高良山物語

倉富了一著

一、高良山

高良山は高牟礼山たかむれやま不濡山ぬれせぬやま、または青山とも言い、

詩人は寶山とも呼ぶ水縄山脈西端の一峰である。水縄山は耳納又は箕尾或は蓑尾などと書かれ、古くは足代山とも称されたが、文人は其の形を讃して九一九峰とも屏風山とも錦屏山とも云っているのはみな其の蜿蜒たる山頂の一の字形なる形状から名付けたるものである。
九州山脈の一分派で、浮羽郡の東部より起こり、筑紫二郎の称ある筑後川と略並行して、西走すること七里、浮羽三井両郡における筑紫平野の南部を限っている中央部浮羽郡水縄村なる鷹取峠の802米余を最高とし東西共に次第に低く西部は三井郡草野町なる発心山にて691米余、同郡山本村の頂上で367・9米、然して高良山中の最高峰毘沙門嶽では312・3米、それより急激に低下し御井町付近でまったく平地と溶け合っているかくのごとく高良山は高さにおいては僅かに312米余の一小峰に過ぎないが、足一度此の山顛を踏まんか、脚下に展開する国内屈指の筑紫大平野を睥睨し、遠くは竈門・背振り・杵島・雲仙など筑肥の山々と相対し、銀蛇の如き筑後川、盆水の如き有明海を俯瞰すれば、如何に此の山が王座の位置を占め居るかも頷かれる。高良山とは昔から現今の高良神社の鎮座まします地域のみを指して来たものであろうか。
「抑々高良山は近国第一の大山にて、中にも一の岳二の岳とて、日月光を避け、象緯頂に逼り」(陰徳太平記)と云い「向上(みあぐ)れば屏風峨々として、鳥ならでは翔りがたく、直下(見下ろ)せば三載の小児も戈を把て萬侶を拒ぐべし」(続太平記)等と言っているのを見て、山の形容が強ち誇張の修辞のみであると独断することは早計である。
一の嶽とは高良内村なる明星嶽を指したもので、二の嶽即ち現在の高良山である。以って「屏風峨々」たる形容も明星嶽と見れば決して不当の修辞でないことは明らかであると共に、更に是等から推して往時高良川と称したものは、現在よりも頗る廣い地域を指し、南方の飛嶽(高津荒木村、223・6米)から明星嶽(362・4米)寺尾山等までを含んだ一帯の地域を云ったものであると言わねばならない。
高良内と云う地名に就き矢野一貞翁は「内とは如何なる義にや考え得ず、強いて云わば是も武内宿禰の内に由緒ありて聞こゆ」と言っているが、是も明星嶽や現在の高良山、即ち廣い意味に於ける昔の「高良山の内の村」と云う義に解すれば少しの無理もなく解決されることになる。従って中世に所謂「高良山城」又は太平記の所謂「高良山の神」なども、決して単純な一箇所能代を指したものでなく、毘沙門嶽・杉城・明星嶽城・鶴ヶ城・吉見嶽城・東光寺城等、多くの端城までを包含した廣い地域の総称であったと考えることが穏当であろう。

高良秋月           樺島公禮

神のますたからの山の高根より  かげすみのぼる秋の夜の月

見渡せばちかき久留米の里ばかり  けさはさしたる朝日影かな  大隈言道

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