吉見嶽の陣
二五、吉見嶽の陣

三十五万の大兵を自ら督して九州征伐を企てた豊臣秀吉は、天正十五年三月朔日大阪をを出発海路九州に入り、四月五日秋月(朝倉郡)に陣するや、富田左近将監・奥川佐渡守を将として高良山に遣わしたが、高良山では此の使者を迎えるに快くなかった。二将は山中に攻め入り座主の門前に火を放ったので、社人衆徒は驚いて罪を謝した。依って十一日秀吉は軍を進めて吉見嶽(高良山の支城、初め輪形が築いたとも云われ、又、天文の頃八尋式部が城主となったとも伝えられる)に本陣を移した。座主麟圭は大祝保貞・大宮司孝直等と共に秀吉に謁したが、隙を見て事をなさんと各々着衣の下に腹巻を着込んで居たが秀吉に看破せられ悉く其の領地を没収されてしまった。

 立花・竜造寺等を先鋒として十三日吉見嶽を発して肥後に向った秀吉は、島津義久を下して九州平定の素志を遂げ、六月一日薩摩より軍を発して八代・熊本・難関を経、六日高良山に陣して翌七日筑前箱崎に着いて大いに論功行賞を行い、小早川秀秋に御井・御原・山本・竹野・生葉五郡の内八万八千七百七十石を筑前十五郡肥前の内二郡と併せ総て廿二郡を與えて筑前名島城に居らしめ、毛利秀包二山本郡の内十村、御井郡の内五村、上妻郡の内三十八村、三潴郡の内十村。計六十三村三万五千石を與えて久留米城に留め、立花宗茂二十三万百お餘石を與えて柳河城に、其の他三池鎮実・高橋直次・筑紫廣門等にも各分與して筑後一円の処分を附けたが、秀包には特に一千石を神領して高良山に寄附すべき由命じた。然して其の神領一千石の配当は次ぎの様である。

 座主五百八十三石餘、大祝十五石餘、大宮司五十餘石、明静院百十六石餘、円光坊二十一石餘、知泉坊同、南照坊同、普門院同、浄楽坊十九石餘、円鏡坊十八石餘、千如坊十六石餘、知城坊十五石餘、理性坊十四石餘、延壽坊十三石餘、残五十餘石は神前番役の承士・勾当五人・惣仙当・検校・鍛冶・番匠等(筑後志略)

       ○

      藤井完閑斎

目次へ 二六、麟圭殺さるへ