筑後吉井のおひなさまめぐり


「吉井町がどこかを説明する時、日田と久留米の間の町と 言っていたのが、今はおひなさまの吉井で通じるようにな りました」と笑うのは、蔵しっく通りでお菓子やを営むと くどやさん。今や春を告げる風物詩となった占井のおひな さまめぐりの舞台裏には・骨董好きの町の人々の力があり ました。

おひなさまと心づくしで
毎年訪れるファン多し

平成4年のある日、日田の豆田のお雛祭りを取材した帰 りに、テレビ局のプロデューサーがふらりととくどやさん にたちよりました。「自壁土蔵の歴史ある町ですからさぞ, いいお雛様があることでしょうな」とプロデューサー。骨} 董好きでおきあげ雛などをコレクションしていたご主人 は、吉井もお雛様祭りをやろうじゃないかと、骨董仲間に 呼びかけさっそく準備にとりかかりました。各人のコレク ションを、店先にさりげなく飾るといったスタイルでした が、テレビの力は絶大でたくさんの女性たちがどっと吉井 町のお雛様を見におしかけてきました。ところが数もまだ 少なく「あら、これだけ?」と言われたことも。「おひな さまめぐり」には実は幻の0回があったのです。  

ショーウィンドーの中に飾られたお雛様は、娘のために買ったもの。
吉井のお雛様はほこりをかぶっているひまがない。

吉井のおひな様は庶民派

この反響に驚いた町の人々は、お宝探しに一念発起しま す。当時まだ数多く残っていた旧家の蔵の奥は、何がでて くるかわからない玉手箱状態だったといいます。こうして 展示会場だけでなく自分たちが住む家やショーウィンドー を自分の手で飾り、訪れた人々に町をめぐりながら見ても らうという吉井ならではのスタイルができあがり「おひな さまめぐり」は今年で9回を数えます。

旧家に代々伝わる時代雛から、コレクターの自慢の品、 鮮やかにポーズを決めた色鮮やかな置き上げ雛、江戸時代 の箱雛、現代の陶芸などの創作雛。ひとつひとつの表情か らその時代の風情が伝わります。全国的に「おひなさまの 吉井町でしょ」といわれるまでになり、多くの町が吉井に 学んでおひなさまめぐりを始めました。元祖ともいえる吉 井の「おひなさまめぐり」は、宿場町の面影を残す心あた たかい「庶民派」のまま。出会いを大切にしている町の人々 の心づくしが伝わって、毎年はるばると足を運ぶファンが 多い祭りです。

上/会場以外のショーウィンドーにもおひなさまが飾られている。
それをみつけながら歩くのもひとつの楽しみ。
下/もともと病気や災いを祓う入形だったものが、公家の正装をした内裏 雛となったのは元禄の頃。明治時代までは男雛を向かって右、女雛を左に 飾っていた。大正天皇の時代になって西洋風の並び方が取り入れられ、ひ な入形もこれにならって逆になったという。その時代の流行によっておひ なさまの顔や衣装はがらりと変わる。


●吉井しらかべ楽市楽座・蔵しっく通り名物お宝の市

主人の個性あふれた骨董屋の集まる町

多くの人が行き交う宿場町で、近世から明治・大正にかけ 富裕な地主たちがしたたかな勤勉さと金融活動をくりひ ろげていた吉井町。それらの資本をもとに、地方には珍し 文化を育む独特の気風を生み、文学や哲学、芸術を好み、 本当の意味での遊びを知る「粋人」が多いといわれ、はる ばる移り住む芸術家も少なくありません。

 人口1万8千人ぐらいの大きさの町にして、骨董屋が 12件も集まる例は全国的にも珍しいこと。かつて木蝋屋、 造り酒屋、薬問屋と商いを営んできた中川邸の土蔵には今 では個性豊かな3軒の骨董屋が並び、前の通りをいつしか 「蔵しっく通り」と呼ぶようになりました。

白壁通りと蔵しっく通り

 白壁通りが歩行者天国となり、うきは麺対決に人力車も 繰り出す11月の「吉井しらかべ楽市楽座」があり、蔵しっ く通り名物「お宝の市」は、お客さんの要望に応えて年4 回となりました。九州一円から80軒もの骨董屋が集まり、 通りは売り買いの熱気にあふれます。

蔵しつく通りのきっかけとなった中川邸の、築130年の土蔵。おひなさま めぐりでは中川家に伝わるおひなさまが飾られる。 次ページ/要のお宝の市の賑わい。名品、珍品飛び出すオークションも名 物のひとつ。

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