三二、傳雄僧正

 傳雄は第五十五世の座主である。詩歌に堪能であると共に勤王の志し篤く志士の来たり訪ふ者も多くて豪放磊闊達、頗る古武士の俤があった。其の著「高良玉垂宮略縁起」は寛政元年十月の上梓である。

 高良山新清水に俳聖芭蕉を祀る桃青霊神社の建立せられたのは此の僧正の時である。それは寛政三年(西暦1791年)岡良山(浮羽郡田主丸の産)なる俳人が上京して神祇伯に請い「桃青霊神」との神号をもらって帰国し座主傳雄に謀り、倉富東義其他多数俳人の賛助後援の下に新清水観音堂(現時は豊比盗_社)の傍に一堂を建て寛政八年遷座式を挙行した。其後文政十一年大風の為に大破したのを時の有志相謀って天保二年十一月再建したものが現時の石祠である。

久留米櫛原なる森嘉善の邸で屠腹した寛政三奇士の一人高山彦九郎の入魂であった唐崎常陸介(安芸国竹原の産)は、勤王の同士を巡って屡々足を筑後に運んで居たが、傳雄も亦其の忘れ難い一人で態々久留米の碩学樺島石梁かばしませきりょうと共に高良山に訪うて會飲し共に時勢を豪談した事もあった。二人の間に取り交わした詩歌は数編発見せられて居るが今其の一、二を擧げよう。

蓮豪尊者れんごうそんじゃ(傳雄)に呈するものとして常陸介の詠

武公神徳芙蓉を圧す 踏破す三韓雲万里 巨嶽の当城天突出 大川郭を繞り海宗に朝す 日は彩服に春にて新に国を輝かし 月は金鞍を照し初て封に入る 中に蓮豪有り雄座主たり 豪談総て洪鐘を撞くに似たり

八重垣と云う常陸介の愛硯(現今唐崎家に蔵す)について傳雄のよんだもの

八重垣のむかしを今もみつくきに こゝろをみがく石のすずりりか

常陸介の郷家、竹原五十宮に「忠孝」の二大文字を刻せる大石があり、それの石摺りを傳雄が見てよんだもの

わするなよ千引きの石にかきのこす 君と親とのおもきこゝろを

自得三の物語が産まれたのも此の僧正の時である。殺人の罪を犯した男が高良山に傳雄を訪れ見の振り方を計った、傳雄は此の男を新清水観音堂の堂守となしたが、男は何時か懺悔生活に入り自得と号し、前罪消滅の為に当時荒廃せる観音堂の再建を企画し、近郷を托鉢して資金を集めたが、其の熱意に動かされた久留米方原町紅屋次吉の後援を得て、初一念は達せられてどう宇の再建を遂げ、尚、其の被害者の為に小祠を建てゝ朝夕の勤行を怠らなかった。其の後被害者の遺子は復仇の為に高良山に尋ねて来て自得を探したが、其の崇高な志と、己が亡父の菩提を弔える奇特の行に心を翻して其の儘立ち帰った。(筑後第十三号)と、現今新清水豊比盗_社には石灯籠・欄干などに「自得」と刻した遺物が多く、其の東方一町許りの山中に「自得さんの墓」と傳えられる無縫塔が存る。矢田宮司は昭和八年八月、此の自得さんの慰霊祭を行ったと。

傳雄は老いて徳壽院に遁れたが、其の院の本尊は後深草天皇の勅願に関わる善光寺分身如来であった。其の像は丈一尺の銅像で、後極楽寺に移したが、維新の際同寺廃亡し、今は御井寺に安置されて居る。

歌は出雲八重垣連歌は甲斐の酒折の社、俳諧は筑紫の高良山に、桃青霊神在して、永く風流のみちを守護し給ふ。

いまよりはぬさともならん枯れ尾花 

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