堂舎の増建
一六、堂舎の増建

隆慶が高隆寺を建てた後、奥の院に毘沙門堂、北谷に正覚寺を建てゝ弥陀三尊を安じたが、其の後上洛、白鳳十三年帰山の後観音寺を北麓御堂島に起こしたのを初め、三昧堂、薬師堂、寶塔院・千手堂等を建立し、遷化の後は巨石比丘なる者が其の墓側に妙音寺を建てた。三世慶賀は鐘楼・門廓を作って景観も次第に整い老いて明静院を建てゝ隠居したが、此の院は座主に次ぐ有力の支院であった。
現時参道の中途「十三町」標石から左に入る長い二列の杉並木は其の入り口であった。
五世仁勢は中院を、六世照鏡は今長谷及西麓国分に毘沙門堂を、七世堂叡は六地蔵(浄満寺)を、八世宗照は虚空蔵(観行院)を、九星與覚は、富住寺、不動堂(共に俗に云う一間茶屋に建つ、今茶屋はなく孟宗藪になって居る。石段下南の突き当たり)を、尚貞観十五年(紀元873年)八月十五日本地堂を社壇のうちに建て釈迦・弥陀・観音の三像を安置した。是は本地埀迹を唱える座主家の縁起では、玉垂宮の祭神三体のうち、中宮の玉垂命の本地を勢至菩薩観音或は十一面観音、左宮は八幡大菩薩で本地は釈迦牟佛、右官は住吉大明神で本地は阿弥陀如来と云ったからである。
 十世惣覚は惣寺院を、十一世宜圓は護摩堂を建て、十二世叡竿は講堂を建てゝ法華・金光明・仁王の三会を修する事になったが、是は佛事方面に於ける最も盛んな式会が行われて居た。十三世聖慶は満願寺、十四世安邏は東光寺、十五世観春は薬師堂、十六世観隆は正貴院・医王院、十七世仁照は大日塔、十八世永春は中谷の薬師堂、二十世良憲は阿志岐の薬師堂、二十四世尊覚は如意輪堂、二十五世良覚は弘長寺を建立した。
此の間は五六百年の長い間の事である。早いのは既に廃滅したのもあり、改築したのも移転したのもあるに相違ないが、本坊から分かれた子院は更に子院を産み、峰々谷々麓まで梵刹の甍に覆われ読経の声や鉦鼓の響きは夜を日についで物凄い許りであった。今「高良山諸堂記」によって堂舎名を列記すれば左のようである。
本地堂、大日堂、鐘楼、同行堂、北院、辻堂、千手堂、医王院、百塔薬師堂、北谷薬師 堂、算所観音堂、毘沙門堂、高隆寺の鐘楼、寶蔵寺、高隆寺、弥勒寺、寶塔院、不動堂 、富住時、中院、勢至堂、弘長寺、観音寺、勤行院、先三昧堂、正体院、正覚寺、真諦 院、惣持院、浄福寺、地蔵堂、東光寺、虚空蔵堂、妙見堂、道場、蓮花寺、不動堂、極 楽寺、妙音寺、岩瀬薬師 右は何時頃書いたかのか不明であるが寶蔵時以上の十四個堂は「或は損し、或は僅かに其の容を残す」と云い、高隆寺以下廿六個寺は「僅かに基址を遺す」と附記している。「御井寺記録」には「毛利秀包が秀吉朱印の旨に任せ一千石を寄附した頃は三十一坊あり、田中吉政は慶長六年(紀元1601年)十二院に限定した」とある、尚同書中幕末頃は「座主本坊、衆徒明静院、延壽院、文殊院、圓明院、経蔵院、普門院、惣持院、真如院,一音院、徳壽院、千如坊、極楽寺の大小堂、山上山下に散在してその高隆なる実に鎮西無比の法窟たり」とかいてある。

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