吉井の麺


  吉井町にもかっては疏水の流れの中にたくさんの水車ありました。土地の最も低いところを流れる自然の川に声対して、人工の水路は灌漑のために高いところを通します。 高い用水路から自然の川へと水を落と巣ために早い流れが生まれます。そこで1.3〜5mほどもある南新川と災除川の差を利用し、金川を中心に江戸の中期以降、水車が相次いでがあいついでつくられました。

疏水の早い水の流れ、
水車と上質の小麦が育んだ
吉井の「麺」

最初の水車は大石・長野水道工事で活躍した山崎屋伝七 によって設置された「上唐臼」で、唐臼とは酒をつくるた めの米の精白や小麦の製粉に活躍した水車業の呼び名で す。この水の動力によって、麺をはじめ新しい農産加工物 が次々にうまれました。

粉煙立ちのぼる水車小屋
明治の空前のそうめん景気

明治26年には9基の水車が、10月から3月の酒造が多忙な冬は小麦、 酒蔵が暇な夏は米と効率よく営業し、一昼夜に小麦10表を挽いたり、 遠く城島や朝倉にまで運んだりと、地名のあらわすとおりまさに 「金になる川」でした。酒米の精白などは極上銘酒用だとニ昼夜を要し、 石灰を混ぜて精白を助けるために、糠をとる時には水車小屋から白煙が もうもうと立ち上りました。3m近くあったという水車のきしむ音、落ちる水音、頭の先からつま先まで、粉だらけの男衆たちが白煙の中大声でしゃべり続ける風景も今は昔。戦後、自家製粉機など電気の力にとってかわられ、数力所の水路にその面影を残すだけとなりました。

地元の良い小麦と唐臼に助けられ、明治の中ごろにはそうめん業者は75戸を数え、当時の吉井町の町家のlO軒に1軒を超す多さでした。明治26年の「吉井町是」には「素麺は本庁の特産物にして近年非常の進歩をきたし、毎年小麦の消費だか4500俵、素麺の算出額21万6000斤(130t)」とあり豊前。豊後にまで運ばれていた当時の賑わい振りがうかがわれます。やがて機械化が進むと、ゆらりと天日干しされる手延べそうめんの風景もみられなくなり、今は4社が価性豊かに「吉井の麺」をつくり出しています。

この早い水の流れが動力となって吉井の麺が生まれた。

中国には古くから「索餅(さくべい)」といって小麦をこ ねて長くひも状に延ばし、縄のようにゆでて食べる食べ物 がありました。これが奈良時代に日本に伝わり、宮中で7 月7日にこれを食べる習わしが始まったと伝えられていま す。平安時代、まだそうめんやうどんにわかれる前・麺は むぎなわ(天岐奈渡)と呼ばれていたといいます。

舶来のパスタに勝った
吉井の素麺

どこにも似ていない

その万葉仮名を商品に印しているのは200年七代続く 長尾製麺です。人気TV番組「どっちの料理ショー」のそ うめんvsパスタ対決で全国のそうめんの中から選ばれた 「吉井素麺」が出演者を隠らせ、ついにはパスタを負かし てしまいました。放映中から電話は鳴り続け、買い求める お客さんの車で近所がごったがえしたといいます。 一躍その名を響かせたこの「吉井素麺」は、通常のそう めんと違って油を使っていないために、作り方には「ゆで るのが少々むずかしいです」とあります。「すべての用意 をととのえてそうめんをゆでるのが一番最嵐ゆであがっ たら五分以内に食べる」これがもっとも美味しく食べても らう方法とか。つくる人にr最後の昧をゆだねている」と 笑う七代目の、小麦本来の昧わいや生地をねかせる時問と 熟成の加減に心を砕き手をかける姿勢が、どこにも似てい ない「吉井素麺」をつくり出しました。

時代を超えてよみがえる 幻のラーメン

江戸時代に日本に伝わったと言われるラーメン。今では 日本人の食生活にかかせない一品になっています旧本 初めてラーメンを食べたのは、文献的には水戸光囲公とい うのが定説になっていますが、光囲公にラーメンをふる まった中国・日月の儒学書榮劔が、江戸に向かうまでの6 年間を長崎で過ごし、その間柳川においてラーメンがつく られ食されたという歴史的解釈もあります。「実は江戸に 伝わる以前に、いち早く九州でつくられ食されていたので は」という想いから、鳥志商店では水戸徳川家に残されて いる記録をもとに「幻のラーメン」を今に再現しています。 若い後継者達が全国の麺を食べ歩きながら、温故知新の 姿勢で新しいものをつくりつづけている吉井の製麺業。昔 は威勢よく粉をひいていた水車小屋の跡には水神様が今で も大切に祀られ、町を静かに見守っています。


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