三、高良山

水明荘

 ブリヂストン株式会社、石橋家の別荘「水明荘」が高良山の麓、御井町高良山地区にある。石橋氏は別荘を建てようとして競輪場をはじめ数箇所探したが、白羽の矢を立てたのが高良山の現在地であった。

水明荘

水明荘

明治三十六年生まれの青柳卯次郎さんの話によると、ここには昔、有馬藩第二家老馬渕与五郎、学者の中野某(彼は水明荘の奥にあたる所に住んでいた)御典医だった後藤氏、(中野氏の上手に住み、高良山の山林の管理もしていた)が先住していた。その後、馬渕与五郎の家敷は営林署が買いあげて使用し、更にその後、農作物の品種改良に熱心だった厨氏が買い取りみかん栽培をしていた。
 さて久留米大学から高良山へ向かう道路角に、ブリヂストン・水明荘に縁の深い権藤麒麟太・熊次氏の兄弟の家がある、権藤家には「至誠一貫」と書かれた見事な額がかかっている。筆を執った人は海軍大将大角岑とある。この大角岑は水明荘の名付け親である。
 昭和五、六年頃の話だが、今の水明荘の建っている一帯の土地は当時二人の人物の所有であった。その一人は「ニワトリ金ちゃん」(どう探しても血縁の人に行き当たらない)である。このアメリカ帰りといわれるニワトリ金ちゃんは東門(放生池の前の御影石でできた大きな門)とその背後の石垣を作り、将来は自分の家をこの地に建てようと準備したのだったが、家は建たずに終ってしまった。その後、その土地は石橋家がもう一人の所有者「村井さん」ど「ニワトリ金ちゃん」から購入して昭和十一年東郷平八郎の別荘だった建物を運んできて再建し、水明荘が出来たのである。
 高良山へ向かって御手洗橋を渡りはじめると、放生池の右手にこんもりと繁った小高い山がある。元は豊比盗_杜、絵馬堂、桃青霊社等があったが、この土地も高良大社から依頼されて、石橋家が購入し水明荘の一部となった。しかし桃青霊社については購入後も参詣の人々が絶えなかったので、宮地嶽へ移されたのである。
 昭和三十一年秩父宮妃殿下が久留米に来られ、水明荘に宿泊されることになったが、建物が老朽化しているので妃殿下をお泊めすることは出来ないと考え、東郷平八郎の別荘であった建物は御井町に公民館として寄附し、別にお泊りになる棟を新築した。
 水明荘は久留米に有名人が来るとその宿泊所としてしばしば利用された。戦争中には双葉山がブリヂストンの工場に奉仕作業の為に来て、水明荘に宿泊したし、木村庄之助(行司)も泊まった。戦後は硫黄島攻略の時の司令官ウォンハム大佐が駐留軍の宿舎として使用した。また当時交通関係の仕事に従事していたキーン中佐も宿泊した。
 権藤麒麟太さんは水明荘の管理人として人生の大半を過ごした人だが、終戦後は米軍の将校クラスの人達の世話をすることになった。将校はいつも麒麟太さん達が自分達と平等であるようにと心を配った。口ぐせのように自分達と同じ食事をするようにと言っていたという。占領下の、それも使用人に対してである。心の広いアメリカ人気質に麒麟太さんはいたく感動したと、今も語っている。

袴着天満宮

 この天満宮は、今は高良山地区の出目天満宮と呼ばれる神社の境内にある。大きさは三角形のひとかかえ程で、その中央に梵字が彫られている自然石がこの袴着天満宮の御神体である。
 もとは御井小学校の校庭のむくの大木の下に祀られていた。

袴着天満宮

袴着天満宮

 学問の神様、菅公に由来する天満宮さんは校庭とよくなじんでいたが、戦後学校に特定の宗教をまつることが禁止され、宗教と教育の分離が実施されると学校の敷地内から出目に移された。
 学校から天満宮が移転してしばらくの間は酒一升を持ってお参りをしていた校長先生もいたそうである。
 その後昭和四十年代に入ると、高速道路建設計画が打ち出された。出目の天満宮がちょうど高速道路が通る場所にあったので、着工と同時に袴着天満宮も共に、今の場所に再度移されたのである。七月二十四日に座と夏祭りが行なわれている。 菅原道真がこの地で袴に着がえたとのいわれから「袴着{はかまぎ}さん」の名で親しまれ、その御神体に刻まれた阿弥佗を表わす梵字が今は風雨にさらされ、ひっそリと立っている。

高良山の御神幸

 御神幸は三年と三十年にそれぞれ一度行なわれるものと、五十年毎に行なわれる大祭とがあった。盛大に行なわれた御神幸の最も時代の新しいものでも、戦前、昭和十六年四月十六日の五十年祭である。この時の様子を十六ミリフィルムで撮った記録が、高良大社に保管されている。高良大社が専門家に依頼して作らせた映写時間約一時間の記録映画である。今、観ても堂々たるもので久留米の市中を篠山城まで行列が続き、沿道は見物人で賑わった。高良山の全盛時代が偲ばれるものである。

高良大社

高良大社 御神幸(平木嘉穂氏提供)

 昭和十六年といえば、年の瀬も押し迫った十二月八日には太平洋戦争が勃発するのだから、その直前に五十年祭を盛大に取り行なったことは幸運だったといえる。
 昭和二十六年にも御神幸は行なわれているが、この時御興の一部が祗園さんに置かれたままになっていて、その後高良大社に担ぎあげられた。この時からしばらくの間御神幸は中断するのである。
 そして昭和三十六年に御井町を回るだけのささやかな御神幸が取リ行なわれてその後、今日まで二十四年間、一度も行なわれていない。
御神幸は大抵高良山地区の人々によって行なわれていたが、代々御輿を担いだ人の子、孫が奉仕的に担ぐこともあった。それらの人々は八女・浮羽・城島など広範囲に渡っていたらしいが確認はできない。
 この三十六年の御神幸では、三体の御輿のうち中心となる玉垂宮を象徴する御輿を御井町高良山地区の氏子が担ぎ、八幡宮を高良内、住吉宮を大善寺の氏子達が協力して担いだ。御神幸に使われる獅子は明治はじめの頃の作と思われる。その他風流の道具、御幣もいつも高樹神社に保管されていて、虫干しなどもきちんとされて祭に備えられていた。
 現在でも、元旦に大社に詣でると子供の頭などを獅子に噛ませて無病息災を祈る光景がみられる。また風流は保存会があって、子供達から後継者が出るごとが期待されている。

高良山ぐんち

かます寿司

かます寿司

 十月九日から三日間は高良大社のおくんちである、今はおくんちにお参りする人も少ないが、昔は広手から本坂下まで露店が立ち並び、近郷近在からの参拝客で大変な賑わいだったらしい。参道沿いの家々では露店商にツボ(庭先のこと)を貸して、おくんちで訪れる客の接待費を稼いだ。二間貸すと五円になった。高良山は「佐賀のおくんち」と言われるほど佐賀の人が多かったという。
 子供達は三人、五人と連れだって露店をのぞきながら、二、三回は山を往復したという。そして金明竹あたりでバケツに手洗い水を入れ、竹びしゃくを持って「手水銭{ちょおつせん}」一回につき一銭を稼いでサーカスや見せ物小屋をのぞいては楽しんだ。
 この日は他家に嫁いだ娘さんや親類の人が大勢寄るので、どの家でもかます寿司や栗おこわ、がめ煮、甘酒などのご馳走を用意した。

獅子舞

獅子舞

獅子舞(平木嘉穂氏提供)

高良山ぐんちでは獅子舞いが御井町の各戸を回り、家内安全を祈願して舞い、御祝儀をもらって酒のふるまいを受けた。その日は土足のままで座敷に上がって舞っても無礼講である。
 町内を一巡すると市内へくり出して行き、お神酒をもらうと前獅子が「酒をためそう、後獅子も飲まんか」といって酒を後へ回す。もちろん酒は獅子の衣装の中で回されるから外からは見えない。そこで後獅子は、用意してきた一升瓶に酒を移し変える。これを繰返して次々と酒をため、つき添った者がこれを御井町へともちかえり、うちあげの酒盛りをするのであった。市内へは何度も往復したものだった。ただし御馳走は持ち帰れないのでその場で食べてしまったという。

駕籠かき:   高良山の駕籠は有名であったらしい。日頃は忙しい人達も時には駕籠を担いで現金収入とした。池の端の茶屋の前にいつも二、三丁置いてあって山頂へ客を運んだ。駕籠に乗るのは金持で、普通は貸杖(女{め}の子竹で作ったもの)が置いてありそれを使う人が多かった。

高良山のお観音講

 高良山のお観音講は女性だけの講である。毎年十二月十七日に行なわれる。近辺では出目{でめ}・賀輪{がわ}・西井河{にしんご}・瀬戸でこの講が行なわれている。講元を受けた家に数珠・鏡・木槌・掛軸の四点がまわっていくことになっている。鏡の裏には、高良山頼母子講中、文政十三年寅四月・植木政光作と製作年月日が刻まれている。
 また掛軸の古びた木箱の蓋の裏には毛筆で、嘉永戊三年二月吉祥日宝蔵下町と明記された江戸末期の立派な釈迦来迎図である。
講の日には主婦やおばあさん達があつまり精進料理を作る。
(献立)
一、あずき御飯
一、煮なます(大根の千切リ、こんにゃく、油揚げを少々の油でからいリし、二杯酢で味つけ)
一、のっぺい汁(里芋・こんにゃく、ごぼう、揚げ、豆腐、人参、大根などを材料にし、吸物風に味付け、葛でとろみをつける)
一、ざぜん豆、(大豆を煮て、砂糖じょうゆで味付けをする)

高良山ごもり

観音仏像

 観音講三尊仏図

鐘・数珠

 鐘・数珠

 高良山茶園{ちゃぞの}地区に住む八軒の神主関係の家の人々が正・五・九月の五日に高良山に登って大社に参り、籠っていた。しかし時と共に山に登って籠ることもしなくなり、やがて各個人の家に集まってお籠りをするようになった。
 座元では各人のおにぎり一個とお神酒、ざぜん豆(ここでは、きじ豆の煮たもの)一皿、いりこの煮物一皿、酢の物、煮物(こんにゃく・ごぼう.芋等を醤油味で炊いたもの)を用意した。八軒しかなかったので子供達まで加わって全員でお籠りをした。
 座ではどこでもやるように、お神酒の出る前に謡曲が披露された。しかし時代もめまぐるしく移り変わって次第にその姿を消していったのである。

大座・小座

 「座」とは同じ信仰の神を対照として祭祠を司る組織の集まりを言う。昔は御井町の各地区で座がもたれていたが、現在では高良山地区と矢取地区の一部でその名残りをとどめて存続している。

高樹神社の座
高樹神社

 高樹神社

 高良山の郷社高樹神社の座は、十月十三日に行なわれる。大座の座元の家は竹二本を玄関前に立てて、左ないのしめ縄を横にわたして御幣を飾る。生ぶりを一尾買い、さしみを取り、残りをぬたに入れた。座の料理にはこの他にがめ煮がつきものであった。
人々は座元の家に集まり、つぼ先(庭先)に敷いたねこだ(莚)の上に飯台を置きご馳走を食べた。

出目の天神さんの座:  七月十四日と十月二十四日の二回行なわれる。十月の座の前日には堤の水を落として川魚をとり、かげ干しにする。干した魚は串にさして素焼きで保存する。 当日味をつけて焼き直して酒の肴にするのである。
 ご馳走はこの他に吸物、ぬた、かまぼこの大板、小板、甘酒も出される。天満宮の社にしまってある飯台の上に料理を並べ、朝から神主さんを呼んで神事をとり行なう。


 
出目天満宮

 出目天満宮

座元の交替は「戸渡し」といって当番の家へ座の「通帳」や関係書類を持っていき、渡す人と受ける人がそれぞれ湯呑みで酒を三杯ずつ飲んで「戸渡し」の儀式を取り行なうのである。

瀬戸の組内の座:  大座の下に組内に行なう小規模の小座がある。この時も料理はがめ煮、ぬた等が主であった。しかしこの座は農業を辞めて勤めに出る人が多くなるにしたがって自然に消滅していった。
 経済的には昔とは比較にならない位豊かになったけれど、現代の人と人との繋り・家同志の絆・心の結びつきがなくなっていく過程がこのことにおいてもみられる。

英彦山ごもり

 昔は正・五・九月十五日に家まわしで行なっていた。更に年一回は英彦山にお参りする。現在では住いも散りぢりになってしまったが、もと高良山地区に住んでいた十七・八人の仲間で講が構成されている。
 講は旧十二月五日、現在は一月十五日に甘酒、がめ煮、赤飯などが用意され、九家族が揃って参加する。玄関に竹を立てて、しめ縄をはり、床の間に英彦山の掛軸をかけ、五穀豊穣、厄除けを祈願する。
 三月十五日には各家から一人ずつ出て英彦山詣でをする。三月でも雪が積もることがあり、雪深い山道を杖をついて登るのは難儀なことである。ようやくの思いで山頂にたどりついて、お宮の前の茶店で「力餅」を食べると疲れも癒されるのであった。
 その英彦山まいりに加わる者には講中や親戚から「お雑餉{おざっしょう}」と呼ばれる餞別が贈られた。昔は険しい道中を行く仲間に対して無事を祈るとともに、道中の経済的負担を少しでも軽くする意味で金やそれに替る餅や米などが与えられた。
 大正五・六年頃高良山地区に「英彦山連中」という組織があった。当時はすでに久大線に汽車がドーナツのような煙を勢いよくはいて走っていたが、英彦山に詣でる講中の人々は府中から浮羽の大石まで歩いていき、杷木の渡しで筑後川を渡り、さらに小石原まで山道を行き、当時二十軒位あっただろうか、小石原の宿で一泊したのであった。

山伏

 山伏


 その頃の人々の生活も非常に忙しく、小石原から英彦山へ一日で往復し、二晩目も小石原に泊まって、翌日の早朝府中への帰途についた。
 英彦山にはいわゆる「英彦山山伏{やんぶし}」と呼ばれる山伏がいて、府中あたリヘまわってくる顔見知りの山伏に会うと、山で泊まっていくようにうるさく誘われたものだった。
 そうこうして府中へ帰りつくのだが、親類や近所の仲間に配る英彦山土産は「ひこさんガラガラ」やお札{ふだ}類であった。お札は「虫除け」として竹の先にはさんで田や畑に立てて使用するならわしがあった。
 「英彦山山伏{やんぶし}」は白装束を身につけ、大きな珠数を首からぶらさげて、頭には六角帽(兜巾{ときん})、錫{すず}のついた杖、ぶうはんげ(ほら貝)を持っていた。四・五人で組み寒行に回って来るのだった。
 英彦山から到着するとまず知らせが入る。すると各家では水をはった桶を玄関に置いて山伏が訪れるのを待っている。玄関に立った山伏は、頭から水をザブリとかぶって身を清めると祈祷をはじめるのだった。
 そうやって町内を回り終えると、主だった家に寄り、風呂に入って冷えた体をあたため、一泊してまた他所の地区へと祈祷を重ねて行くのであった。 {山伏}
 ところで、田主丸の或る農家の神棚に次のような英彦山関係のお札があった。

 表―英彦山神杜 御神霊
 裏―古賀直三郎殿
 内容 英彦山神社保有会ヲ賛シ金弐圓神納相成候段感謝ノ至
     ニ堪ヘス依テ五等神璽ヲ贈進シ無窮ニ家門之隆盛ヲ祈
     祝ス
  明治三十三年十月
    英彦山神社保存会長
     従四位男爵 高千穂宣麿
    浮羽郡川會村
      古賀直三郎殿

 いつの時代にもどこの地域でも、人々の生活の中に英彦山への信仰が深く根をはっていたという証{あか}しとしてこれを掲載しておきたい。

同志会

 高良山には有名な「同志会」という明治初期にできた強力な組織があり、年令に応じて十三歳から十六歳までの男児で構成された三番組、十七歳から二十歳までの二番組、二十歳以上、四十一歳までの一番組という男性だけで縦割に組織されていた。
 この会には日常生活における厳しい"掟"(約束事)が決められておリ、守らなかった者には体罰が与えられた。子供たちはこの組織の中で必然的にしつけられていったのである。お年寄りから当時の思い出話しを聞いた。

きもだめし:  夏の或る夜(よどの晩)愛宕神社に泊まった。夜中の一時になると十三歳の男子は宮地嶽まで、十四歳は稲荷神社まで「きもだめし」に出かけた。月明かりの中を一人一人、でかけて行き、お墓に立ててある卒塔婆を取って帰ってくるというものだった。年長の者があちこちに隠れており、木をザワザワいわせたり、いろいろ工夫して恐ろしがるようにしむけた。当時はほんとうに怖い思いをしたものだった。

奉仕: 大正三年、桜島の大墳火があり現地では大きな被害を受けた。そこで高良山同志会では、三反三畝の田を持っていたのでその収穫物を売った代金の中から被災地へ五円の寄附をしたお礼に鹿児島県知事から感謝状をもらっている。
 当時の「同志会」は子供達にとっては怖い集団でもあったが、このようにして人間形成の上で重要な役割も果していたものと思われる。今では、子供の組織はなくなっているが、十七歳以上六十歳までと制限枠を緩和して、同志会の活動は継承されている。
 矢取長寿会の取材では、子供の頃高良山で過ごした人が多く、その思い出話が出た。その中でも子供が大人に対して必ず言わなければならない挨拶に次のようなものがあった。


もしこのような挨拶を少しでも怠ると、子供中の集まりの時になぐられた。同志会の集まりで濡れ手拭いのしぼったもので打たれるのが怖くて、朝からごはんも喉に通らない日もあったとか。

お不動さん

お不動さん

お不動さん

 御井寺の前の「不動明王」では、毎年地蔵盆の後日、八月二十八日の夜(五十九年からは朝に変わる)には「よど」があり、高良山地区の橋ロサカエさんと高来屋さんや近隣の人達の手でお茶やかぼちゃ、大豆の煮た物が供えられ、ご詠歌も歌われてお詣リをする人々のお世話をする姿がみられる。
 俗に「オフドサン」と呼ばれ親しまれている不動信仰は、御神体に鎖や縄を巻きつけて、いわゆる"願{がん}"をかける「不動の金しばり」という言葉にも表されているように、願望の成就や遺失物の発見など身近かに起こるささやかな難題を解決してくれる対象として庶民に支えられていた。

祈祷師

 性海法師という祈祷師が筑後一円をまわっていたという。橋口さん(前出)の先祖である。詳しくは橋口性海実裕、明治三庚午歳、正月十六日滅とある。今でも北野の荒神坊、大城清人さんが祈祷にまわっているということであるが、荒神さんのお札を売ったり、星祭りの占い、「いつどちらの方角は用心しなさい」という方除けのまじない、魔除け・厄除けをしてくれる。
 荒神さんは、かまどの神様である。昔はお札を台所のかまどの上などに祀っている家が多かった。旅に出ようとすると、「いってらっしゃい」の挨拶がわりに「荒神さん、いただいていきよんのう!」と声がかかる。くど(かまど)の炭を体のどこかに塗って旅に出ると無事に帰れると言い伝えられている。

猿田彦

 高樹神社の石段左手に大きな猿田彦が祀られている。言い伝えによると、その石を拝むと歯がつつく(痛む)のが治るといわれている。

虚空蔵さん

虚空蔵さんのお守り

虚空蔵さん

 一月十三日、九月十三日に祭りが行なわれる。「足手の神様{かみさん}」といわれているが、本来は商売繁盛の神様で、参ると小遣いに不自由しないといわれる。
 祭りの日、御井寺は虚空蔵さんに十円硬貨を紙につつんでおく。お参りをした人はそれをいただいて財布に入れておく。いつのまにか包み紙がすり切れて、出てきた硬貨は知らないうちにつかわれると御利益{ごりやく}があるといわれている。
 その時いただいたお金は、次のお祭りに参拝して倍にしておかえしする。(十円の場合は二十円かえす)

天道花

 旧暦卯月八日に「天道花」が飾られた。本来はお釈迦様の誕生を祝う花祭りに飾るのであるが、近代になって花祭りは新暦で行なわれるようになったのに対して、「天道花」風習は依然として旧暦の方に残っている。

天道花

 天道花


 今でもこの古くからのしきたりを守って続けている家では、庭先に長い竹竿の先に山つつじを中心にして、あざみ、春菊の花、むらさきつゆ草などを十字に結びつけて立てられる。天道花は五月の風に泳ぐこいのぼりと共に、さわやかな初夏の風物詩であった。
 五月に入って行なうというのは、材料に使う花の開花時期との関係があるのであろうか。その日は道行く人に甘茶がご馳走される。

高良山の鍛冶屋

 高良山地区瀬戸に鹿子島久二郎という人の鍛冶屋があった。「とうが」「三本鍬」「平鍬」「びっちょ鍬」「庖丁」などを作っていた。この鍛冶屋は戦前まであったという。

金子博信画伯

 高良山の麓で生まれ、幼な友達から「梅しゃん」と今も懐かしがられている金子画伯、(梅吉、後に博信と改名)は、御井小学校卒業後明善中学から今の芸大へ進み、画家として現在も東京において現役で活躍している。
 小学校時代から絵のうまさは抜群で、みるみるうちに見事な絵を書きあげていた。
「金子博信画集」の後記「私の歩いた道」という短い白伝や、幼な友達からじかに聞いた生い立ちを総合してみると、画伯は明治三十一年生れ。

金子博信画伯

 金子博信画伯

絵の好きな母親の影響を受け、高名な安井曾太郎に師事し、印象派風の写実画を描いて今日に至っている。八十八歳の高齢ながら驚くほど若々しい力あふれた画風である。画伯の生家は、高良山放生池から府中にむかって下がってくる参道沿いにあった。小学校五・六年の時に出会った、絵が上手で教育熱心な小川先生の影響を受け、明善校では青木・坂本を教えた武田先生を師と仰ぎ、一級下には古賀春江もいた。
 画伯は絵に熱中するあまり、成績は落ちるし、芸大に入る時も働きながら浪人して画塾に通うという苦労を重ねて初一念を貫いて入学する。同期には佐伯祐三がいた。
 画伯は大正九年に一時帰郷するが、佐伯祐三のフランスでの活躍を聞いて刺激を受け上京する。そして小学校の教師をしながら絵筆をとりつづけ、二科会に入選、その後一水会で出品される様になる。戦時中も絵一筋に専念し、終戦後の混乱期には肖像画を描き続ける。
 画集を見ると画伯は風景、肖像、静物と広いレパートリーを持ち、その絵は光るようにきれいな色を駆使し、年を経るに従って、逆に絵の内容が若がえっていくように見受けられる。
 御井小学校の石碑に彫られているが、旧講堂には画伯の手になる「関東大震災」の絵がかけられていた。

高来屋

屋号の由来: 明治二年有馬頼咸公が高良山蓮台院を陣屋(高良山御殿)と定め移ってこられると、高良大社々務所附近に住んで茶屋を開いていた渡辺イソさんは、殿様より上に住いがあっては失礼になると住居を高良山の麓の現在地に移した。
 イソさんは文政三年八女郡星野に生まれ、明治初期に高良山の渡辺家に嫁いできた。大正三年に八十七歳でなくなったが、高良山頂から下りてきて再びはじめた茶屋に、有馬公が御殿に帰られる時にしばしば休憩された。谷の向こうには四季折々に美しく 変化する山裾が広がり、景色の見事さに有馬公は馬の足を止めて、イソさんの身の上話を楽しまれたという。 ある時、有馬公はイソさんの茶屋に屋号のないことを知り、「高来屋」と名づけられた。
 それ以来府中の人々もイソさんの茶屋を「高来屋」と呼んで親しんできた。茶屋の名物は、「大福餅」「トコロ天」「甘酒」、高良山おくんちには「かます寿司」も売られて評判をとった。

家伝の目薬: 昔、旅の僧侶に請われて一夜の宿を貸した。その僧侶が宿泊のお礼にと、目薬りの秘伝を授けてゆく。しかし決して作り方を口外してはならないと一言われ、その約束は今日まで固く守られていた。イソさんの前の婚家先であった広川の寺に伝わった家伝薬である。
 その目薬は突き目を治すのに用いられた。水仙の球根を夏の土用に掘って黒焼きにし、薬研{やげん}でひいて粉にする。その粉をわら(藁しべ、稲の穂の芯)につめ、目の中めがけてプッと吹きつけると一時、目の中でゴロゴロするがしばらくすると効き目があらわれた。
 農作業や山仕事で目を草や枝先で突く事が多かった当時は、大変有難がられ宮ノ陣、山川、三潴あたりからも治療に通ってきたとのことである。

その後の高来屋: 渡辺(旧姓吉田)種次郎は、明治十一年六月十四日生れ、明治二十七年十五歳でハワイに渡り、帰国するまでの十三年間砂糖畑で働いた。
 明治四十一年十一月二十一日渡辺イソの娘イ子{いね}と結婚。ハワイ生活の名残りで乗馬、水泳が得意だった。
 出嫁ぎの時期としては良い時代で相当財をなして帰国したらしく、当初はお金を借りにくる人が多く貸金業で生活していたが、母からそんな事をして暮すのはよくないと言われ、田畑を購入し現在の家敷を購入した。昭和二十六年、七十三歳で死去。
 親類の人でインドに渡った人もいたが、現地で病を得て亡くなった。その関係で古いインドの硬貨等、珍しいものが残っている。
 「高来屋」にはその他僧正寂源の高良山十景詩歌の由緒ある、写しが桐の箱におさめられて伝えられている。

厨家

 高良山の厨家は、御井町の歴史と共に歩んできた旧家で、初代は座主四十二代の良胤権僧正(天文十年八月寂・一五四一)の弟、良笄権律師である。二代目良運権律師は、座主四十三代鎮興の娘を妻とし、府中の内二十町を領した。五代良春(正徳二年・十月二十二日没・一七一二)の時、初めて厨姓をとなえ、厨彦右衛門と称した。
 厨家は代々高良山座主坊の財務司、または目代{もくだい}役を勤めた。
高良山座主の最後は五十九代厨亮俊である。少年期から仏道帰依の念篤く、十六歳で薙髪、法号を亮俊と称し、仏道修業に入った。嘉永五年(一八五二)二十二歳で比叡山延暦寺に入って修業し、安政六年(一八五九)同山観泉坊の権大僧正となり、元治二年(一八六五)三月高良山蓮台院を兼務し、最後の座主となったのは三十五歳。三十九歳の明治二年八月二十四日は、蓮台院に転住した。しかし廃仏毅釈の時代となり、蓮台院は廃止され、亮俊は還俗して、国分の竹内家に身を寄せ寺小屋を開いた。二、三年後国分、日渡の正福寺に移り寺小屋を継続。明治七年蓮台院は御井寺という名前で復興したので、僧籍を復帰して戻ることとなった。

厨家の墓

 厨家の墓(御井寺)

阿蘇郡黒田村の坊中に、やはり廃仏敦釈で廃寺となっていた雲生山西巌殿寺が法雲寺の名で再興されると、その権僧正に亮俊が迎えられた。しかし西南戦争の最中にその地で非業の死をとげることになるのである。さらに厨家は幕末に御井町には忘れることのできない人物を輩出する。
 厨八郎良秀御井町に出生。民権主義を唱え、大阪へ出て愛国社員となり板垣退助・河野広中らと交遊し、各地を遊説して国会開設の急務を説き、積極的な政治活動を行なった。若い頃から新しいものが好きで、とても時代の先を見るのが上手な人であった。
 帰郷後は郵便局長、御井町初代町長、郡会議員となって、郡村の自治発展に貢献した。
 この間荒地を開墾し、果樹園・種苗園を創設し、自ら耕して農事の啓発活動にあたり、郡の勧業委員または、郡農会副議長に推された。また現在東京在の厨大貮氏によると、養蚕の技師を御井郡に招いて技術を広めたようである。水明荘顛末記にも記したように参道脇の山手は、厨さんのみかん畑だったという。
 なお良秀は高良山同志会の創始者ともいわれている。
 厨家は高良山との結びつきが強いが、一方宗教関係者以外にも様々な人材を輩出した。華岡青洲に学んだ権藤延陵の門下生となった厨順夫、その子で藤山で医療活動や社会活動に尽力した定治郎がいる。
 久留米を中心とした筑後北部の自由民権運動の推進団体で、「千歳会」というのがある。明治十三年八月に発足した政治団体だが、その会員名簿の中には「御井郡御井町・厨幾太郎」の名が見える。自由民権運動で活躍した幾太郎は、大牟田高校の初代校長も勤めたという。幾太郎は別名を良直といい、船曵鉄門の門下生で和歌にも才能を発揮した人であった、良直は書にも秀いで、高樹神社の玉垣、良秀の碑・藤崎氏の碑文も書いたと言われる。
 良直を兄とした良秀が政治の世界に飛び込んだことは容易に相像できる。しかし良直は晩年、高良山の杉を売った金で金山に手を出し、倒産のうき目に会う。
 良直の子が豊で、彼は五高に学び夏目漱石に教えを受けている。五高では剣道部の大将をつとめた程の力量の持主だったが、父の倒産で大学進学を断念して検定で中学教員の免許を取った。豊は、師団で教学を教えていたが、第一次世界大戦後、ドイツ人捕虜が久留米に来たとき、五高で習い覚えたドイツ語で通訳をつとめたという。

御井町の海外移住者

 御井小学校の校長室の書棚に『ブラジル万葉集』という珍しい標題の本が保管されていた。
 その本は、当時ブラジルに在住していた人達の和歌集であった。三十一文字の中に、ブラジルヘ移住していった人達の万感の思いがこめられている。そのような貴重な本を故郷の小学校に送ってくれた人は、ブラジル・ゴヤス州ゴヤニア市カンピナス・セナドル・ジャイメ通り五〇一・渡辺次郎氏であった。
 彼は御井町からブラジルヘ渡り、当地での生活の折り折りに詠んだ和歌を、仲間の人達と共に編集し、『ブラジル万葉集』として刊行したのである。しかし、その本には、一見しただけでもブラジル全土に散らばって暮していると思われる、日系人の歌が載せてあり、どの和歌が御井町と関わりのある人のものであるかも判断できなかったが、渡辺次郎という人の、故郷をなつかしみ、母校の御井小学校へ歌集を送ったその思いに、心を打たれるものがあった。『ブラジル万葉集』が小学校に届いたのもずい分以前のことであるし、渡辺氏が現在もなお、ブラジルに健在であるか否かも判らないまま、氏宛に『町誌』編纂への協力を依頼する手紙を出したのである。
 待つこと数ヶ月、徒労に終るかもしれないと半信半疑であったが、思いもかけず、当の渡辺氏直筆の書簡と共に、一冊の本が送られてきた。
ブラジル・ゴヤス州ゴヤニア市郵便局のスタンプのある航空便は、十月十八日の日付があった。(以下、原文にもとずく)

拝復 手紙は去る八月二十六日に入手披見致しました。この度御井町誌を編纂されるそうで私のような海外に住む者にまでお呼びかけ下さることを有難く存じます。
元々私は無学で今は目が不自由で何も書けませんが折角の事ですから簡単ですが、曲りなりにも書いてお答えします。
渡辺弥作(慶応二年・一八六六生れ)当時四十五歳、妻イサヲ(明治三年・一八七〇生れ)当時四十一歳・長男以下男五名、長女以下女三名の計十名で大正二年(一九一二)三月三日神戸出帆の若狭丸で出発、同年五月十五日サントス着、(中略)………。
渡辺留吉(明治七年・一八七五生れ)当時三十八歳、妻フミ以下男子三人、女子二人の計七名で大正二年九月十二日、神戸出帆の若狭丸で出発、同年十一月三日サントス着・…・。(註・渡辺次郎氏は、留吉氏の二男である)
昭和三十八年に編纂されたゴヤス州邦人発展史と私の書き散らかしの手紙を沿えて送りますから何かの史料が取れましたら幸いです。大変延び延びになりましたので最早や間に合わぬであろうと思いますが、とに角送りました。
昭和六十年十月十八日  ブラジルゴヤニア州  渡辺次郎

と、いうものである。
 次郎氏は明治三十九年九月三日生れとあるので、今年七十九歳である。七歳の誕生日を迎えて九日目に神戸を出帆してブラジルヘ渡った氏は今年でブラジル在住七十二年にもなるのである。
『ゴヤス州邦人発展五十年史』から彼の人となりをひろって、紹介してみよう。

 ツリンダーテ市 牧場 果樹園
 渡 辺 次 郎
 原籍 福岡県久留米市御井町
 渡伯 大正二年九月若狭丸

 次郎氏の奥さんは、次郎さんの手紙の中に記されている「渡辺弥作」氏の末娘チカヲさんである。子供は男子七人。彼はやはり歌人であった。

 浮き沈み 度重ねつもいくとせを
     このブラジルの 土に親しむ

 移り来て 住ふ楽地のブラジルに
     今年いそとせ 迎えて嬉し

渡邊次郎氏家族

渡邊次郎氏家族


 彼が広大なブラジルの大地の、厳しい自然に立ち向って、たくましく生き抜いてこられたというのも、そんな中で常に歌心を持ち続けた精神力に負うところが多いであろう。ブラジルに移住していった人達が、どのようにして未知の土地に定着していったかを、氏の生い立ちを参考にして推測してみよう。
 七歳でブラジルに渡った後、フロレスタ耕地二年、アンゴーラ耕地四年、この六年間のコロノ生活で、鍬をひける少年になり、ラジアード耕地一年、サン・バシーリョ耕地九年の十年間の米作借地農生活で、一人前の農業者となり、結婚する。
 次のサンタ・マリア耕地九年は失敗で、試練の時代に耐え、ツパシガツワ六年時代には、毎年籾六、七千俵を収穫して飛躍の時代であったが、ブラジルでの米作は、収穫が安定しないという考えにたって、ツリンダーデに六十域(一六六ヘクタール、約五十万坪)の農場を建設して牧畜と果樹・蔬菜農場経営をはじめ、ここで定着している。
 ブラジルの地方名は、私達にとってなじみが薄いが、世界地図でさがしてみると、次郎氏の住むゴヤニア市ツリンダーデは、首都ブラジリアの南西約二百キロの地点である。
 話が前後するが、渡辺次郎氏は岡崎市出身の岩瀬さんと共に、昭和三年に邦人としてはじめて、ゴヤス州に進出した初期開拓者で、コーヒーの栽培、牧場の経営、砂糖の生産を手がけた。この農場を基盤に、昭和十三年(一九三八)イコーマス市外(ゴアニア市の北約五十キロ)に二百五十域(約二百十万坪)の渡辺農場を建設し、後年渡辺一家といわれる、ゴヤス州邦人随一の名門となったのである。

{以下家系図}

 渡辺弥作(慶応二年(一八六六)生)(昭和二十八年死亡)
 イサヲ(明治三年(一八七〇)生) (昭和三十三年死亡)
  *渡辺一家は、弥作を筆頭に孫・曽孫を加えると総勢百人位になるであろう。
 重太(大正四年十七才で死亡)
 喜代治(イニューマス市にて牧場経営・昭和五十一年死亡)
 正記(イニューマス市・牧場経営・三男四女)
 寅太(ゴヤニア市・牧場コーヒー園経営・六女四男)
 明(ツリンダーデ市にて果樹・蔬菜園経営・三男四女)
 トキヲ(昭和五十四年死亡)
 キヨノ(不明)
 チカヲ

 渡辺留吉(明治七年(一八七五)生) (昭和十年死亡)
 フミ(昭和二十七年死亡)

 貞男(ゴヤニア市・牧場コーヒー園経営 昭和五十一年死亡)
 次郎
 ――次郎は明治三十九年九月三日生れ、ツリンダーデ市にて牧場・果樹園経営。
   チカヲとの間に七男をもうける。チカヲ昭和五十年五月八日死亡。
 キクヱ(渡辺正記と結婚)
 武次郎(留吉の甥・昭和五十七年死亡)
 マサヨ(フミの姪・結婚後死亡)
                                                                                     

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