二七、尊能権僧正

尊能は戦国の頃より人心荒廃し、山風も極度に堕落したのを嘆き、更新の望みを立てて自ら持戒堅固の範を示さんとし、今まで妻帯挟児の舅慣ありしを改めて聖体の僧となり、専心台学を修めて道徳堅固の聞こえ高く、遂に権僧正の位にまで昇った。

尊能には無論子が無かった。次の座主玄俊は其の甥であり、四十八世玄逸は玄俊の甥である。それ等の継嗣に就いて一説に次のような事が伝えられている。

 尊能に二人の兄があり、作兵衛・左太夫と称えて居た。左太夫の子は江戸に出て南正坊の弟子となり太部卿と号して居たが、尊能の寂後左太夫は太部卿をして其の跡を嗣しめんとしたが将軍は作兵衛が子信兄をして座主職となした。依て左太夫父子は不平の餘り種々の悪逆を企て不穏の挙動が多かったので左太夫父子を召し取らせ一室に押し込んで居たが、後星野(八女郡)なる土穴と云う所で斬罪に処せようとしたが、太部卿は逃げて行方を晦まし、左太夫のみ其処で誅された(語鏡草案)と、然らば此の信兄が四十七世座主玄俊であろう。次の座主玄逸は本智坊とも云う其の甥である。此処に至って所謂神裔丹波氏の血統は絶え、第四十九世秀賀からは直接日光門主の任命した座主が赴任して一山の僧務を執り、以って明治の初年に至ったのである。

首春昧爽上高良山

紅霞東湧曉光明   作雨北晴春色平

十五羊腸溪淡碧   知神正受我丹誠

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