第一章 現 代 の 語 部

「第一章」を編集するにあたって、「語部」の会に出席して下さった人の多くは、明治の終わりから大正時代にかけて生まれた人達です。
従って、そこで語られた話は、彼らの子供の頃、すなわち、大正末期から昭和初期(戦前)までの庶民の記録です。もちろん、これがすべてではなく、聞き足りなかった事、書き足りない記録も多いことと思います。
また、各町内のいわゆる「語部」の口述を忠実に再現しましたので、内容の重複、他の町内の話題も掲載されています。

一、朝妻 

朝妻の清水

 国道二一○号線沿いにある朝妻の清水は、昔は今よりももっと湧水量が豊富で、洗濯物も流れ出す程であったという。また魚もたくさん居た。  この朝妻の豊かな清水がいかに村の生活を支えたかという事は、現代では計り知れぬものがあったと思われる。

朝妻の清水

朝妻の清水

戦前までは、近郊の農家もお潮い取りの際にはこの清水を汲んだ。また、豊かな湧き水を利用して農家の大根洗いなども盛んに行われた。大根は「堅粕」が主で朝妻の辻漬物屋さんなどが購入していた。大根洗いのおばさん達は、朝から晩まで働いており、端から見ていて、いつ休むのだろうかと思うほどだった。赤ん坊は這い出さないようにと丸めご(藁縄で丸く編んだもの)に入れられていた。残念ながら、この朝妻の清水も久大線が開通してすぐ上を汽車が走るようになってからは自然崩壊が進み、水量が段々と少なくなっていった。
 国衙跡(国衙は時代とともに国府、府中と名を変えてゆくが)と結びつけて考えてみよう。久留米市教育委員会が出したパンフレットが手もとにある。「横道遺跡・第四次調査、現地説明会資料、昭和六十年九月三十日」の中の解説によると次の如くである。


  推定とことわってあるが、筑後の国府は当初合川町枝光に設置され、十世紀中頃に御井町朝妻に移転し、十一世紀後半頃、(『高良記』によれば一○七三年)、御井町横道(現在・南筑高校々庭)に移転したとある。政治・経済上の理由で移転するのであろうが、移るなら生活のしやすい所がよいわけで、なかでも水の存在は大きかったと想像される。この点、特に朝妻は条件のよい所であったであろう。水が生活に及ぼす決定的な影響は水道の発達した今日からすれば想像以上のものがある。

朝妻のトコロ天

御井町の代表的な名物に朝妻清水館のトコロ天がある。「二丁続きのトコロ天」としても有名で、トコロ天を二丁一緒に押し出すので、このような表現となっている。どうして二丁続きにしたかといういわれも面白い。
 昔、有馬の殿様がおしのびで食べに来られたという。その時、殿様のお食べになるトコロ天に息がかかると失礼になるというので、長い道具を使い二丁一緒についたのが「二丁続きのトコロ天」の始まりといわれている。
 以前の茶店の屋根は、杉皮葺きであった。七、八月の暑い時分には訪れる人も多かったという。店の前にはバンコ(縁台)を出して、そこでトコロ天を食べたのだが、そのバンコは高良山の杉で作る。高良山の杉は腐らず、いつまでも丈夫なので特別に注文して作らせていた。
名物のトコロ天については、通町三丁目にある佐田与平乾物店から取り寄せる。天ぐさを俵入りで買ってきて自家製造したものである。


また清水館は鯉料理も有名で、泥くさくないので近隣では「清水館の鯉でなくては」とまでいわれるほどだが、鯉の仕入れについては次のような話があった。
 水の良いのはいうまでもないが、仕入れの時期が大切で、九月半ばを過ぎた頃からひと冬越して二〜四月までに買っておく。水が暖かくなってからは、清水との温度差が著しい為鯉が死んでしまうからである。鯉屋さんは堤を干した時に集めた鯉を売りに来ていたようである。
次に鯉の餌は、昔は今と違って近郊では養蚕が盛んで、蚕のさなぎを食べさせていた。さなぎは鳥栖の専売、片倉製糸工場などから仕入れていたものだ。
 昔から冷たい豊かな湧水量を誇っていた朝妻の清水は、トコロ天や西瓜を冷やすのにはもってこいの場所であった。この土地はちょうど断層がはしっていて、その断層の崖の下から湧き水が出る。その最大の個所が朝妻の清水であり、木々もうっそうと繁り、涼をとるには最高の場所であった。

七社権現

七 社 権 現

朝妻の七社権現

別名、味清水{うましみず}御井神社とも呼ばれ、『寛延記』―久留米藩庄屋書上―によると、寛延二年(一七四九)十二月、御井郡府中町庄屋の太兵衛が、記録報告したものの中に、次のような一節がある。

朝妻七社―仲哀天皇・神功皇后・国長明神・古母・妙見・乙宮・西宮、往古は七社御座候由承伝候得共、何比より退転致候哉、今は一社も無之候、但清水は高良三泉の内之由申伝候。

 その昔、神功皇后が新羅を攻める時、産気づかれたが帰って来るまでは産むまいと、腹にしっかり帯をまいて朝鮮へ渡り、帰ってくるや誉田別皇子{ほんだわけのみこ}を筑紫の国で生む。高良山に皇子誕生のお礼参拝の途上、朝妻のあたりで水を所望された。お供の者が矢尻で葦の茂みを突くと清水がこんこんと湧き出した。それが今の朝妻の清水であるといわれている。
 味清水神社」の名にある「うま」の意味も神功皇后が、「これはうまい。」といわれたことからついたものだと聞く。
また、女性が妊娠してから岩田帯(五ヶ月目から腹に巻く帯)をするのもそれ以来だというから古い話である。
 この七社権現は、土地の人には「しっちゃら権現さん」と呼ばれている。社の裏に小さな祠があり、そこに祀{まつ}られている狛犬は、柴刈村恵利(現、田主丸町恵利)の八幡宮氏子中から寄進されたものである。
 八月七日は「しっちゃら権現」のよど(注)である。
このよどの賑わいは大変なものであった。野舞台がその日の為に作られ、にわか、浪花節、踊りなどが披露された。夜店も綿菓子、トコロ天、ラムネ、金魚すくい、アイスキャンデーにボンボン等が並んだ。 このよどには三井郡はもとより八女、基山、田主丸あたりからも参拝者が訪れ、特に柴刈村恵利の八幡宮氏子中は、その日の早朝この清水で身を清め、高良山に参拝し帰りにも立寄ってお潮いを汲んで持ち帰った。朝妻の人々は恵利の人たちに高膳で御馳走を出し、接待をしていた。
 当日は高良山から神主さんが来て祝詞{のりと}をあげて神事を司ったことはいうまでもない。(注・夜燈、夜渡とも書き夏祭りのこと)

お仮屋

お仮屋

お仮屋(『南筑高校卒業アルバム』よリ)

 朝妻に頓宮、通称「お仮屋」があった。藁葺き屋根の建物で、三年に一度の御神幸の時に、三体の御輿が一晩休んだところである。 三年に一度しか使われないのにその為に建てられたお仮屋の存在には、現代の我々の想像を越える信仰の世界がある。この中には旗竿や御神幸の際の道具類がしまってあった。昭和四年第三回南筑中学校卒業アルバムにその姿を見ることができる。
 当時お仮屋の傍にひと抱えほどもある松の木が何本も立っていた。木立の中のお仮屋のたたずまいは素晴しい。またこの付近には、神主の休憩所として使われていた家や、一メートル四方位の小さなお堂もあった。しかし戦後は御輿も山から次第に降りて来なくなり、廃屋のようなお仮屋は人が住んだり、鶏小屋になったりして、昭和三十二年頃人手に渡って今は全くその姿をとどめていない。
 高良山おくんち」と深いつながりを持つお仮屋も、時代の流れに逆らえずその姿を消していったのである。

朝妻児童公園

 ここは昔から広場であつた。(「お仮屋」の写真参照)春は花見の場所であリ、正月には火を燃やして左義長{さぎっちょ}(注)をやったり、住民憩いの場所であった。
 戦後間もない昭和二十四年、「東京相撲」が巡業にきた。東京相撲とは現在の日本大相撲協会のことである。
 お仮屋の道路際に大相撲のシンボルである櫓が建ち、夜明けと共に御井町に櫓太鼓が鳴りひびいた。興業主は朝妻で金融業を営んでいた人たちであった。人気大関鏡里、吉葉山、巨人力士の大内山、不動岩など大勢の力士が豪華な化粧まわしをしめて土俵に上り、戦後の暗い気持がまだ抜けない人々の心を明るくした。力士たちは町の有力者の家に分宿した。広手の的場商店の前には、戸板に大きく東京相撲の力士を紹介するポスターが貼られ、学校帰りの子供たちが人気力士の写真を見て、自分の「ひいき」の力士を知っているだけ大声を出して読み合って、知識を自慢していた。力士たちは派手な浴衣姿で中ノ丁の樋口風呂屋へ通っていた。風呂屋のまわりには、相撲取りを一目見ようと、大変な人だかりだった。力士を泊らせた家では、便所の床が抜けはしないかとヒヤヒヤしたという。雲をつく大男たちが浴衣姿で闊歩する様子が目に浮かぶようである。
 この地続きに今は警察アパートが建っているが(昭和四十二年建設)、その北側は崖になっていて当時「めくら落とし」と呼ばれていた。急な崖になっている所はどこでもこう呼ばれていたようで、御井町にも数ヶ所この名で呼ばれている所がある。
 工兵隊が近かったので一時ゴミ捨て場に使われて埋めたてられ、その後久大線が開通してその「めくら落とし」もなくなってしまったのである。
 その久大線に木製の大きなしっかりした橋が掛けられていた。近所のワンパク小僧たちが煙をモクモク吐いて走ってくる汽車の煙突の穴めがけて小石を落としこんで、うまく命中すると手を叩いて喜んでいた。またこの広場には赤ん坊が捨てられたこともあったそうで、昔の庶民の生活の貧しさを物語る話である。(注・下町の左義長を参照)

隈山墓地顛末記

 隈山は地理的に上隈山、中隈山、下隈山と三つに分かれていた。そのうち中隈山墓地はいち早く工兵隊の作業場として利用されることになった。隈山の一部には祗園神社の所有地があった。

上隈山墓地

上隈山墓地(書・尾崎行雄)

 昭和三十八、九年頃、久留米大学商学部が敷地拡張計画を明らかにした。売り手祗園神社からは代表として宮総代、買手の代表には当時の市会議員が立って交渉を開始した。もともと朝妻は隈山墓地に隣接しており、その地域に住んでいる人々には頭の痛い問題であった。つまり朝妻は墓地と共存しているわけで、住宅地としてはもうこれ以上発展は望めないので、墓地を分離することが住民の永年の悲願であった。久留米市と合併する前から、朝妻発展のためには、散らばっている墓地の整理をとかねがね考えられていたが、前述のような計画が起こり、昭和四十年頃に久留米大学との話し合いがついて、祗園神社の持ち分である上隈山の土地を一五〇〇万円で売却した。弘法さんも地域内にあったが、閉眼式、開眼式を取り行なって移転を完了した。現在隈山に行くと移転の顛末を記した記念碑を見ることができる。

北構口{きたかめぐち}

北構口

府中北構口附近(上町)

 上町と旗崎の境を通る水道道{すいどうみち}と、府中の中央を抜けて走る坊の津街道の交差する所にあったのが北構口である。
 松崎(注)に今も残る構口と同様、およそ幅二間、高さ一間ほどのものだったと想像されるが、御影石を積み重ねた石垣が左右に築かれていた。一揆の時には農民がむしろ旗をたててこの構口まで押し寄せた。その後、構口の左右には国旗が立てられた時代もあった。

松崎の北構口

松崎の北構口

 しかし、高良山下宮社(通称祗園さん)の石垣を築く際に、南北両構口の石垣を壊してそれを使ってしまった。その時点で、府中の南北両構口は永久にその姿を消したのである。祗園さんに行けば、それ・・と分かる石が今も組み込まれて現存している。祗園さんの石垣は、緑泥片岩が主体であるから、よく見ると、石段の左右の形のよい御影石がそれ・・だということがすぐ判る。左手に石垣を築いた期日、「明治四十四年六月」右に「府中區」と刻まれている。その当時、文字の中は朱で塗られていたようである。(注・小郡市松崎)

桜島の大爆発

 この事件は古老達が若かりし頃の最も重大な出未事であったようで、頻繁に話の中に登場した。
 大正三年一月十二・三日と爆発、溶岩が大量に流れ出し、大惨事となった。御井町も降灰に見舞われたというから、農作物にもかなり影響が出たことであろう。
 当時の様子を調べてみると、次の如くである。桜島は、北岳(一一一八メートル)、中岳・南岳の三体がほぼ南北に連った複合火山。有史以来、数多く爆発を繰返しているが、文明三年(一四七一)、同七年、八年、寛永十九年(一六四二)、安永八年(一七七九)と大正三年(一九一四)の、六回にわたる噴火は記録的なもので、特に大正三年の噴火は大きく、噴火した溶岩流で八ツの村落が埋没し、その時南東部にあった大隅海峡に溶岩が流れ込んで桜島と大隅半島とは陸続きとなった。
 一月十二日に南岳の東及び西の麓に一列に並んで生じた側火口群が活動を開始し、十三日には多量の溶岩が流出、この噴火の爆音は五百キロメートルの遠方までとどき、降灰は東北地方にまでおよんだ。溶岩流は十一平方キロの面積を覆い、一年三ヶ月後もまだその中心部分は流動するほど高温であった。
 ついでながら昭和二十一年(一九四六)の噴火は、やはり多量の溶岩を北東及び南へ向って流下させた。
 大正三年の噴火については、当時山川招魂社の入口の本家筋に住んでいた本村重太郎さんの記憶によれば、離れのベンガラ塗リの便所の戸が灰で真っ白になり、それに指先で字を書いたのを覚えているとのことであった。

丁切(ちょうぎり)

下町の丁切り

下町の丁切り

 下宮社にある下町の「丁切」ができたのは今から九十年程前のことである。 今年も七月二十一・二日の「ぎおん祭」には九十年前の立派な丁切が子供達も手伝って飾られ祭り気分を盛り上げてくれた。

銭湯

 御井町で最初の風呂屋は、高良山の石鳥居の左手にあった。つづいて二軒目が上町に出来た。三軒目は下町の祗園神社の前に丸山さんのおじいさんが開いた風呂屋である。
 御井町内に三軒の風呂屋が相ついで開店し、当然過当競争となった。石鳥居の脇の風呂屋がまず廃業し、上町が二番目に廃業した。その後永福寺前の横丁に樋口風呂屋が開業し、この銭湯に世話になった思い出を語る人は多い。
 やがて丸山風呂屋も店をしめ、樋口風呂屋が最後まで頑張っていた。昭和四十四年までの営業なので、まだ記憶に新しい。この頃の燃料は廃油で、料金は大人三十円だった。

江藤けっしゃん

 御井町の娯楽の中心ともいうべき、「御井劇場」の持主であった。
 本町ロータリーの角でお菓子屋をやり、「久留米にわか」の始祖という人もいる。また琴平さんの熱心な信者でもあった。
 昼は琴平さんに参り、夜は芝居を見に来んの」というのが口癖であった。自転車にまたがり、ハンドルに乗せたオンボロ太鼓を叩いて、芝居の口上をとなえながら、御井町を中心に周辺の村々にふれ回ったのである。
 次のようなエピソードも残っている。
 ある時御井町に忠魂碑を建設するために町の有志が資金を集めることになった。
 劇場を借り、前売券を発売し、その一部を資金にあてようと考えけっしゃんに相談した。けっしゃんは二つ返事で引受け、大いに協力してくれたという。「世のため、人のため」ともよく言っていたそうで、男気のある人だったのだろう。 また偉い人に対してこびを売ることもなく、目の不自由な人と道で出会うと、手を握って励ます。そういう人でもあった。
 けっしゃんが通ると御井町の人々は皆、窓から顔を出した。あいさつひとつにしてもにわか風で、気さくで、明るい人物であった。

御井劇場

御井劇場

御井劇場の前にて
(馬場治子氏提供)

 旅芸人等がきて芝居をしていた小屋で、上町の現在馬場医院の所にあった。見物席の枡席には座布団が置かれ、両側は桟敷になっていた。森田庄太郎さんという舞台作りの仕事をしていた人が、今も健在で昔の芝居小屋の近くに住んでいる。
 米屋の古賀武三さんが次のような話を語ってくれた。大正十年に南筑中学校が佐藤弥吉さんの私財により創立して間もなく、野球部創立の話が持ち上り、その資金援助をすることになった。発起人は古賀武三さんほか数名である。プランは御井劇場を借りきって旅芸人を呼び三日間興業をさせ、その収益金を寄附しようというものであった。勿論旅芸人達の宿泊は、米屋と旭屋が引き受けた。米屋はもと宿屋であったし、その向いの現在の米屋の駐車場には

南地区中学校野球部

南筑中学校野球部
(『南筑中学卒業アルバム』より)

旭屋旅館があった。しかし興業も成功し資金調達もできたのに、学校側がどうしても受けとらなかった。結局、その時のお金は南筑中学野球部には渡せずじまいであったという。
 この劇場は、映画全盛の時代になると「御井公楽」という映画館になったが、しばらくは畳が敷かれたままだった。


アイスキャンデ屋

 川口正さんという人が昔、久留米大学正門前でラジオ屋をしていた。大学の正門は今と違って高良山と丁度ま向いの所にあった。現在の御井町広手に向かう三叉路の所である。川口さんは今も高良内に住んでいるが、戦前天津へ渡り医療品を商って大成功をおさめた人だということである。戦後彼は大学前でアイスキャンデ屋を開業した。
 菓子らしい菓子のなかった頃の「アイスキャンデ」は甘く、懐しいものである。ゴトン、ゴトンとひびくモーターの音は、町の風物であった。食べられるだけでもありがたい時代であったが、当時のキャンデは赤や黄、緑の彩りも結構美しく、細い棒型の中に箸が入れてあって、持てるようになっていた。またゴムの中に甘い水を入れて冷やし固めたアイスボンボンもあった。店の中にはテーブルがあってその椅子に腰かけてキャンデを食べた思い出を持つ人も多いはずである。 アイスキャンデー
 戦前のアイスキャンデは、氷の中に塩を入れてかきまぜて冷却度を高め、その中にアイスキャンデの材料を入れた円筒状の容器を入れて作リ、出き上った丸棒状のキャンデを包丁で切って売っていた。「氷菓子ィ、氷菓子ィ」と呼びながら、チリン、チリンと鈴を振って売り歩くアイスキャンデ屋から一銭のキャンデを買うのが暑い盛りには楽しみであった。


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