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大善寺校区の文化財

文化財

大善寺という地名は、大善寺玉垂宮に因んで名づけられたものです。大善寺校区の真ん中を広川が流れ、校区西側には九州一の大河筑後川が接してます。 土地は低く、昭和28年の大洪水後に堤防が改修されるまで、毎年のように水害に悩まされていました。また、川の水面が低いために農業用水を汲み上げるのが難しい土地でした。 その反面、水運の使は良く、玉垂宮下まで舟が航行でき西小路には船着き場がありました。おそらく古くから舟が行来して、筑後川から有明海へ抜け、中国大陸や朝鮮半島と交流があったことでしょう。


弥生時代の遺跡

道蔵遺跡などでは弥生時代の環濠集落の跡が見つかっています。ここからは青銅製品が出土するなど、勢力の強いムラであったことがわかります。墓地は道蔵遺跡や中寺遺跡などで 書棺墓が見つかっています。古墳時代には、御塚・権現塚・銚子塚といった大きな前方後円墳・円墳をはじめ、「イロハ塚」と呼ばれるたくさんの吉墳があったといいます。『日本書紀』には、この地方を拠点に活躍していた豪族水沼君の名前があり、大きな古墳は、水沼君の墓だったものと思われます。
飛鳥時代には、大善寺が造られたと伝えられ、玉垂宮とあわせて三瀦地方の信仰の中心となりました。御供田遺跡などでは奈良時代のムラが栄え、道蔵遺跡には 三瀦郡の役所がつくられました。乙名塚は、良吏として名高い筑後国守道君首名の墓と伝えられます。 平安時代には、天神免遺跡に豪族の館が造られます。

鎌倉時代になると、荊津館跡・高倉遺跡から、中国の輸入品がたくさん出ています。このころ朝日寺もつくられています。
室町時代には人々の間で地蔵信仰が盛んになりました。称名院や中島には、こ御塚・権現塚古墳出土土器のころ作られた板碑が残っています。このように大善寺校区には、 たくさんの古い文化財があるわけです。まだまだわからない謎もたくさんあります。
さあ、あなたもこの文化財マップを片手に、フラッとちよっとした時間旅行へ出かけてみませんか?

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