高良の名義
四、神世時代

高良神社の祭神を古来武内宿禰として、高良山の指摘考察をすべてそれ以後とするの常であるが、いま少し時代を遡って考える必要はないだろうか。
 現今神社の後方に前方後圓の大古墳がある。神域として猥りに立ち入る事を禁じてあるが明治四十二年十月、当時の宮司阿蘇惟教氏が「高良神社祭神考證」を発行して其の緒言に「近時宮内省諸陵頭、山口理学博士亦当社後方の古墳を一見して、神武天皇御時代の山陵の形也との意見を述べられたり」と記し、其の西南方鷲尾嶽にも大円墳があり、その他山中の各所・高良内・高良台・藤山等からも上代遺跡遺物の多くが発見せられて居る。
 嘗て当社の宮司で且つ国学者史学者として名ある船曳鐡門翁ふなびきてつもんおうは「祭神考證」中に、本社の祭神を彦火々出見尊と皇妃豊玉姫尊と断じ、其学の権威栗田博士も「高良神社祭神考證」中に「(玉垂宮縁起と古事記中の彦火々出見尊の御事蹟とを対照し、前者は後者を混同せる記事なりとし)本社の祭神を彦火々出見尊にあらずとせば、この故事をなんと見るべきや、余故に曰く、本社は高良玉垂命にして即ち天津彦火々出見尊、皇妃豊玉姫尊の二座におはす事明々了々なり」と云い、且つ高良なる地名も尊の故事に基づき、乾珠満珠の乾涸の御徳に基づいて名付けたものと説いている。 彦火々出見尊と、高良山、即ち神代時代と高良山との関係に就いては更に考察すべき多くの事柄が残されている。呼べば応えんと対い立つ官幣小社竈門神社は豊玉姫の妹君なる玉依姫(神武天皇の御母后)を祀り、東北にそそり聳ゆる英彦山神社(官幣中社)の祭神は尊の祖父君たる天忍穂耳尊其の他である。高良山と共に三方鼎立して筑紫平野に臨まれる事も何かの暗示であり、久留米の地名は大久米命から出ていると云う学者の説もその間の消息を物語っている。 彦火々出見尊は天孫瓊々杵尊の御子であらせらるゝ。一日御兄火闌降命ほのすそりみことの釣り針を借りて失われ泣き患いて浜辺をさ迷い給う時、塩士翁に教えられて龍宮に到られ綿津見の計らいにて釣り針を取り返し、其の女豊玉姫を娶り、乾満二珠けんまんにしゅの寶珠を得て帰り給い、荒める兄君を服せられた。斯て豊玉姫に生まれ給いしが神武天皇の御父君なる葺不合尊うがやうきあえずみことである。と云うのが古事記に載った神話の筋である。

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