元の襲来
一八、元の襲来

 文永五年(西暦1268年)元使潘阜が国書を大宰府に提出してより、我国は俄かに対外国の非常時局となったのであるが、朝廷は勅使を全国二十三社二派して国難来を訴え給い、時の執権北条時宗は令を発して海防を厳にし、九国二島の総営たる大宰府は地方の豪族に命じて元襲来の準備に着手させた。
此の時九州の大勢力たる高良山の有様は如何であったか。
蒙古調伏の為諸社諸山をして祈祷せしむべく勅使三位中将光房は勅旨を奉じて高良山を訪れ、左の仰文を大祝安舒に下された。
 天下の天下たるは高良の高良たるが故なり。大明神の明文に任せ、九州諸社は末社た  れば、九国社に集まり、家衆は神前に於いて太神楽修行さるべきの所、件の如し
   文永五年八月四日             内大臣則良在判
勅使は又座主四十四世良覚に対し、異国降伏の祈祷を修する事、並びに九州諸寺の本寺たるべきの綸旨を伝え、併せて権僧正の位を贈られた。
斯くて社家一同は大神楽を、衆徒居一同は真讀大般若経の熱祷に蒙古調伏の勤修に勤めて居たが堂十一年愈々襲来に際しては高良山五姓氏の一にして神代(山川村)に館する元の武官領家神代良忠は当時九州一の難所と呼ばれた筑後川神代の渡しに浮橋(船橋か)を架けて肥薩日隅の諸軍をを渡し

将軍家政所

 博多の津に於いて、去る文永十一年蒙古襲来の刻、肥後・薩摩・日州・隅州の諸軍馳参 の砌、筑後川神代の浮橋は九州第一の難所の処、神代良忠調略を以って諸軍轍内渡り、 蒙古退治の事、偏に玉垂宮の冥慮、扶桑永代安利たるの由仰する所、件の如し。
   建冶元年 十月廿九日

と云う感状を相模守時宗が贈った事は餘りにも有名な事であるが、良忠を始め高良社人の人々は急行して蒙古の撃退に努め、次いで弘安四年(西暦1281年)再度の襲来に於いても博多の濱に奮戦し、一山の社家衆徒は降伏の熱祷を勧修した。
斯くて神風起こり八月朔日十萬の元軍は全滅して国威は愈々盛んとなったが、前の座主量覚は文永八年七月入寂、良信第二十八世を継いで居たが、弘安四年十一月異国調伏の功勢によって権僧正の位を贈らせられた。

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