高良の名義
一一、玉垂宮神考

高良玉垂宮の祭神玉垂命は武内宿禰であると云われ、玉垂宮大祝家所蔵の「玉垂宮縁起」にも、高良山座主家所蔵の縁起にも、高良山第五十五世伝雄の著した「高良玉垂宮略縁起」にも、其の他多くの中にも同様に記されてある。
従って俗間でも玉垂命即ち武内宿禰と普く信ぜられて居た。併し学者の間には是に疑問を抱いて綿津見神(海神)説、藤大臣連保説、阿曇磯良麻呂説、神功皇后説、物部膽咋公説、国乳別皇子説等、多くの異説を述べているが、近来最も有力の説として重んぜられるのは、彦火々出見尊説である。
嘗て高良神社の宮司であった阿蘇惟教氏は明治四十二年十月「高良神社祭神考證」を出版し、船曳鐵門翁と栗田寛博士との両説を採録して、両氏の彦火々出見尊祭神説を肯定し
 故船曳氏及故栗田博士の意見を以て批判穏健引證該博意見妥当なるものと思考し、諸大家の示教を乞わんため、之を印刷に附せしむるものなり。

と緒言の中に云っている。然して其の二氏の説なるものは詳細を極め相当の長文であるが、其の要を摘出すれば

船曳氏の説(明治二十一年)
縁起には祭神玉垂命を武内宿禰と云っているが、是は附会の説で彦火々出見尊と妃豊玉姫尊である。玉垂とは古事記にある豊玉姫が尊を見られて詠ませられた御歌「赤玉は緒さへひかれど白玉の、君が粧ひし貴くもありけり」により、玉照の尊称は起こり、たまてり転じてたまたりとなったもので、古縁起に犬鉾の事を三韓王のことから起こったようにしているのも、実は尊の御兄火酢芹命ほのすせりみことの故事から来たものである。然し武内宿禰も相殿に鎮まってある確證は「民部省図帳残闕」の本文は

 筑後国高良玉垂宮(中略)祭る所玉垂命なり。天平年中武内宿禰荒木田襲津彦を相殿と 為す(大宰府内志) と、以て玉垂命は武内宿禰とは別人で、武内は天平年中(西暦740年頃)荒木田襲津彦と共に相殿に祀ったことが明らかである。故に氏の結論は玉垂宮の祭神は玉垂宮命で、玉垂宮命は地神第三代彦火々出見尊、並びに合祀されて居た豊姫は妃豊玉姫尊で、後年武内宿禰を相殿に祀ったものであると云うことになる。
尚、荒木田襲津彦につき同氏は
 駿河風土記にも荒木田襲津彦とあり、神名式なる伊賀国荒木神社は此人を合わせ祀った もので、御井郡上津荒木から毎年子日松を本社に献る古代からの習慣がある、故に荒木 と云う地名も此人に由緒あることであろう。
と、次に栗田博士の説(明治三十年二月)
中古以来佛法盛で神名に佛号をつけなどして神名が失われた事、神社に主として祭った 神名が隠れて配亭の神のみ顕はれ主客転倒して神名を失わしめた事、上世のことを後代 の事と混同した事、以上が今日神名の明瞭を缺かしめた理由で、高良神社も縁起などに 武内宿禰を主神のように云って居るが、実は武内は神功皇后を輔すけて征韓の役に大功 を立て天下の人皆是を知る所から、本社にも玉垂宮命即ち彦火々出見尊の外に武内を配したのが、遂に主客転倒して本格の神と云うようになった事は「民武省図帳残編」に明らかである。
縁起中にある三韓征伐当時の乾満二珠の事は神代のの昔、彦火々出見尊が海神から授けられ火闌命を服せしめられた故事と混同したもの、其他縁起の記事は全く古事記の彦火々出見尊の御事である。是等から推して玉垂宮の祭神は彦火々出見尊と妃 豊玉姫尊で、高良の地名も実は河原即ち乾涸の意味で水ある所の両岸等に水の来ない所を名付けたもので、此の尊の乾涸の徳を称えて海神の干満二珠に由或る神の在す地に名付けたものであろう。
又、高良山中武内宿禰の廟所或る如く云うひともあるが武内は既に因幡国宇倍神社に祀られてあるし、 大祝家も武内の裔と云うが、実は物部連の裔で武内とは関係ない。神籠石も武内とは何の関連もなく或は彦火々出見尊の神霊を此の内に留め給うた処ではないだろうか云々。


 ○  

高良山        仙崖

高良山上玉垂宮    天連石屏地勢雄

寂爾松杉神所在    西征長仰止戈功

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