴姿の子供もいた。学校での儀式は、天皇の御真影に白手袋をはめた校長先生が丁重な礼をし、訓話となる。この時、教育勅語も読まれたものである。昔は奉安殿というものがあった。
正月は子供達も大っぴらに遊べた。男の子は紙のパッチ(めんこ)、焼物のめんこ、竹馬、たこ、胴ごま、「めっけん」といってけんかごま専用のもあった。女の子は羽根つきやお手玉などで遊んだ。当時「といも屋」でおもちゃを売っていた。 元旦は隣近所の挨拶回り位で、あまり他家へは行かぬものであった。また、朝のかまどの火入れは豆がらで起こした。それは、はじけるように勢いよく燃えるのが好まれたからである。

正月料理

おがみ鰯

おがみ鰯

一、 なます

大根、人参を千六本に切り、三杯酢で味をつけ、かつを節をふっていりこを置く。

二、おがみ鰯

塩鰯を羊歯、ゆずり葉の上にのせる。お飾り用。三日目に焼いて食べる。別名「鰯のいっこんずわり」

三、雑煮

人参、大根、里芋、かつおかぶ、小豆、するめ。昆布の 出しですまし汁仕立てにする。もちは焼いて器に入れる。

四、酢の物 

酢人参、酢牛蒡など

五、黒豆 

一晩水につけておいた黒豆をまた一晩かけて炊く。

六、ぶり

十二月二十五日に生ぶりを買って塩をして、羊歯、つんの葉(ゆずり葉のこと)を口にくわえさせ、しっぽをしばり、軒先に下げた。ぶりの切り身を茄でてその茄で汁でかつおかぶを炊き、それをぶりにそえて盛りつける。ぶりは正月には欠かせないもので、特に「嫁さんぶり」がいいようにと縁起をかついだ。塩鮭も当時は安価であった。

七、がめ煮

里芋、人参、牛蒡、連根、こんにゃくとり肉(すっぽんを使うこともあった)当時、農家ではどこの家でもにわとりを飼っていて、何か行事があったり、お客が来るとなると、自家でさばいた。鶏の首を縄でしめて、軒下につり下げ、おとなしくなったところで毛をむしり、たき火で残った毛を焼く。首を落とし腹を割って内蔵をとり出す。肝の中身をこわさないように取り出せるようになれば、鶏さばきも一人前とされた。中でも丸い形をした肝は、精がつくようにと温いうちに年寄りに食べさせた。ばあちゃんが目の前で「ツルリ」と飲み込むのを子供達は薄気味悪そうに見ていた。内臓はみなきれいにし、とさかも皮をむいてつかう。血も全部とっておき、固まったところで煮たり、がめ煮に入れたりした。肉のよい所は客用にとっておき、家のがめ煮には、骨の多い食べにくい所を使ったものだ。足は関節のところから二つに切りはなし長いまゝ入れたが、これを子供達は取り合って食べた。出来あがったがめ煮を器に盛り、針生姜をのせて供するのである。

八、数の子

数日前から塩抜きして、醤油のだしにつけ込んでおく。けずり節、唐辛子などを加える。

二日おこし

書初め

書初め([日本大歳時記より])

 正月は仕事を休んで祝うものであるが、正月は一年の縮図であるとか、めでたい日には仕事全体が順調に進められるという考えがあって、ほんの少し仕事のまね事をしてみるのが二日目の行事である。一般農村を例にとると屋内作業の仕事始め、農作業の仕事始め、山仕事の仕事始めの三ツの段階があった。屋内作業の仕事始めは、藁打ち始めなどが代表的なもので、藁をたゝいてぞうりの一足も作るとか縄をなったりした。農作業の仕事始めは、西日本では牛を農作業に使う事が多いので、「牛の追い始め」といって、使い初めをした。(但し十一日頃)山林関係では、「初山入るぞ」と言い裏山へ行って木を一本切って仕事始めの意味をもたせたのである。

 商家では、初荷“帳祝い”が仕事始めにあたる。帳まつりとは新しい帳面を氏神に供えたのである。このほか、個人的行事としては、書きぞめ、縫いぞめなどがある。これらは寺小屋で手習いを教え、針子に針仕事を覚えさせるような制度が始まってからの事であろうが、それでも新年に改まった気持で筆をとり、それを座敷にはりつけておいて、小正月の“どんど”の火で焼き、ほのおが高く上ると手が上る(字が上手になる)などという。風呂の入り初めを“若湯”その他、初笑いという具合に、年があけてはじめての動作、行動のすべてに関心をもつのは、正月を一年の縮図と考え、この一年を平和に過したいという切実な願いが込められているからである。二日または三日には「節」といって分家や嫁に行った人たちが、家族中で本家(里)に集まり、正月を祝った。本家の嫁は前日からその準備におわれ、当日はお客の接待に大わらわで、この「節」が終わらないと実家にも帰れず、大変な思いをするのだった。

七草がゆ

 小正月ともいい、七草がゆを食べる。七草は家の近くに豊富にあった。六日夜、「せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ」の葉を茹で、まな板の上で、包丁の背としゃもじでトトンのトンとたたく。家族中でたたいた。その時口ずさむ歌。ななくさ なずな唐土の鳥と 日本の鳥と渡らぬうちに ストトコ トントン茹で汁を取っておき、七日の朝、味噌をたて、その中に切っておいた七草を入れる。つまりこの地方では七草の味噌汁にしたのである。また一般には、夜ツメを切る事は縁起が悪いとされているが、この茹で汁を少し器にとり、手足のツメにつけておくと、いつツメを切ってもよいといわれている。

ほけんぎょう

ほけんぎょう

ほけんぎょう

 七日には子供達が楽しみにしている「ほけんぎょう」があった。六日の夕方材料を集め、竹や藁でやぐらを組み、正月に使ったしめ縄、お飾りなどを中に入れる。立てる場所は、空き地や道路の真ん中で、下町では中ノ丁と合同で、現在、野瀬さんの家のあるところが以前は広い畑だったので、そこに作っていた。
 火をつけるのは大抵、夜明け前であり、火柱の太さや孟宗竹の破裂する音の大きさを、各町内で競い合った。下火になると各自持ってきた餅を焼いて食べる。これには一年間の無病息災を祈る気持がこめられているのである。この行事は、準備からすべて子供中に属している者たちの手で行なわれた。昭和六十年一月七日、御井校区でも二十数年振りに「ほけんぎょう」が復活した。これは農協青年部の人達が、今の子供達にこのような昔の行事を伝えたいとの希望から企画し、町内の各団体の協力で実現した。前日高良山から竹を切ってきて、藁や豆ガラを加え中にしめ縄や飾りを入れ、往時そのまゝの「ほけんぎょう」のやぐらが校庭にそびえた。七日の早朝、二百人もの人々が集まり、雄大な火の手に歓声をあげた。農協婦人部の人達が、焼いた餅でぜんざいを作り、参加した子供達を喜ばせた。

もぐらうち

もぐらうち

もぐらうち

 十四日朝は「もぐら打ち」がある。前日におじいちゃんやおとうさんは子供の数だけ道具を作り準備した。その作り方は、一間半位の真竹を使い、竹の先二尺位の枝葉をのこし、下はなたできれいに払う。先をまげて戻し、藁をあて縄でぐるぐる巻きにしばる。(図参照)竹の弾性を利用して家の周囲を「もぐらぁえっし」と言いながら、パン!パン!と、大きな音をたてて地面を叩きながら、回る。いい加減打ち回って折れると、梅や柿の木に掛けた。 タ方には「さぎっちょ」(左義長とも書く)といわれる行事をした。

ぬすどん番

ぬすどん番

 お正月のしめ飾り、栗へばしなどを家の前で焼く。その時、竹を細長く割ったものを焼いて「ぬすどん番」を作った。これを木戸口に立てておくと、どろぼうが入らないとの言い伝えがある。夕食には「ほだれ菜」(穂垂れ菜)をつくる。これは青菜(かつおかぶが多い)を根のついたまま、味噌汁、又はすまし汁にして中の菜っ葉をごはんの上にのせ、茶椀の縁から葉先を少し垂らす。それを箸でつまみ茶椀の上で三回まわして食べ、後で御飯とおつゆを食べた。
茶椀の縁からわざわざ垂らすのは、稲の穂が長々と垂れるように、つまり五穀豊穣を祈ってである。

左義長:   火を神聖視することを基本として、病気や災厄をはらおうとする行事である。 「サギチヨウ」「ドンド」「サイトウ」「トリオイ」「カマクラ」など、名称も行事のやり方も地方によってまちまちだが、基本的な考え方は同じである。

ほだれ菜

ほだれ菜

小正月行事のうちでも、子供達にもっとも活躍の場が与えられている行事で、「子供組」が顕著な活動をするのもこの時である。この行事は内容的には大きく二つに分けることができる。一つは注連縄{しめなわ}や門松などの正月の飾りを集めて、村はずれで燃やすためで、「ドンドヤキ」などと、呼ばれている。もう一つは、村はずれでやるのは「道祖神」が「サイノカミ」(塞の神)とも呼ばれているように、邪霊悪鬼が村の中へ入って来ないよう、村境で防ぐ機能をもたせている。正月の飾りものをここで焼くのも、こうした境は、神がまつられ、神を送る場であったことと関係する。

モグラ打ち:  西日本では、小正月に「モグラウチ」が行なわれる。竹竿の先に藁づとをつけた棒で、畑や道を子供達が叩きながらモグラを追う行事である。この「モグラウチ」のはやしことばの中に、嫁が子を産むようにという意味あいもあるので「嫁たたき」との類似を見ることができる。さらにモグラを打った後、藁づとのワラを成り木にかけておく地域もあり、「成木責め」とも関連すると考えられる。「ドンド焼き」や「モグラウチ」などは、元来は村単位で行なうものであるが、最近では学校の教師がつきそったり、学校行事の一環として行なわれる例もよくみられる。
   (『子ども歳時記』よリ)

十五日

 成人の日であるこの日は「だんだらがゆ」をつくる。お正月に飾った「おてかけさん」といわれる米にあずきを混ぜ、赤飯を炊く。出来上る直前に鏡餅の砕いたものをのせる。篠竹を家族の人数分、小指ぐらいの長さに切り(節のないもの)米と一緒に炊く。その篠には目印をつけ夫々のものを決めておく。その中につまったご飯粒の数等でその年の運勢を占う地区もある。

二十日

 正月から使ってきたぶりも、この頃になると骨だけになる。この日を「骨正月」といい、里芋、大根などと一緒に 粕汁にして食べた。これでぶりも残すところもなく食べられてしまったのである。

日田屋

 中ノ丁で八百屋をやっている御船さんの屋号である。元は「日田屋旅館」といって宿屋だったが、宿屋をやめてから、うどん、そばを出す食堂となった。その頃の話である。庭の通りに面した所に、横六尺、縦四尺の大きな板の手造り麺用の打ち台が置いてあり、「ちきり棒」のようなめん棒と、対をなしていた。そば粉は「みつ車」(水車{みずぐるま}のなまり)から仕入れ、うどん、そばにかける唐辛子は赤胡椒を火消しがめに入れ、むし焼きにし、それを粉にして作った。当時、肉うどん大盛りが二銭だった。

天満宮さん籠り

天神さん

 天神さん

 天満宮さんはもともと祗園社の裏に三社並んでまつられてあった。しかし大戦末期の混乱の時代に老朽化して放置され、無用になったと思われたのであろうか、井戸に投げ込まれて捨てられる羽目になった。大鍋屋の青柳安五郎氏は、日頃から信仰の厚い人だったので三体あった天満宮のうち下町のぶんだけでも守ろうと思い、残った石材も利用して自宅の庭の隅に移しまつったのである。それ以来、祗園さんの裏手の天神さんの前で行なわれていた天満宮さん籠りは、青柳さんの裏庭で行なうようになった。二間四方よりやや広く支柱を立て、人の背丈の半分の高さまですき間なく莚{むしろ}をたらして風をふさぎ、その中央でかなり大きな焚火をする。そして莚をおおうように、黒地に白抜きの梅の紋の入った垂幕を周囲に張りめぐらすのである。(とはいってもその垂幕もいたみがひどく昨年焼いて廃棄してしまったということである)特に「祝詞{のりと}」があがるわけでもなく、本家と分家が集まって、酒等が出て、二時間程焚火で暖をとりながら過ごすというものであった。十一月でも雪の散らつく年があった。お籠りの月日、十一月末日。お寵りをする人々、大鍋屋(青柳本家)小鍋屋(別名醤油屋)小森野屋(龍頭家)天狗屋。天満宮さんお寵りの料理、祗園さん時代は、三角にぎりめし、ひじきのいためもの、漬物。青柳さんの庭に移ってからは、かしわ、にんじん、ちくわ等の入った炊き込み御飯。時にはさつまいもでといも飴を作った。最近はぼた餅が多い。

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