高良の名義
九、磐井の叛乱

「継体天皇二十一年(西暦527年)六月筑紫の国の宮磐井が密かに叛逆を計り隙を窺って居た。大将軍物部大連麁鹿火もののべおおむらじあらかひは勅を受けて下向し、賊将磐井と筑紫御井郡で交戦し、激戦の末遂に磐井を斬った。
其の子葛子が糟屋の 屯倉みやけ を献じて罪を謝したから赦された」ことが「日本書紀」に出て居る。当時の筑紫は筑前・筑後のみでなく非常に廣い地域を指したもので、」其の支配者の権勢の強大であった事は勿論である。
其の頃は我国と新羅との間に屡々問題が起き、磐井の叛逆を企てた二十一年六月にも我国は、 近江毛野臣おうみのけぬのおみ を将とし六萬の大軍を派して朝鮮に渡ったような非常時に際し、磐井は己の地位や地勢を利用し密かに朝鮮と通じて私利を謀って居た。大将軍の磐井討伐に差派せられたのは翌二十二年で、其年十一月十一日磐井は遂に誅に伏したのである。
 磐井の宅址に就いて考察の必要がある。山河によって国県を別たれ、国造くにみやつこ県主あがたぬし、稲置(いなち)等を置かせられしは成務天皇五年(紀元七九五年)であるが、当時の国造の官廰たる国府の所在地は何処であろうか、「現時の御井町を去る十町ばかり西の方枝光の県道の北にフルコフと言える地字ほのけがある。是古国 府うるこうの遺名である事は疑いもない、今も布目の古瓦を多く出している。」(筑後志)と、以って古の国府の跡を知りうると共に、磐井の居宅も御井町附近である事は明らかである。「稲員記」中に「磐井の館跡派高良山大祝おおはうり第宅のまえにある」と記され、「天正年中肥前の龍造寺軍が乱入した時、大祝安常は磐井の古城に城つ、いて防戦した、其の館宅は石の鳥居の南である。とも云って居る。大祝の宅址は今は御井町の鏡山神社となって居るので磐井の館も其の附近で、国府の廰に通勤して居たと見られ、大将軍が攻め落としたのも其処であったに相違ない。
今でも御手洗池から流れ出る小流を磐井川と云うのも是に因んだ名前であろう。
或る人は磐井は「岩に居る」と云う意味で高良山神籠石こうごいしは其の城塞の址であろうと云うが是は如何なるものであろう。

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