戦国時代
二二、戦国時代

永禄・元亀・天正の所謂戦国の末期に於ての大争乱は全国的ではあったが、此の時九州に於いては豊後の大友・肥前の竜造寺りゅうぞうじ薩摩さつまの島津の三大豪が鼎立ていりつして雄を争い、無数の小豪は各々其の配下として一身の安全を期しつゝも互いに呑噬どんぜいを事として干戈の絶え間もなかった。従って高良山に於いても附近の小豪族の小競り合いは屡々繰り返されて居たが、永禄七年(西暦1564年)豊後の大友宗麟は遂に筑後に侵入し、草野を初め途々の小豪を降し、高良山を本陣として次第に附近を併せたが、此頃肥前竜造寺隆信も漸く強大、屡々筑後川を渡って三潴地方より東方へ羽翼うよくを伸ばして来た。従って両雄の争覇戦は演ぜられない筈はない。永禄十二年春、宗麟そうりんは自ら六万の大軍を率いて豊後を発し、高良山吉見だけを本陣とし、戸次・臼杵・吉弘等の大将をして先ず千栗(筑後川は当時長門石・千栗ちりくの間を迂回していた。)附近から肥前に攻め入らせたが勝敗は決せず、翌元亀元年三月更に十万の大軍を擁して隆信に当たって敗れ軍を還したが、其の時も宗麟の本陣は高良山であり、座主良寛ざすりょうかんは東久留米城に、大祝安常おおいわいやすつねは東光寺城に出張して宗麟のために尽くすところがあった。

 時に島津は次第に北上して大友の領地を侵して来た。天正六年(西暦1578年)大友は島津征伐の為日向に向って出発したが、高良山に於いては座主良寛以下大祝等も是に属し留守を弟麟圭りんけいに託して其の軍に参加したが、麟圭は先に西久留米城(篠山城の前身)に居たこともあり肥前とは僅かに一水を隔てゝ相接する関係上、且つは寛が大友の保護を受けつゝあるを己は是に克たんが為の野心により、竜造寺に通じて兄弟各々従属するところを異にして居た。時日向耳川の戦いで大友軍は大敗し、座主以下戦死の取り沙汰が高良山に届いた。麟圭は好機逸すべからずと直ちに座主職を横領したが、戦後良寛は逃れて黒木(八女郡)なる猫尾城まで引き上げたが、高良山では既に圭が座主職を奪うと聞いた。高良山では寛が大友に訴えて人数を差し向けると云う噂が立った。圭は聞いて大いに驚き肥前に逃げて隆信を頼った。其の間に寛は帰山して復職したが竜造寺軍襲来の噂に驚き豊後に走って大友に身を託した。圭は山に帰り座主職に複し以後は竜造寺の為に尽くす所があり、翌七年十一月、筑後攻伐の折は隆信は高良山を本陣として東征西伐、遂に筑後一円肥後の北部を従えて重臣鍋島信生なべしまのぶお(直茂)を三潴郡酒見城に留めて筑後を監視せしめ、自らは十二月三日高良山の陣を払って肥前佐賀城に帰った。

 耳川の戦後島津は愈々北進、西部に於いては遂に竜造寺と境を接したが、同八年九月両雄は肥後高瀬川(菊池川)を以って領界とする和平成立して小康を得しも、大友は部下戸次道雪・高橋紹運の両将をして頽勢の回復を企てゝ両筑の小豪を攻伐させたが、同九年九月隆信は是に抗せんとし三万の大軍を率いて三潴郡住吉に屯して附近を討ち、遂に久留米城を攻落し軍を勧めて高良山に陣し、一時大友に奪われし筑後の地は再び隆信の配下に複したが、高良山社人の中には密に心を大友に寄せて竊かに心を大友に寄せて舊誼を守って居た者が多かった。

  ○  屏風山押し寄せて行く時雨かな  些尺

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